対戦国 | オランダ | スペイン プファルツ=ノイブルク |
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勝 敗 | × | ○ |
参加者 | フレデリク・ピタン | ロス=バルバセス侯アンブロジオ・スピノラ ファン・デン=ベルフ伯ヘンドリク プファルツ=ノイブルク公ヴォルフガング=ヴィルヘルム |
プファルツを脅かしていたスピノラ侯は、「十二年休戦条約」の期限が切れるが否や、もうこの地には用はないとばかりに強引なまでの事後処理を進めた。対するオランダ側は、国境線の中に封じ込められ、身動きがとれないまま徒に時を過ごしてしまう。12年の間に国内の内紛によってすっかり疲弊したマウリッツ公には、スピノラ侯のような再戦への意欲は既に感じられない。ユーリヒの街にとっては、この攻囲は10年前同様、ある意味とばっちりともいえる。
かつてならず者が横行していた時代には、手段も資金も存在していた。今はそのどちらもない。
オランイェ公マウリッツ/”Kikkert”
はじめに
ドイツのユーリヒに何故オランダ軍の守備隊がいるのか、そして何故そこをスペイン軍が攻めるのか? という疑問には、一昔前の「ユーリヒ=クレーフェ継承戦争」が関係しています。後継者を残さず死亡した前ユーリヒ=クレーフェ公の領地を誰がどう分けるか、との戦争が断続的に5年も続き、「十二年休戦条約」中のオランダ・スペイン間の代理戦争の様相となりながら、下記のとおり二者で分割統治することに決定されました。ユーリヒとヴェーゼルの街は、それぞれ互いの領内に飛び地で存在するため、いずれもその支援方に守備が委託されました。
- ブランデンブルク選帝侯 → オランダが支援
- クレーフェ=マルク領
- ラーフェンスブルク
- ユーリヒ(プファルツ=ノイブルクに割譲されるユーリヒ=ベルク領内) →オランダが守備
- プファルツ=ノイブルク公 →スペインが支援
- ユーリヒ=ベルク領
- ラーフェンシュテイン
- ヴェーゼル(ブランデンブルクに割譲されるクレーフェ=マルク領内) →スペインが守備
表面的には、本来地理的にはプファルツ=ノイブルク領内であるべきユーリヒを、然るべき持ち主に返そうとする動きにも見えます。プファルツ=ノイブルク公自身も、後付けで申し訳程度の2500の兵を動員しています。しかしその実は、オランダとの休戦満期を迎えたスペインの利益のみを考えた攻囲戦でした。
アフタヌーンコミックス『イサック』の10巻から、このユーリヒ攻囲戦(1622)が始まります。ユーリヒの守備隊長・ピタン隊長も10巻で初登場。
「俺は14歳でウィレム1世の軍に加わり以来60年戦ってきた」という渋い歴戦の古参兵です。
経緯
ロス=バルバセス侯アンブロジオ・スピノラは、1620年、スペインの命によってプファルツ戦線に投入されていました。(プファルツ遠征(1620-1623) Palatinate Campaign)。しかし、オランダとの「十二年休戦条約」が1621年4月9日に失効となり戦争が再開されると、その翌月の5月24日にはマインツで協定を結んで「プロテスタント同盟(ウニオーン)」を解散させ、プファルツでの始末ををコルドバ将軍に託し、オランダ戦線に向かいました。1614年のユーリヒ=クレーフェ継承戦争の終結後、スピノラ将軍は、破産も厭わずに対オランダ用の軍隊を維持していました。プファルツからのこの去り際の手際も良いとしか言いようがありません。もちろん、南ネーデルランド執政府からの呼び戻しがあったことも理由ではあります。スピノラ将軍はいったんスペイン軍の物資の集積地でもあるヴェーゼルに入り、軍を集結させました。
オランダ連邦議会が当初スピノラ将軍の狙いと考えたのは、1606年の「スピノラの遠征」時と同様、ヘルデルラントへの侵入でした。オランイェ公マウリッツは国境の警戒のため、まずはドゥースブルフ、次にヴェーゼルにほど近いシェンケンシャンツに兵を集めます。スピノラ将軍はオランダの注意が自分に向いていることを確信すると、ファン・デン=ベルフ伯ヘンドリクを先にユーリヒに派遣することにします。実はオランダ国境の守備の兵の不足を補うため、オランダは前もってユーリヒから1000名の守備隊を帰国させていましたが、ここでそれが裏目に出てしまいました。ファン・デン=ベルフ伯は8月30日にメンヒェングラートバッハまで進軍すると、ライト城へ向かいました。ここにはオランダの守備兵が150人ばかりいましたが、ファン・デン=ベルフ伯はこの城の正式な持ち主を装って城を占領し、ユーリヒ攻囲の前線基地としました。攻囲は9月5日から始められました。
このときライト城の守備隊の隊長をしていたディトフォードは、まんまとファン・デン=ベルフ伯の策略に乗って、何もせずに城を明け渡してしまったことになりますが、この後マウリッツの命によって投獄され、その後軍事法廷で死罪となりました。戦争再開直後のこの失態は、他への見せしめとして、より厳しく断罪されたものと思われます。
戦闘
休戦明けすぐに、南部でも不穏な動きがありました。アントウェルペンのすぐ北、カトリックの住民も多いベルヘン=オプ=ゾームが、南ネーデルランド執政府に接触しているという情報がもたらされました。マウリッツはすぐに南部方面へ5個中隊を送り、さらに議会の要請で追加の軍隊を送ります。そのため東部に展開した軍は目減りしてしまい、数に勝るスピノラ将軍と相対するには不十分で、そこに留まることでの抑止効果しか望めませんでした。マウリッツは、ファン・デン=ベルフ伯がライト城を占拠したのはユーリヒを標的にしていると感づいたものの、ユーリヒはオランダ国境から100km以上離れており、仮に国境を越えてユーリヒに向かえば、現在ヴェーゼルに駐留するスピノラ将軍をフリーにし、国内への侵入を許してしまうことになります。結局オランダ軍は11月まで動くことができませんでした。
10年前のユーリヒ攻囲戦は数の脅威で開城を待つだけの消極的なものでしたが、ファン・デン=ベルフ伯は北の高台に陣取って積極的な砲撃を加えました。それだけでなく、自軍側の損失も最小限にするため、兵糧攻めとの合わせ技を選択します。ユーリヒは72歳の古参兵ピタン隊長のもと2500人の守備隊(フランス×4、イングランド×6、スコットランド×4、オランダ×8、その他騎兵)が籠城を続けていました。スピノラ将軍本人が9月24日にユーリヒに到着し、すぐに開城を要求しましたが、ピタン隊長は即却下します。スピノラ将軍にとっては、費用の嵩む攻囲戦にあまり時間をかけたくないというのが正直なところでした。10月5日には、守備隊の側がファン・デン=ベルフ伯のキャンプに火をかけ、その隙に略奪をおこなって、相当なダメージを与えました。しかし、スペイン側からの砲撃で破損した要塞の修復を繰り返したため、11月頃から城内での資材の不足が深刻化してきました。
12月に一度、マウリッツの送った斥候による攻撃があったものの、小規模なスカーミッシュは当然ながらほとんど役には立ちませんでした。オランダ軍が冬営のためハーグに帰ると、スピノラはヴェーゼルの全軍をユーリヒに向けます。年が明けるとユーリヒでは食料と資金が尽き、寒さで凍死者も出たうえ病気が蔓延し始めました。1622年1月22日、ピタン隊長はファン・デン=ベルフ伯と第一回めの開城交渉に臨みます。そこでは、12日の猶予が設けられ、それまでに援軍も糧食も届かなければ降伏すると約されました。そのまま2月3日を迎え、街は開城します。開城条件は以下のとおりです。
- 住民は信教を変えなくても良い
- 軍隊は軍旗を挙げドラムを鳴らし、弾薬を携帯して退却して良い(ただし大砲はスペイン守備兵のために残すこと)
- 将校は妻子や召使を伴っても良い
- ネイメーヘンまでの通行の安全は約束される
- 負傷者は回復まで街に留まって良く、その後ネイメーヘンまでの通行の安全は約束される
開城の際のピタン隊長とファン・デン=ベルフ伯の会話が記録されています(…といっても1774年のものなので、後世の創作と思われます)。
P: 私が長年所持してきた鍵を、いま閣下にお渡しいたします。
vdB: これは私が今年最初に手にする鍵だ。これが今年の最後の鍵にならなければ良いが。
P: これ以上何の鍵を望むとおっしゃられるので? ユーリヒの鍵はこれで全部ですが。
vdB: ここにはアムステルダムの鍵がないではないか!
ユーリヒはブランデンブルク選帝侯の管轄になって以降、オランダの守備隊が入り、10年間にわたって資金と人員を費やして要塞を作り上げていました。それをそっくり手に入れたスペイン軍はユーリヒの街をそのまま冬営に使うことができました。
余波
オランダ軍がネイメーヘンに向けて撤退すると、ユーリヒには入れ替わりでスペイン人守備隊が入りました。スペイン守備兵は「迫害者」と呼ばれ住民たちからの人気は常に低かったのですが、最終的には、ウェストファリア条約よりもずっと後の1660年頃まで居座ることになります。
ピタン隊長はこの後、開城の責任を取って免職になりました。高齢だったことも理由と思われます。収監されたとか斬首されたとか言われてもいますが、亡くなったのが10年後の1632年(82歳)であることを考えると、どちらも現実的ではないでしょう。実際は、いったん軍事法廷にかけられることになったものの、マウリッツの取り成しによって恩赦になったということのようです。
ピタン隊長は1601年以降ナッサウ伯エルンスト=カシミール麾下の将校で、その蛮勇で知られていました。1614年からユーリヒの守備隊長。マウリッツもオーステンデの頃から本人をよく知っていたようです。
スピノラ侯とファン・デン=ベルフ伯はこの後、ベルヘン=オプ=ゾームに転戦します。
なお本国スペインでは、1629年にフェリペ四世のためのブエン・レティーロ宮殿の建設が始まり、その「諸王国の間」を飾る12枚の戦勝画のうち、このユーリヒ開城もモチーフに選ばれました。同じスピノラ侯による開城のシーンですが、ベラスケスの「ブレダの開城」が名作とされる傍ら、こちらはあまり言及されないようです。また、上に挙げた問答にもあるように、実際は開城に立ち会ったのはスピノラ将軍ではなくファン・デン=ベルフ伯と思われますが、この絵画の発注時点(1634年)より前(1632年)にファン・デン=ベルフ伯はスペインからオランダに転向しているため、絵画の中には描かれずスピノラ将軍にすげ替えられた可能性があります。「ブレダの開城」については以下も参照ください。
リファレンス
- ウェッジウッド, C.V. (瀬原義生 訳)『ドイツ三十年戦争』、刀水書房、2003年
- Wilson, “Thirty Years War”
- Schiller, “Thirty Years War”