ヨハン=ルートヴィヒ・フォン・ナッサウ=ハダマール Johann Ludwig von Nassau-Hadamar

Johann Ludwig, Prince of Nassau-Hadamar (1590–1653)

Unknown (17th century) In Wikimedia Commons

  • ナッサウ=ハダマール伯(のちに侯) Fürst/Graf von Nassau-Hadamar、金羊毛騎士
  • 生年: 1590/8/6 ディレンブルク(独)
  • 没年: 1653/3/10 ハダマール(独)

生涯

ヤン六世の七男。ひとりだけ兄たちとは母が違い、年齢もだいぶ離れています。兄ヤン七世の息子たち(彼にとっては甥)ですら彼よりも年上が何人か居ます。

1606年、父ヤンの死去に伴い、残った兄弟たちで所領を分割し、ナッサウ=ハダマール家を興しました。若年期はハーボルンとジュネーヴで教育を受けた後、 グランド・ツアーで仏王アンリ四世や英王ジェームズ一世に拝謁しています。 フランスではブイヨン公や国王アンリ四世の宮廷にも仕え、この時から外交に触れていました。1607年にはハーグにやってきたスペインの将軍スピノラを出迎えたりもしています。オランダでは従兄のナッサウ伯マウリッツから直接軍事指導を受けますが、ちょうど従軍年齢と十二年休戦条約とが重なり、兄たちとは違って実際に軍務に就いたわけではなく、アドバイザー的立場に終始したようです。その後も、ラテン語・フランス語に通じ折衝能力も高く、外交官肌であることを見込まれ、頻繁にフランスやイングランドに渡っていました。1613年、従兄のナッサウ伯マウリッツがイングランドのジェームズ一世よりガーター勲章を叙勲された際、イングランドに行けない本人に成り代わって代理で渡英した記録が残っています。

三十年戦争期、自分や兄弟たちの領地が戦場となることを防ぐため、皇帝のウィーンの宮廷との交渉を積極的におこなうようになりました。その過程の1629年、カルヴァン派からカトリックに改宗し、ナッサウの領地内でイエズス会やフランシスコ会修道院を認可するようになります。この改宗は、やむを得ぬ措置として他のナッサウ一族も了承しており(もともと最も交渉に長けた彼を皇帝の宮廷に送ったのもナッサウ一族の総意だったためです)、本人も改宗を決意するまでには3年ほど悩んだようです。ナッサウ一族には、自発的にカトリックの信仰を持ちスペイン軍の将軍となった甥のヤン八世がいますが、彼と特別親交が深かったというわけでもなく、ヨハン=ルートヴィヒの改宗にもヤン八世の影響はありません。かといってお互いの子女が結婚しているので、特別仲が悪くもありません。

若年期をともにナッサウ伯マウリッツのハーグの宮廷で過ごしたと思われるペーター・メランダー(のちの皇帝軍元帥・ホルツァッペル伯)とは、互いに長じて三十年戦争の激動に巻き込まれて以降も交流が続いていました。とくに、終生カルヴァン派だったにもかかわらず、何度も皇帝軍から招聘の誘いがきていたメランダーに、改宗して皇帝に近しい立場となったヨハン=ルートヴィヒは、その立場と経験を踏まえた助言を与えています。のちに皇帝軍元帥となり裕福になったメランダーは、 困窮したヨハン=ルートヴィヒを救うため、その領地の一部を購入することで金銭的に援助を行いました。

ウェストファリア条約では、皇帝側の大使として交渉のテーブルにつきました。ウェストファリア条約に第一番にサインをしたのはヨハン=ルートヴィヒだったといわれています。この時の功で、1647年にフェリペ四世から金羊毛騎士に序せられ、また、1650年には皇帝フェルディナント三世によって侯の称号を許されています。

リファレンス

  • ADB
  • NDB
  • Wilson, “Thirty Years War”