フレデリク=ヘンドリクの娘たち

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Johannes Mijtens (1666) フレデリク=ヘンドリクの4人の娘 In Wikimedia Commons

オランイェ公フレデリク=ヘンドリクと妃アマーリアの間に生まれ、長じた娘は4人。活躍した時期は八十年戦争後であること、それぞれ共通点も多くまとめたほうがわかりやすいことの2点から、少々長いですが一本の記事としました。

一人息子のウィレム二世も加え、両親が恋愛結婚だったにも関わらず、5人全員が政略結婚をしています。といっても父フレデリク=ヘンドリクが高齢のため、その結婚を見届けられたのは長男長女の2人のみです。娘たちは全員、当時としてはめずらしく自ら進んで政治や外交に介入し、国際社会での影響力もありました。ナッサウ家の男子は兄弟従兄弟皆仲が良いですが、彼女たち姉妹も非常に結びつきが強く、それぞれの結婚後も密に連絡を取り合っては互いに協力していました。また、やはり両親の影響で芸術や建築に造詣が深く、婚家から贈られた領地にそれぞれ「オランイェ」の名を冠した宮殿を建設しています。

リファレンス

ルイーゼ=ヘンリエッテ・ファン・オランイェ=ナッサウ Louise Henriëtte van Nassau

C J van Ceulen Luise Henriette von Oranien

Cornelis Janssens van Ceulen (1650) In Wikimedia Commons

  • オランイェ公女 Prinses van Oranje、ナッサウ女伯 Gravin van Nassau、ブランデンブルク選帝侯妃 Kurfürstin von Brandenburg
  • 生年: 1627/12/7 ハーグ(蘭)
  • 没年/埋葬地: 1667/6/18 ベルリン/ベルリン大聖堂(独)

生涯

母アマーリアの上昇志向と政略結婚計画のいちばんの影響を受けてしまった長女。1642年に兄ウィレム二世がイングランド王女メアリと結婚したことを受け、ルイーゼ=ヘンリエッテとイングランド王太子チャールズの縁談も持ち上がりました。ルイーゼ=ヘンリエッテは、伯母シャルロット=ブラバンティナの孫にあたるアンリ=シャルル・ド・ラ=トレモワイユ(1638年、18歳でフレデリク=ヘンドリクの軍隊に士官)と恋愛関係にありましたが、それを無理矢理引き裂かれています。イングランドとの縁談は立ち消えとなり、さらにフリースラント州総督ウィレム=フレデリクからの求婚を母アマーリアが断った後、1646年にブランデンブルク選帝侯フリードリヒ=ヴィルヘルムと結婚することになります。が、フリードリヒ=ヴィルヘルム自身も、スウェーデン女王クリスティナやボヘミア王女(プファルツ選帝侯女)ルイーゼ=オランディーヌとの縁談が破談になった後で、互いに最終的に行きついた政略結婚の先でした。結婚後、夫の親友ナッサウ=ジーゲン伯ヨハン=マウリッツが代官を務めるクレーフェで1年ほど新婚生活を送っています。

ブランデンブルクに移り住んでから、ルイーゼ=ヘンリエッテは積極的に夫の政務を助けます。領内の視察や外交訪問のときだけではなく戦場にも同行し、常に助言を与えていました。また、ポーランド王妃とは独自に交渉を行い、ブランデンブルク=プロイセンをポーランド宗主下から脱させるヴェーラウ条約(1657年)にも一役買っています。

しかしこのようにヨーロッパ中を駆け回ったせいか病気がちとなり、長患いの末に40歳を目前に病死しました。フリードリヒ=ヴィルヘルムはその死を惜しんで非常に落胆したとのことです。(1年後には再婚してますが…)。息子に、初代プロイセン王となるフリードリヒ三世がいます。

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Das Oranienburger Schloss In Wikimedia Commons

ベルリン近郊のオラニエンブルクに建てられたオラニエンブルク宮。夫フリードリヒ=ヴィルヘルムから街ごと贈られたもので、ヨーロッパ初の陶器博物館でもあったとか。ほかにも、ヨハン=マウリッツの影響もあり、ベルリンでルストガルテンの建築にも携わっています。ブルクは「城塞」の意。

アルベルティーネ=アグネス・ファン・オランイェ=ナッサウ Albertine Agnes van Nassau

1634 Albertina Agnes

Unknown (around 1650) In Wikimedia Commons

  • オランイェ公女 Prinses van Oranje、ナッサウ女伯 Gravin van Nassau
  • 生年: 1634/4/9 ハーグ(蘭)
  • 没年: 1696/5/24 オランイェワウト(蘭)

生涯

アルベルティーネ=アグネスは、長姉ルイーゼ=ヘンリエッテへの求婚時には相手にもされなかったフリースラント州総督ナッサウ=ディーツ伯ウィレム=フレデリクと結婚します。ウィレム=フレデリクは親族(又従兄)のうえ、家格も低く、母アマーリアの政略結婚のリストには全く入っていない相手でした。しかし、1650年に兄のウィレム二世が天然痘で急死して「第一次無州総督時代」に入り、オランイェ家は急速に共和国の表舞台から排除されていきます。このように状況が一変したこともあり、一族の結束のため、急遽縁組が取り決められました。アルベルティーネ=アグネスにとっては20歳も年上の相手です。

結果論からいうと、この又従兄妹(ウィレム一世とその次弟ヤン六世それぞれの孫)同士の結婚によって本流傍流の血統が結びつき、さらに本家のウィレム三世が嗣子なく没したことによって、彼らの孫がオランイェ公を継ぎ、現在のオランダ王家までつながっていくことになりました。もちろんこの時点でこんなことまでが想定されていたわけではなく、どちらかといえば、ウィレム=フレデリクへの監視や牽制のようなものでした。実際、アルベルティーネ=アグネスは姉妹の中でも唯一オランダ国内に嫁いだので、母アマーリアが頻繁にフリースラントやフロニンゲンを訪れ、ウィレム=フレデリクはやや居心地の悪い思いをしたようです。

アルベルティーネ=アグネスがその本領を発揮したのも、夫ウィレム=フレデリクの死後です。ミュンスター司教、通称「爆弾野郎」ベルンハルト・フォン・ガーレンの国境侵犯(1664年)の時には、ウィレム=フレデリクがこれを撃退するも、銃の暴発で事故死してしまいます。この後さらにミュンスター司教領とは二度にわたり戦争となりますが(第二次英蘭戦争に乗じた1665年の第一次ミュンスター戦争・オランダ侵略戦争に乗じた1672年の第二次ミュンスター戦争)、摂政を務めていたアルベルティーネ=アグネスがこれを撃退するために奔走しました。とくに第二次ではフリースラントの「洪水線」を用いる決定を下し、オランダ侵略戦争の指揮をとる甥ウィレム三世の洪水線戦術をも後押ししたといわれています。

息子ヘンドリク二世カシミールが成人する1675年まで摂政を務めたアルベルティーネ=アグネスですが、彼女自身が有能な為政者だったこと、何かにつけて甥のウィレム三世と息子を比べたことから、ヘンドリク二世カシミールはもともとの病弱に加え僻みっぽく無気力に育ってしまったようです。そしてアルベルティーネ=アグネス自身の死のわずか2ヶ月前に、この一人息子にも先立たれてしまっています。

Diez Oranienstein

Schloss Oranienstein, Diez In Wikimedia Commons

夫の領地ディーツに建てられたオラニエンシュタイン宮。ほかにもフリースラントに土地を購入してオランイェワルトと名づけ、オランイェワルト宮も建設しています。シュタインは「岩」、ワルトは「森」の意。

ヘンリエッテ=カタリナ・ファン・オランイェ=ナッサウ Henriëtte Catharina van Nassau

1637 Henriette Catharina von Nassau-Oranien

Unknown (before 1708) In Wikimedia Commons

  • オランイェ公女 Prinses van Oranje、ナッサウ女伯 Gravin van Nassau、アンハルト=デッサウ侯妃 Fürstin von Anhalt-Dessau
  • 生年: 1637/2/10 ハーグ(蘭)
  • 没年: 1708/11/3 オラニエンバウム(独)

生涯

早くから隣国のオストフリースラント伯(1654年に侯に昇格)エノ=ルートヴィヒと婚約をしていましたが、「嫌い」という理由で決して結婚しようとしなかったため、最終的に破談とされました。その後さらにイングランド王太子チャールズとの縁談が立ち消えたあと、長姉ルイーゼ=ヘンリエッテの夫ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ=ヴィルヘルムの紹介で、1659年にアンハルト=デッサウ侯ヨハン2世ゲオルクと結婚します。その際もわざわざ次姉アルベルティーネ=アグネスの拠点フロニンゲンまで夫を呼び付けて式を執り行いました。

(個人的な感想で甚だ恐縮ですが、オストフリースラント伯アンハルト=デッサウ侯の肖像を並べて眺めると、カタリナの気持ちもまあわかるような…。)

長じた子女は1男5女。長女ヘンリエッテ=アマーリアは、次姉の長男ヘンドリク二世カシミールと従兄妹同士で結婚しました。また、一人息子のレオポルト一世は、のちプロイセン軍元帥として長姉の息子や孫に仕え、プロイセンを一流の軍事国家に育て上げた人物です。

フレデリク=ヘンドリクの娘全員にいえることですが、オランダ(オランイェ家)側では改革派のドイツ諸侯との関係を強めておきたい思惑があり、三十年戦争で荒廃したドイツ側ではオランダの繁栄や技術にあやかりたいという利害の一致がありました。ヘンリエッテ=カタリナ自身も高い教育と教養を身に付けており、結婚後に建築家や芸術家を呼び寄せ、農場の開墾、港湾の整備、干拓、建築、絵画などの分野で領地の発展に寄与しました。

ところで、ヘンリエッテ=カタリナは結婚してオランダを離れるとき、そのような技術だけではなく、あるとんでもないものを私物としてデッサウに持ち込んでおり、母の死後に遺品の中からそれを発見したレオポルトが……というエピソードがあったりします。

Schloss Oranienbaum Ehrenhof

Schloss Oranienbaum Ehrenhofseite In Wikimedia Commons

ヘンリエッテ=カタリナは長姉同様に夫から贈られた土地にオラニエンバウムと名づけ、オラニエンバウム宮を建設しました。主に寡婦となってから住んだようです。バウムは「木」の意。

マリア=ヘンリエッテ・ファン・オランイェ=ナッサウ Maria Henriëtte van Nassau

1642 M.Henriette

Unknown (around 1660) In Wikimedia Commons

  • オランイェ公女 Prinses van Oranje、ナッサウ女伯 Gravin van Nassau、プファルツ=ジンメルン公妃 Pfalzgräfin von Simmern
  • 生年: 1642/9/5 ハーグ(蘭)
  • 没年: 1688/3/20 バート・クロイツナハ(独)

生涯

やはり二度にわたり縁談の破談を経験しています。イングランド国王チャールズ二世は、オランイェ家の娘4人のうち実に3人までと縁談が持ち上がり、結局いずれも叶わなかったことになります。また、38歳も年上のナッサウ=ジーゲン侯ヨハン=マウリッツとの話までありましたが、こちらもヨハン=マウリッツの非婚主義のため成立しませんでした。最終的に、姉たちの強い勧めで、プファルツ=ジンメルン公モーリッツと結婚します。このモーリッツは、マリア=ヘンリエッテたちの伯母ルイーゼ=ユリアナの孫に当たり、幼少期はセダン(ブイヨン公の領地)で育ち、のちプファルツ選帝侯カール=ルートヴィヒの後見を得ていたという遠縁の人物です。改革派のドイツ諸侯との結びつきを強める、という父フレデリク=ヘンドリクの遺志を、姉たちが踏襲したかたちです。

結婚式を挙げたクレーフェは、ブランデンブルク選帝侯の持つ飛び地として、ヨハン=マウリッツが代官をしていた場所でした。この結婚式で四姉妹は久々に全員顔を合わせ、メイテンスによって4人の肖像画(冒頭の絵画)が描かれました。

夫モーリッツは結婚の8年後に若くして亡くなりましたが、マリア=ヘンリエッテはオラニエホフ宮殿で、枢密院議長で愛人のヨハン=カジミール=コルベ(のちに長姉の息子のプロイセン王フリードリヒ三世に仕えプロイセン初の「首相」となる)と暮らしました。しかし、1688年に亡くなった彼女の遺言でこの宮殿が彼に譲られたとき、姉のアルベルティーネ=アグネスとヘンリエッテ=カタリナは遺言書の真偽に疑問を呈したようです。

Jan Mijtens - Portret van Maria, prinses van Oranje (1642-1688)

Johannes Mijtens (1665-1670) In Wikimedia Commons

マリア=ヘンリエッテがバート・クロイツナハに建てたオラニエホフ宮は1789年に破壊され、現存していません。ホフは「宮廷」の意。ので、ここにはマリアの性格が垣間見える絵を載せました。男装で、近習として甥(異母兄の次男)のヘンドリク・ファン・ナッサウ=ザイレステインと、黒人の馬丁の少年を連れている図です。