フィリップス=ウィレム・ファン・オランイェ=ナッサウ Philips Willem van Oranje

Workshop of Michiel Jansz. van Mierevelt 003

Workshop of or after Michiel Jansz. van Mierevelt (1609-33) In Wikimedia Commons

  • オランイェ公 Prins van Oranje,  ナッサウ伯 Graaf van Nassau,  ビューレン伯 Graaf van Buren
  • 生年: 1554/12/19 ビューレン(蘭)
  • 没年/埋葬地: 1618/2/28 ブリュッセル(白)/ディースト(白)

生涯

ウィレム一世と最初の妻アンナ・ファン・ビューレンとの長男。1566年からルーヴァン大学で学んでいましたが、父のウィレムがスペインに対して「叛乱」を起こした1568年、人質のようなかたちでスペインに連れ去られてしまいました。そのまま30年近くスペインで軟禁され、敬虔なカトリックとして過ごします。運動のための狩猟以外はほとんど外に出ることもできず、オランダや父親の情報からは完全に遮断されていました。ウィレムは何度か彼の奪還を試みており、1582年には具体的な計画も進めていたようですが、結局彼を取り戻すことはできませんでした。

1596年、オーストリア大公アルプレヒトとスペイン王女イザベラが結婚し、南ネーデルランド執政として共同で統治をするにあたり、フィリップス=ウィレムはアルプレヒトの随員としてブリュッセルに帰還することになりました。スペインとフランスの和平条約『ヴェルヴァン条約』(1598)にも一役買い、翌年金羊毛騎士にも任ぜられています。この間に、スペインに没収されていたオランイェ領など、領地や称号なども返還されました。フランスとの和平交渉の席で、異母弟のフレデリク=ヘンドリク(30歳くらい離れています)とはじめて顔を合わせています。

1606年、フランス国王アンリ四世の紹介で、エレオノール・ド・ブルボン=コンデ(のちの「大コンデ」の伯母にあたります)と結婚しました。この頃さらに、連邦共和国内の領土、ブレダやステーンベルヘンなども回復しています。スペインと共和国では和平交渉がはじまっていましたが、フィリップス=ウィレムはヴェルヴァンのとき同様、ここでもスペイン側として交渉役にあたりました。同時に、ナッサウ家の家中では、父ウィレムの遺産相続についての争いも勃発しました。この席でフィリップス=ウィレムは、マウリッツに十年来勘当されていた妹エミリアとマウリッツの和解をお膳立てした一方、全妹であるアンナと組んで、マウリッツとフレデリク=ヘンドリクの2人の弟たちを相手に、熾烈な財産相続争いを繰り広げました。

フィリップス=ウィレムはブリュッセル、南ネーデルランドのディースト、フランスのオランイェ領のほか、1609年からはブレダにあるナッサウ家の舘にも住みました。ブリュッセルでは「街で2番目に大きな建物」に住んだとされますが、これはデューラーの『ネーデルラント旅行記』にもある「フォン・ナッサウ伯の館」と思われます。1618年このブリュッセルで死亡。死因は不明。「医者の処置ミス」や「不審死」とされているため、当時フランスでは弟マウリッツによる暗殺も、まことしやかにささやかれていたとのことです。しかしフィリップス=ウィレムには嗣子がなく、遺産はすべて自動的にマウリッツのものとなることになっており、マウリッツはただ黙って兄が死ぬのを待っていれば良いので、あえて暗殺する理由もなければ、むしろクーデターのごたごたの最中の最も不都合な時期に死なれたともいえるでしょう。

リファレンス

記事中に挙げた参考URL以外については以下のとおり。

  • ウェッジウッド, C.V. (瀬原義生 訳)『オラニエ公ウィレム―オランダ独立の父』文理閣、2008年
  • University Leiden, “Personen
  • ADB
  • NDB