シェンケンシャンツ攻囲戦(1635-1636) Beleg van Schenkenschanz

Belegering van Schenkenschans in 1635 en 1636 (Johannes Jacobus Schort)

Johannes Jacobus Schort (1649) “Atlas van Loon” 「シェンケンシャンツ攻囲戦 (1635-1636)」 In Wikimedia Commons

シェンケンシャンツ攻囲戦 Schenkenschanz 1635/7/30-1636/4/30
対戦国

flag_nl.gif オランダ
flag_nl.gif フリース
flag_es.gif フランス

flag_es.gif スペイン
flag_es.gif 神聖ローマ帝国

勝 敗 ×
参加者 オランイェ公フレデリク=ヘンドリク
ナッサウ=ヒルヒェンバッハ伯ウィレム
ヘルマン一世オットー・フォン・リンブルク=シュティルム
ナッサウ=ディーツ伯ヘンドリク=カシミール

ナッサウ=ジーゲン伯ヨハン=マウリッツ
枢機卿王子フェルナンド
アドルフ・フォン・アインホルツ
第二代レルマ公フランシスコ=ゴメス
オッタヴィオ・ピッコロミーニ

ウィレム一世の時代の最後の傭兵隊長マルティン=シェンク・フォン・ニデッゲン。彼が自らの名を冠して建設したシェンケンシャンツ(シェンク砦)は、ライン川とワール川の分起点の中洲に位置し、共和国の「裏口」と呼ばれる要衝だった。三方を水に囲まれ塹壕と地雷が使えない中、ウィレム元帥が採った方法は意外にシンプルなものだった。

我々が失ったのは、陛下がその栄光をあまねく知らしめるためにこの諸州で手にしていた、最上の宝石だった。

オリバーレス公伯爵ガスパール・ド・グスマン/ Israel, J.I., Conflicts of Empires, 1997

はじめに

このシェンケンシャンツ攻囲戦は9ヶ月に渡る長丁場となりますが、いったん冬営期間に中断を挟んでいます。しかし何をもって「中断」とするかは難しいところで、冬の間、司令官はいったんハーグに戻っていますが、兵は包囲陣地に留まって冬営しており、攻囲自体は解かれていません。 シェンケンシャンツ攻囲戦(1635)とシェンケンシャンツ攻囲戦(1636)に分けて考える場合が多いようですが、この記事内では一連の流れとして扱います。

「シェンケンシャンツ」は「シェンクの砦」の意味。傭兵隊長マルティン=シェンク・フォン・ニデッゲンが、州総督ニーウェナールの命を受け、1586年、ライン川とワール川の中洲に築いた砦です。現在でもわずか50戸ほどの集落で、当時も街というよりは駐屯地に過ぎない(とはいえちゃんと教会などもありますが)、狭い砦です。冒頭の地図でも、向かいに作られたスペイク砦のほうが大きいくらいです。

シェンクが仮拵えで建設して以降、星型砦として整備されてきましたが、1635年時点では警備兵がわずか120名駐屯しているに過ぎませんでした。

経緯

Tolhuis

Unknown (circa 1635) トルハイス城 In Wikimedia Commons

1635年、フランスが三十年戦争に参戦すると、オランダ・フランス連合軍はまずはルーヴァンを攻囲しました。しかし補給と戦略のミスが重なり、退却を余儀なくされてしまいます。これが逆にスペインの枢機卿王子フェルナンドの反撃を誘い、スペイン軍はライン川沿い、クレーフェ方面へと進軍します。スペインに先遣隊として雇われた傭兵隊長フォン・アインホルツは、7月27日から28日の夜にかけて500の兵でシェンケンシャンツを襲い、オランダの駐屯兵を完全に駆逐したうえで、自らが知事に納まりました。なおこの後、この狭いシェンケンシャンツの警備兵は1,500人までに膨れ上がります。砦の中に入れない兵も少なくありませんでした。

オランイェ公フレデリク=ヘンドリクは、議会の決定を待たず即座にシェンケンシャンツ奪還のための攻囲を決定します。砦の奪われた翌々日には陣地が設けられ、攻囲戦が開始されました。フレデリク=ヘンドリクは総指揮をナッサウ=ヒルヒェンバッハ伯ウィレムに委譲し、自らはやや離れたバイラント城に入りました。ウィレム元帥は、シェンケンシャンツの対岸にあるトルハイス城を本陣とし、ライン川両岸のブリーネンとスペイクにも陣地や砦を建設して、シェンケンシャンツを完全に囲む包囲網をつくりあげました。

戦闘

Schenckenschans spotprent 1635

Unknown (1636) シェンケンシャンツ攻囲戦の風刺画 In Wikimedia Commons フレデリク=ヘンドリクの足元には金貨、背後にはリシュリュー枢機卿とザクセン=ヴァイマール公が居ます

シェンケンシャンツは三方、というよりもほぼ四方が川に囲まれているため、通常の攻囲戦のように、塹壕を掘り進んでいって城門下で地雷を爆破させて突破口を開く、という方法は使えません。そこでオランダ側がおこなったのは、スペイン駐屯軍が降伏するまで、あらゆる方向からひたすら攻城砲を浴びせかける、という古典的な方法でした。砲を積んだ川船が仕立てられ、川からの攻撃もおこなわれました。その砲撃規模は、数時間に渡って硝煙が立ちこめ、対岸が見えなくなるほどだったそうです。

この泥地や塹壕は攻撃には不向きでしたが、スペインの救援軍を妨げるには格好のものでした。枢機卿王子率いる援軍はオランダの防衛線に近づくこともできませんでした。枢機卿王子は、皇帝軍のピッコロミーニ元帥の助力も得て、代わりにルールオルト等近辺の街を占拠します。そしてシェンケンシャンツが一向に降伏の気配を見せないため、攻囲は冬を越すことになります。フレデリク=ヘンドリクやウィレム元帥は冬の間いったんハーグに戻りましたが、攻囲は続けられ、シェンケンシャンツと外部との連絡や物資は遮断されたままになりました。

11月末に最初に砦を占領したフォン・アインホルツが戦死し、この時点で1635年の攻囲戦に区切りがついた、ともいえます。また、枢機卿王子の軍では、レルマ公(フェリペ三世の寵臣として有名な初代レルマ公の長男)も、この地域の寒さのせいか、この年末に病死しています。

Gerrit van Santen - Het beleg van Schenckenschans door prins Frederik Hendrik, april 1636

Gerrit van Santen (1636-1687) 「シェンケンシャンツ攻囲戦 (1636年4月)」 In Wikimedia Commons

2月、通常の戦争シーズンにはだいぶ早い時点で攻囲は再開されました。このときウィレム元帥は、ハーグから異母弟のヨハン=マウリッツを伴っています。約2ヶ月後ヨハン=マウリッツが使者となり、降伏交渉が行われました。守備隊は名誉ある降伏条件をのみ、砦を明け渡しました。1,500人の兵員は600人まで減っていたそうです。

余波

6月、枢機卿王子、ピッコロミーニ元帥はともにフランスへ戦線を移動します。枢機卿王子はル・カトレを4日間、続いてラ・カペルをわずか3日で落としたのち、いったん指揮をカリニャーノ公トンマーゾ=フランチェスコに引き継ぎブリュッセルへ戻りました。カリニャーノ公とピッコロミーニ元帥はそれぞれ各所の小競り合いでフランス軍を蹴散らしてフランス内部に迫るものの、戦線や補給路が伸びることを嫌って9月にはカンブレーまで退却しました。

Frans Post 001

Frans Post (1638) 「サン・フランシスコ川とマウリッツ砦」 In Wikimedia Commons カピバラ…

なお、シェンケンシャンツの交渉の使者を務めたナッサウ=ジーゲン伯ヨハン=マウリッツは、このすぐ後にオランダ西インド会社からブラジル総督に任じられ、年内にはブラジルに向けて出航します。1637年1月にブラジルに上陸した後、ブラジル植民地での7年の治世の間、「ブラジル人」と呼ばれるほど現地に親しんだヨハン=マウリッツは、そこでもその交渉力や為政力を発揮することになります。

フレデリク=ヘンドリクの費用で画家や学者たちを同伴したヨハン=マウリッツは、現地の風景や風俗を記録させ、めずらしいものを持ち帰りました。ブラジル赴任中の7年の間に、彼がハーグに建設させていた邸宅が完成していて、それらブラジルみやげを収めるのにぴったりの場所として使われました。それが現在のマウリッツハイス美術館です。

リファレンス

記事中に挙げた参考URL以外については以下のとおり。

  • Kikkert, “Frederik Hendrik”
  • Poelhekke, “Drieluik”
  • Guthrie, W.P., The Later Thirty Years War, 2003
  • Wilson, “Thirty Years War”
  • Prinsterer, “Archives”
  • Picart, “Memoires”