ヤン・ファン・ナッサウ(六世/大ヤン)Jan VI van Nassau-Dillenburg, ’Jan de Oude’

Jan de oude va Nassau-Siegen

Workshop of Wybrand de Geest (1630-1633) In Wikimedia Commons

  • ナッサウ=ディレンブルク伯 Graaf van (Graf von) Nassau-Dillenburg、州総督 Stadhouder (ヘルデルラント)、「大ヤン」’Jan de Oude’
  • 生年: 1535/11/22 ディレンブルク(独)
  • 没年: 1606/10/8 ディレンブルク(独)

生涯

ウィレム沈黙公の2歳年下の次弟。兄ウィレムがフランスのオランジュ公(オランイェ公)を継いだことにより、ドイツのナッサウ伯はヤン六世が継ぐことになりました。ディレンブルク在住。

彼のオランダでの活躍の期間は数年に限られており、アイデンティティは完全にドイツ貴族で、一般的には「ナッサウ=ディレンブルク伯ヨハン六世」と表記すべきかと思います。が、その数年の間に「ユトレヒト同盟」を成立させるというクリティカルな功績があること、また、兄のウィレム沈黙公と並んで現在のオランダ王家の父祖の一人ともされているため、当サイト内ではオランダ語表記に統一しました。同名の息子・孫がいるため「ヤン・デ・アウデ(大ヤン)」とも呼ばれます。

ウィレムが11歳でオランダに渡ってしまったため、若年期はあまり交流があったとは考えられませんが、長じてからは兄の最も忠実な協働者の一人となりました。ルター派の両親に育てられましたが、彼と、さらに下の弟たちは1572年にカルヴァン派に改宗します。中でもヤン六世は厳格なカルヴィニストとして知られました。20人以上の子宝に恵まれ、息子や孫たちの中にはのちオランダ軍で戦った者も多いです。また、兄ウィレムがいったんディレンブルクに逃れてきた1568年以降は、兄の子供たちも自分の子供たちと一緒にヤンが教育しました。ナッサウ伯マウリッツも、ヤンを父と呼んで慕っています。

1577年、兄ウィレムの「反乱」の手助けのため、ヤン六世は初めてオランダに渡ります。この際、息子のウィレム=ローデウェイク、フィリップス、ウィレムの次男マウリッツを伴っています。オランダでは、一時期ヘルデルラント州総督にも任じられました(1578-1581)。この時期に「ユトレヒト同盟」(1579年1月23日)設立に中心人物として関わっており、「反乱」に与えた影響とその功績は大きいといえます。が、逆にこの「ユトレヒト同盟」をきっかけに、兄ウィレムとのとくに宗教観の相違が目立ちはじめ、翌1580年7月にディレンブルクへ戻りました。厳格なカルヴァン教徒であったヤン六世は、兄ウィレムの政治的宗教観を不快視していたようです。ただし、不仲になったとか袂を分かったというわけではなく、以後もドイツからの支援は続けており、自分の息子たちもどんどんオランダへ送っています。

ディレンブルクへ戻ってからは、子供・孫・他の貴族から預かった子女たちの養育と領地経営で過ごしました。といって安穏とした隠居ではなく、ヤンは常にナッサウ家にとっての要であり、ディレンブルクに居ながらにして一族の近況や近隣諸国の情報を逐一得ていました。兄ウィレムの存命中はウィレムと、その死後は在蘭の息子たちや甥のマウリッツ、フランスやドイツの貴族に嫁いだ娘や姪たち、その他ドイツのプロテスタント諸侯などと、相当な頻度で書簡のやりとりをしており、情報を集積・拡散するセンターの役割を果たしていたといえます。

1606年死去。ナッサウの領地は、その時点で残っていた5人の息子に分配されました。

  • ウィレム=ローデウェイク → ナッサウ=ディレンブルク
  • ヤン(七世) → ナッサウ=ジーゲン
  • ゲオルグ → ナッサウ=バイルシュタイン
  • エルンスト=カシミール → ナッサウ=ディーツ
  • ヨハン=ルートヴィヒ → ナッサウ=ハダマール

リファレンス

  • ウェッジウッド, C.V. (瀬原義生 訳)『オラニエ公ウィレム―オランダ独立の父』文理閣、2008年
  • University Leiden, “Personen
  • ADB
  • NDB