ウィレム・ファン・ナッサウ=ヒルヒェンバッハ Willem van Nassau-Hilchenbach

Willem van Nassau

Workshop of Jan Antonisz. van Ravesteyn (1620-30) In Wikimedia Commons

  • ナッサウ=ヒルヒェンバッハ伯 Graaf van Nassau-Hilchenbach、共和国軍元帥 Veldmaarschalk der Verenigde Nederlanden、エメリヒ知事(1625-) Burgemeester van Emmerich、フースデン知事(1626-37) Burgemeester van Heusden、スライス知事(1637) Burgemeester van Sluis
  • 生年: 1592/8/13 ディレンブルク(独)
  • 没年/埋葬地: 1642/7/18 ラインベルク(蘭)/フースデン(蘭)

生涯

ハイデルベルクとセダンで教育を受けたあと、父のもとに戻り、1615年に領地ナッサウ=ジーゲン軍の中隊長となりました。長兄ハンス=エルンストとヴェネツィア遠征にも参加し、1617年にヴェネツィアの騎兵大隊長となっています。他の兄弟たちと違って、ちょうどオランダ・スペイン間の十二年休戦条約が締結された後に成人しました。そのためオランダでの軍務は、休戦失効後の1622年から、歩兵連隊長としてが初となります。1629以降歩兵大将としてスヘルトヘンボスやマーストリヒトで名を上げ、1633年には共和国軍の陸軍元帥となりました。これは叔父ナッサウ=ディーツ伯エルンスト=カシミール亡き後、陸海軍総司令官に次ぐオランダ軍の第一人者を意味します。

このサイト内では、ウィレム沈黙公やウィレム二世との混同を避けるため、「ヒルヒェンバッハ伯」または「ウィレム元帥」(本人がまだそのタイトルを得ていない時期も含む)と表記することにしました。

カトリックに改宗し皇帝軍の将軍となった実兄ヤン八世と、何度も戦うことにもなりました。また、1638年のカロの戦いでは、枢機卿王子フェルナンドに記録的な大敗をし、一人息子まで殺されてしまいました。1641年のヘネプ攻囲戦で負った腹部の傷がもとで、1年後ラインベルクで死亡しています。

リファレンス