プファルツ遠征(1620-1623) Palatinate Campaign

Kurpfalz-30j-Krieg

三十年戦争期のプファルツ (circa 1623) In Wikimedia Commons

プファルツ遠征 Palatinate Campaign 1620/6-1623/4
対戦国 flag_en.gif イングランド
flag_pf.gif プファルツ
flag_nl.gif オランダ
flag_es.gif スペイン
flag_pf.gif バイエルン
flag_es.gif 神聖ローマ帝国
勝 敗 ×
参加者 プファルツ選帝侯フリードリヒ五世
ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯ヨアヒム=エルンスト
ヴィアー卿ホレス
ハーバート卿ジェラルド
ジョン・ボロー
第十八代オックスフォード伯ヘンリー・ド・ヴィアー
第三代エセックス伯ロバート・デヴァルー
フェアファクス兄弟(フェルナンド/ウィリアム/ジョン)
ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯ヨアヒム=エルンスト
マンスフェルト伯エルンスト
ブラウンシュヴァイク公クリスティアン
バーデン=デュルラハ辺境伯ゲオルク=フリードリヒ
ナッサウ伯フレデリク=ヘンドリク
ロス=バルバセス侯アンブロジオ・スピノラ
エスピナル侯カルロス・コロマ
ティリー伯ヨハン・セルクラエス
マラテーア公ゴンザロ=フェルナンデス・デ・コルドバ
ベルベデーレ侯ルイス・デ・ベラスコ

ボヘミアから提供された王位を受諾したプファルツ選帝侯フリードリヒ五世に対し、最も近しいはずの「同盟」は冷たかった。ドイツ外の各国も正式な支援を見合わせ、計算の狂ったアンハルト公は焦りを募らせる。本国プファルツに侵入したスペインの精鋭に対し、イングランドの義勇軍だけがその防衛に志願した。しかしそれは、駐蘭大使カールトンをして「プファルツでの安全性は保障できない」というほどの危険な任務だった。

「スピノラ候が7月8日に歩兵20000/騎兵4000からなる軍を挙げたようだ」との警告をオランダからの便りで受け取ったと、ちょうどマダム・オランジュよりお伺いしたところです。プファルツは血の悲劇に見舞われることでしょう。

ピエール・デュ・ムーラン/”Archives”

はじめに

Carte Palatinat

ヴィッテルスバッハ家の領地 In Wikimedia Commons 濃い黄色がフリードリヒ五世の領地。ハイデルベルク(★)、マンハイム、フランケンタールの位置関係がわかりやすい。

この記事では、1620-1623年のプファルツ地域における、イングランド義勇軍の参戦から撤退までの期間を「プファルツ遠征」と称して扱います。

三十年戦争は通常大分類としては四つのフェーズに分けられるため、第一フェーズの時期に当たるプファルツでの一連の戦いは「ボヘミア・プファルツ戦争」とボヘミアと一緒にされるのが一般的です。もちろん、ボヘミア王でありプファルツ選帝侯でもあるフリードリヒ五世を中心とすれば、この分類の仕方は非常に合理的ですが、地理的・時間的に冗長でもあるため、さらにボヘミアとプファルツに分けられます。が、そのプファルツ戦役を指す名称には国によって若干の違いがみられます。たとえばドイツでは「プファルツ選帝侯領における戦い」、オランダでは「スペインによるプファルツ占領」と、基本的には自国の動きを中心としたもので、ウィルソンに至っては、「フェルディナント二世の勝利」です。ここでは、イングランドから派遣された援軍による一連の攻囲戦(籠城戦)を中心とすることから、英語での「プファルツ遠征」の用語を採用しました。


コミック『イサック』は、第1巻冒頭に「1620年9月 ドイツ南西部プファルツ選帝侯領」とあり、まさにピンポイントでこのプファルツ遠征を舞台にしています。出てくる人物や地名は史実ではないものも多いですが、違和感のない作りになっています。この記事を書いている時点では、史実人物としてホレス・ヴィアー将軍(「ホーレイス・ヴェア」との表記)が登場したところです。

経緯

プファルツ選帝侯であるフリードリヒ五世がボヘミア王に選出され、その王位を受諾したことからすべては始まります。ここではボヘミアでの出来事の詳細は省きますが、彼のあだ名「冬王」が示すとおり、フリードリヒ五世はその地位を1年程度しか保持できず、政治的に孤立していきました。その対抗者(フリードリヒ五世の選出のため廃位された前ボヘミア王)である神聖ローマ皇帝フェルディナント二世は、逆に「カトリック連盟(リーガ)」の取り込みに成功し、フリードリヒ五世包囲網を完成させます。「リーガ」と「ウニオン(プロテスタント同盟)」の代表者の間で1620年7月3日に署名されたウルム条約が、決定的な役割を果たしました。協定の条項に基づいてウニオンは中立を宣言し、同盟の盟主たるフリードリヒ五世を支持しないこととされました。

ウルム条約を契機に、同じハプスブルク家であるスペインは、プファルツへの介入を開始します。フリードリヒ五世の王位「受諾」を「簒奪」とし、フリードリヒ五世が遠くプラハにいる間に本国プファルツへ侵入する大義名分とするためです。ウルム条約に先立つ1620年2月に、スペインはフェルディナント二世と前もって条約を交わしています。

El Camino Español

「スペイン街道」 In Wikimedia Commons

スペインにとってプファルツとくにライン河岸は、軍隊や物資の移動に欠かせない「スペイン街道」として重要な地域です。このプファルツ遠征に10年先立つユーリヒ=クレーフェ継承戦争への介入、オランダとの八十年戦争のうちライン地域で戦われたものも、すべてスペイン街道の維持管理を目的としています。今回の介入は主の留守中に空き巣に入るようなものですが(実際、それが後に非難され反ハプスブルク一派の団結を招きます)、オランダとの「十二年休戦条約」の終了を翌年に控えたスペイン、とりわけオランダと国境を接する南ネーデルランド執政府にとっては、千載一遇の好機ととらえられたわけです。

スペイン側の司令官は、フランドル方面軍を率いるロス=バルバセス侯アンブロジオ・スピノラ将軍です。どういうわけか対オランダ戦線に異様に情熱を燃やすスピノラ将軍は、十二年休戦条約の間も、条約明けの戦争再開を目してその準備に余念がありませんでした。プファルツへの侵攻はスピノラ将軍にとっては、ライン地域の補給路の確保以上の意味を持たず、しかもその場所がオランダ本国ではないため、条約違反にも抵触しない格好の前哨戦になるという側面もあったでしょう。それにしても、ボヘミアの選挙の時期から、近い将来この地域での紛争が必ずあるであろう事態を読み、あらかじめヨーロッパ中のスペイン領各地から軍隊を集めていた、というほどの執念が何に起因するものなのかはわかりません。マドリードからの命令は6月23日、実際にスピノラ候がブリュッセルを発ったのは、冒頭のデュ・ムーランの書簡から鑑みても、7月に入ってからと思われます。

Horuts Palatinus Heidelberger Schloss von Jacques Fouquieres 1620

Jacques Fouquier (1620) ハイデルベルク城 In Wikimedia Commons

一方、ここでフリードリヒ五世とオランダがともに頼みとするのは、ボヘミア王妃エリザベス・ステュアートの父、フリードリヒ五世にとっては舅にあたるイングランド国王ジェームス一世です。ところがこの時期、ジェームス一世は親スペイン政策に傾いており、王太子チャールズとスペイン王女マリア=アナの縁談(莫大な持参金目当てともいわれますが)を進めようとしているところでした。結果的にジェームス一世は、事態が決定的な段になるまで、娘夫妻に冷淡な態度を取り続けることになります。父王の援助はせいぜい金銭的なものにとどまり、ボヘミアへのイングランド兵の派遣は一切なく、申し訳程度にプファルツへの派兵を許可したに留まりました。その軍隊も国王が徴募したものではなく、義勇軍として自発的に集まった軍にに対するあくまで「許可」です。勝手に行くなら止めないけど、という程度の温度感です。

戦闘

3年に渡る戦役のため、さらに内容を3つに分けました。便宜上のもので、この記事独自の分け方となっています。

  1. イングランド軍派兵からウニオン解散まで 1620/9-1621/12: スピノラ候とイングランド軍の攻囲戦
  2. フリードリヒ五世と傭兵隊長たちによる戦役 1622/4-1622/8: リーガ軍と旧ウニオン軍との野戦
  3. プファルツ最後の攻囲戦から選帝侯位の移転まで 1622/9-1623/3: リーガ軍とイングランド軍の攻囲戦

イングランド軍派兵からウニオン解散まで 1620/9-1621/12

Guerre 30 ans 1

ティリー伯の進路 In Wikimedia Commons

ジェームス一世の許可を得てイングランドの義勇軍を徴募したのはフリードリヒ五世の侍従長ドーナ伯で、彼はその司令官にホレス・ヴィアー将軍を指名しました。その役目を謹んで承諾したヴィアー将軍は、7月9日に国王に拝謁すると、7月22日には大陸に渡ります。ちょうどスピノラ候が軍を挙げた時期と同時期になります。

はじめ義勇軍の司令官職は、バッキンガム公がエドワード・セシルに打診していました。しかしドーナ伯がヴィアーを勝手に指名したと知ると、憤慨したバッキンガム公は遠征への支援を引き上げてしまいました。が、司令官としてはヴィアーのほうが人気があったらしく、司令官がヴィアーと決まると、彼の元で働けるならと若い貴族の志願者が押し掛けたそうです。それでも資金的な理由もあり、遠征軍はヴィアーが控えめに要求した4000名の半分の2000名しか派遣することができませんでした。

そのスピノラ将軍は、ベルベデーレ侯ルイス・デ・ベラスコ将軍のもとにオランダの監視のための軍18000を残し、マーストリヒト経由でコブレンツを渡り、24000の兵で東進しました。いったんボヘミア方面へ向かうように見せかけつつ取って返し、8月19日にマインツを占領します。

Merian Kreuznach

Matthäus Merian (1679) クロイツナハ攻囲戦 In Wikimedia Commons

その間、スピノラ将軍配下のカルロス・コロマ将軍は別動隊を率いてナーエ川沿いに進み、9月9日にバート・クロイツナハを攻囲、こちらもごく短時間で反撃を抑え街を占領しました。

Wenceslas Hollar - Capture of Oppenheim

Wenceslaus Hollar (1620) オッペンハイム占領 In Wikimedia Commons

当時、オッペンハイムにはアンスバッハ辺境伯ヨアヒム=エルンストを中心としたウニオン諸侯たちが、スピノラ候の軍隊に匹敵する数の22500の軍を集結させていました。しかし、クロイツナハの知らせを受け取るとオッペンハイムから退却を始めてしまったため、9月14日、スピノラ候が明け方に奇襲をかけただけで、易々とオッペンハイムも占領されてしまいました。

オランダ軍による露払い

わずか2000の援軍を率いるヴィアー将軍にとっては、まずはアンスバッハ辺境伯らウニオン軍との合流が急務でした。やや話は前後しますが、この合流までの間の道案内役として、オランイェ公マウリッツからは弟のナッサウ伯フレデリク=ヘンドリクと2000の騎兵が提供されました。オランダのアルンヘムで合流したヴィアー将軍とフレデリク=ヘンドリクはクレーフェ領内をライン川沿いに進軍し、9月上旬にヴェーゼルに到着します。マウリッツの提供した舟橋でライン川を渡ってまずはユーリヒ公領に入り、南下したコブレンツでナッサウ伯領に入ろうとさらにライン川を渡ります。この時、コブレンツの守備隊とのスカーミッシュがあり、イングランド兵約100名が負傷しました。

Wesel 1620

Claes Jansz. Visscher (1620) ヴェーゼル攻囲戦 In Wikimedia Commons

ここのヴェーゼルのくだりが不自然だなあ(当時ヴェーゼルはスペイン軍管轄なので)と思ったので調べたら、このときイングランド軍に安全にライン川を渡らせるため、前もってマウリッツがヴェーゼルを攻囲していたらしいです。この絵の下半分がアルンヘムから到着したフレデリク=ヘンドリクとイングランド軍、左上がオランダ軍陣地(右のヴェーゼルの街より大きい)、ライン川には舟橋が架かっています。さすがにヴェーゼルを本格的に攻撃・奪取するのは停戦に反するからか、この後すぐにオランダ軍は帰国しているようです。

ヴィアー将軍は彼ら負傷兵を、船でプファルツ領のバッハラッハへ送ります。が、その後すぐに、スピノラ候から補給の命令を受けたコルドバ将軍がバッハラッハへ進軍、スペイン軍を見ただけで守備隊が降伏したため、10月1日、街はスペイン側に占領されました。その後負傷したイングランド兵は丁重に扱われ、帰国させられたとのことです。

一方のヴィアー将軍とフレデリク=ヘンドリクはライン川を渡ると、ナッサウ伯領を横切ってタウヌス山地を抜け、フランクフルトを目指します。マイン川を渡り、10月5日にダルムシュタットに到着したところでアンスバッハ辺境伯の騎兵先遣隊1500名と合流、役目を終えたフレデリク=ヘンドリクはそのままオランダへ帰国することになりました。10月7日、連合軍はベンスハイムに到着し、ここでヴィアー将軍は一時兵を休ませます。(この場合の「休む」は「数日留まって訓練する」の意味のようですが…)。


ベンスハイムに着いたイングランド軍は、この街が「ニーベルンゲンの歌」の舞台だ、ということに何か特別な感情(王妃のために戦う、というような騎士道的くだり)を抱いたとされますが、17世紀当時、後のロマン主義で好まれるような吟遊詩の類はあまり盛んではなかったことに加え、イングランド人がドイツの叙事詩にそこまで造詣が深かったかどうかはやや疑問です。

10月11日、ヴォルムスでようやくイングランド軍とウニオン軍が合流します。マインツにいるスピノラ軍をおびき出すため、ヴィアー将軍は近郊のアルツァイまで進軍してみますが、その間にスピノラ候はヴィアー将軍不在のヴォルムスを急襲していました。急いでイングランド軍が戻ってみると、わずかに砲の撃ち合いがあった後にスピノラ候は退却してしまったとのことでした。エセックス伯はアンスバッハ辺境伯に、敵の後衛を叩くための騎兵を貸してくれとスペイン軍追撃を促しますが、辺境伯が敵の砲の射程に入るのを嫌がって固辞したため、せっかくのチャンスをふいにすることになりました。

スピノラ候が戦いを挑んできたのはこれが最初で最後で、これ以降スペイン軍は、決して戦いを仕掛けず陽動に徹し、進軍しては退却を繰り返して相手を疲弊させる戦術に切り替えました。そんな中11月も半ばになり、軍は冬営に入ります。ヴィアー将軍はイングランド軍を3つに分け、3つの拠点をそれぞれ守らせることにしました。

  • マンハイム: ホレス・ヴィアー将軍
  • ハイデルベルク: ハーバート卿ジェラルド
  • フランケンタール: ジョン・ボロー大隊長

ちょうどそんな折、白山の戦いでフリードリヒ五世が敗北し、ボヘミアを追われ亡命を強いられているという知らせがプファルツにも届きました。さらに半月後にこのニュースはロンドンにまで到着し、娘を見捨ててこんな目に遭わせたとして国王が非難されます。ヴィアー将軍も、エセックス伯とオックスフォード伯の2人を本国に送り、遠征軍の増強と国の方針の説明とを求めましたが、いずれも良い回答は得られませんでした。

ウニオンの解散

Arolsen Klebeband 18 051 1

『プロテスタント同盟』の解散(風刺画) (1622) In Wikimedia Commons

1621年1月21日、フリードリヒ五世とその家臣であるアンハルト公に対し、皇帝フェルディナント二世は帝国アハト刑を下しました。2月、ウニオンの代表者たちはハイルブロンでフェルディナント二世と会合しそれに抗議しましたが、逆に皇帝から説得されてプファルツに対する皇帝側の措置を認め、事実上ウニオンは空中分解してしまいました。

オランダ・スペイン間の十二年休戦条約の失効を間近に控えたこの時期、オランダ戦線への復帰を望むスピノラ将軍とブリュッセル執政府の利害が一致したため、5月24日、スピノラ将軍は多分に脅迫的な方法でウニオンの代表者たちとマインツで協約を結び、同盟の解散とスペイン軍(コルドバ将軍)の駐留を強引に認めさせました。

さらに6月、フリードリヒ五世のかつての摂政だったプファルツ=ツヴァイブリュッケン公ヨハン二世がプファルツの代官職を辞したことによって、同盟は完全に崩壊することになります。

ユーリヒ攻囲戦(1621-1622)

Taking of Jülich (1622)

Frans Hogenberg (1624) ユーリヒ攻囲戦 In Wikimedia Commons

1621年4月9日に十二年休戦条約が失効すると、プファルツ遠征の途上にあったスピノラ候はさっそくヴェーゼルで新たに対オランダ戦線用の軍の編成を始めました。スピノラ候は、先に部下のファン・デン=ベルフ伯に攻囲を始めさせ後からユーリヒに合流、5か月後にこれを開城させます。

ユーリヒ攻囲戦に関しては、八十年戦争の枠内のため、別記事で扱います。

フランケンタール攻囲戦(1621)

Wahre vnd eygentliche Abbildung der Statt vnd belägerung Franckenthal wie dieselbe von dem berümbten Obersten Don Goncalo de Cordova von dem 27. Septembris an-biss zum 14. Octobris dieses LCCN2005678023

Unknown (1621) フランケンタール攻囲戦 In Wikimedia Commons

1620年の冬以来、スペイン軍のコルドバ将軍は、イングランドのボロー大隊長が立て籠もるフランケンタールに断続的に圧力をかけつつライン地域に展開していましたが、1621年9月、本格的に攻囲を開始します。12月、マンハイムからヴィアー将軍自身が援軍として駆け付けたためコルドバ将軍は退却し冬営に入りましたが、その数日前に、イングランド軍では有望な若手将校であるフェアファクス兄弟(ウィリアムとトマス)の2人を亡くしています。

フェアファクス兄弟に関しては、「フェアファクス卿父子(フェルディナンド/トマス) Load Fairfax of Cameron」参照。

フリードリヒ五世と傭兵隊長たちによる戦役 1622/4-1622/8

1622年の一連の戦いは三十年戦争でも比較的よく取り上げられるのと、籠城中のイングランド軍とはあまり関係ないため、ここでは概要にとどめました。この年フリードリヒ五世を支援した代表的な人物は3名。このフェーズの戦闘は、彼ら3人の傭兵隊長たちの軍、敵方のティリー軍とコルドバ軍、それぞれ自軍は合流を図り、敵軍の合流は阻止しようとする、その繰り返しで成り立っています。

  • バーデン=デュルラハ辺境伯ゲオルク=フリードリヒ: ウニオン解散後もフリードリヒ五世を支持
  • マンスフェルト伯エルンスト: フリードリヒ五世との腐れ縁で再登場
  • ブラウンシュヴァイク公クリスティアン: フリードリヒ五世妃エリザベスのために決起

ヴァインガルテンの戦い

4月4日、ウニオン軍のバーデン=デュルラハ辺境伯が、バイエルン軍のティリー伯と皇帝軍のパッペンハイム伯と対峙した戦い。夕暮れ時の総攻撃で連合軍側が辺境伯を撃退、この後ヴァインガルテンは破壊され、旧教に回帰することになります。

ミンゴルスハイムの戦い(ヴィースロッホの戦い)

4月27日、バーデン=デュルラハ辺境伯とマンスフェルト伯が、スペイン軍のコルドバ将軍とバイエルン軍のティリー伯との合流を阻止しようとした戦い。ここでティリー伯の撃退には成功したものの、その後彼らが合流することまでは阻めませんでした。

ちなみに、この戦いの数日前に、ハーグから秘密裏に抜け出していたフリードリヒ五世本人がマンスフェルト伯軍に加わっています。フリードリヒ五世はハイデルベルクとマンハイムを経由して、それぞれイングランドの忠実な援軍たちをねぎらっています。

ヴィンプフェンの戦い

Battle of wimpfen 1622

Peter Snayers (1622) ヴィンプフェンの戦い In Wikimedia Commons

5月6日、バーデン=デュルラハ辺境伯とマンスフェルト伯は、スペイン軍のコルドバ将軍とバイエルン軍のティリー伯の各個撃破を試み二手に分かれ進撃します。しかし辺境伯は既に連合していた相手と相対する羽目になり、ほぼ全軍を失うこととなりました。

ロルシュの戦い

Ivory cover of the Lorsch Gospels, c. 810, Carolingian, Victoria and Albert Museum

ロルシュ福音書の象牙製表紙 In Wikimedia Commons

6月10日、ヘーヒストの戦いに先立って行われた、マンスフェルト伯とティリー伯による小競り合い。ティリー伯はこれによりマンスフェルト伯の進軍を一時留めました。この際に、この街の教会に保管されていた『ロルシュ福音書 Codex Aureas』が盗まれ、転売しやすいように二分割されてしまったそうです。

ここに至ってようやくイングランド国王ジェームス一世は、ティリー伯とフリードリヒ五世との休戦交渉のための仲介を申し出、大使としてチチェスター卿アーサーをヴィアー将軍のいるマンハイムへ送ります。フリードリヒ五世もここに合流しました。しかしイングランドのこの動きは遅きに失したもので、ティリー伯側は、チチェスター卿は歴戦の戦士であってとても大使とは認められないと取り付く島もありませんでした。チチェスター卿も、ならば自分も大使ではなく戦士として振舞おうと返し、役目を放棄してフランケンタールの守備隊に加わってしまいました。フリードリヒ五世はこの交渉の経緯に絶望し、6月半ば、マンハイムを去って再度マンスフェルト伯のもとへ向かいます。

ヘーヒストの戦い

Schlacht bei Höchst Merian 1622

Matthäus Merian (1622) ヘーヒストの戦い In Wikimedia Commons

同じ頃の6月20日、スペイン軍のコルドバ将軍とバイエルン軍のティリー伯は、マンスフェルト伯との合流を図ろうと舟橋でマイン川を渡河中のブラウンシュヴァイク公クリスティアンを襲撃しました。クリスティアンは追撃を逃れ辛くも退却に成功しましたが、数千人の傭兵を、戦死ではなく溺死させてしまいました。

フリードリヒ五世を擁したマンスフェルト伯とヘーヒストから退却したクリスティアンはこの直後に合流しますが、アルザス・ロレーヌ地方へ向かう道すがら数十にもわたる街の略奪を続けたため、7月、その野蛮な行為にさすがに辟易したフリードリヒ五世は彼らとの契約関係を解消し、自身は叔父ブイヨン公のいるセダンへ逃れました。

フルーリュスの戦い

Battle of Fleurus 1622

Matthäus Merian (1640) フルーリュスの戦い In Wikimedia Commons

8月29日、フリードリヒ五世との契約を打ち切られたマンスフェルト伯・ブラウンシュヴァイク公両軍は、オランダ戦線(ベルヘン=オプ=ゾーム攻囲戦)に向かうことにしました。しかしその途中、スペインのコルドバ将軍の追撃を受け壊滅状態に陥ります。

フルーリュスの戦い(ベルヘン=オプ=ゾーム攻囲戦内記事)に関しては、八十年戦争の枠内のため、別記事で扱っています。

プファルツ最後の攻囲戦から選帝侯位の移転まで 1622/9-1623/3

ハイデルベルク攻囲戦

Heidelberg während des 30jährigen Krieges 1622

Unknown (1622) ハイデルベルク攻囲戦 In Wikimedia Commons

ブラウンシュヴァイク公をヘーヒストで破ったバイエルン軍のティリー伯は、7月上旬からイングランド軍の守るハイデルベルク城を攻囲していました。ここにフルーリュスでマンスフェルト伯とブラウンシュヴァイク公をラインから駆逐したスペインのコルドバ将軍を加えると、9月上旬から本格的に砲撃が開始されました。ハイデルベルクの街はオランダ人将校のファン・デル=メルフェン、ハイデルベルクの城はハーバート卿がそれぞれ守っていましたが、9月26日、激しい一斉攻撃で街の門が破られ、街の守備隊は城に逃げ込みます。その後街はティリー軍の略奪を受けました。

城はそれから数日持ちこたえましたが、敵の襲撃の先頭に立って指揮を執っていたハーバート卿がついに致命傷を負って倒れると、9月29日、ファン・デル=メルフェンが代行で開城のサインをしました。イングランド軍には名誉ある退却が認められ、街は略奪を受けたものの城はほとんど無傷で制圧されました。そのため、約30年後にフリードリヒ五世の次男カール=ルートヴィヒが領地を回復され帰国した際にも、城はほぼ往年の状態を保っていたとのことです。

マンハイム攻囲戦

MannheimTilly

Peter Isselburg (1623) ティリー伯によるマンハイム攻囲戦 In Wikimedia Commons

ハイデルベルク陥落後、ティリー伯はそのままの足でイングランド軍総司令官のホレス・ヴィアー将軍の守るマンハイムに向かいます。マンハイムの防衛線は広大で、1400人の守備隊で守るには広すぎました。また、この時点で既に、援軍はおろか補給も滞って久しく、資金も弾薬も尽きていました。窮地に追い込まれながらもイングランド軍はシタデル(要塞内要塞。画像の上部分)に籠城し最後の抵抗を続けましたが、11月2日、最終的に名誉ある開城に応じることになります。

ヴィアー将軍はいったんフランクフルトへ退却し(前述のチチェスター卿もこのときフランクフルトに居ました)、その後ハーグに向かいました。イングランドへの帰国は年が明けてからとなります。

フランケンタール攻囲戦(1622-1623)

図らずも、ボロー大隊長とわずか数百名のイングランド軍が守るフランケンタールがプファルツの最後の牙城となりました。ボロー大隊長はバイエルン軍のティリー伯、次いでスペイン軍のベルデュゴ伯の攻囲を辛くも耐え抜き、物資の乏しいまま冬を越しました。しかし翌1623年4月14日、英国王ジェームス一世の命により開城を余儀なくされます。しかもこの命令は、最後まで「プロテスタントの大義」に忠実だった臣民に対する国王の慈悲や温情などといったものではなく、スペイン王室との縁組へ向けてのジェームス一世のパフォーマンスでした。

一説には、南ネーデルランド執政のイザベラの調停もあったとされます。ボロー大隊長に対し、「エリザベスの嫁資の名目でフランケンタールは安堵する」との懐柔策を示し、開城を納得させたとのことです。当然ながら、イザベラとしてはこの約束を守る気は端からなかったのですが。

いずれにしても、フランケンタール陥落によってプファルツ遠征は終結することとなります。

余波

Maximilian I, Pfalzgraf von Bayern and Kurfurst, by an unknown artist, 1623-24 - Bode-Museum - DSC02804

バイエルン選帝侯のメダル (1623-1624) In Wikimedia Commons

1623年2月のレーゲンスブルク帝国会議において、バイエルン公マクシミリアン一世がプファルツ選帝侯位を獲得しました。これは同時に、前選帝侯フリードリヒ五世の選帝侯位剥奪を意味しています。皇帝によるこの決定は金印勅書に反するもので、新旧教双方の帝国諸侯から批判を浴びました。

さすがにジェームス一世も、選帝侯位の剥奪、という前代未聞の事態までは想定していなかったようです。ちょうど同じ1623年2月、王太子チャールズと寵臣バッキンガム公がスペイン王女との縁談のため極秘にマドリードに渡っていましたが、10月、それに失敗して帰国すると世論におもねって対スペイン戦争を主張しました。スペインとの戦争推進派にとっては、国王の娘婿の選帝侯位回復、という名目も大義名分としては充分すぎるものでした。ここに至ってジェームス一世のスペイン寄りの政策は完全に瓦解し、翌1624年、下院の資金援助を得るとジェームス一世はスペインに宣戦布告し、イングランドとして正式に三十年戦争および八十年戦争に介入することになります。

Arolsen Klebeband 18 047 1

Unknown (circa 1621) フリードリヒ五世を描いた風刺画 In Wikimedia Commons 右下で網を張っているのはオランダ人(漁民)の風刺です

一方のフリードリヒ五世ですが、白山の戦いの後のたらい回しの逃亡生活が散々パンフレット等でバカにされた後、最終的に一家でハーグに落ち着いていました。しかしその後も夫妻でプロテスタント諸侯らに対する工作を続け、上記に書いたとおり、いったんはフリードリヒ五世自身が遠征に同行し、領土回復を目論んだこともありました。それが失敗し領土のみならず選帝侯位まで失うと、今度はさらに選帝侯位回復のためヨーロッパ中に協力者を求めます。しかし彼の態度が基本的には他力本願なうえ、イングランドやオランダの正式な支援が得られない中にあってデンマークらプロテスタント勢力の敗退も相次ぎ、皇帝との交渉はことごとくうまくいきませんでした。

ホレス・ヴィアー将軍は帰国後、その騎士道精神や忠誠心が高く評価されました。帰国直後の1623年2月16日には終身の軍需省将軍に任じられ(この時同時にボロー大隊長もフランケンタール防衛の功績によりナイトに叙されています)、翌1624年7月20日に軍事会議の議員に、さらにその4日後にはヴィアー・オブ・ティルベリー男爵家を興しています。とはいえ本人は、これらイングランド国内での出世に頓着せず、その翌月すぐにオランダに渡りブレダ攻囲戦に加わっています。ちなみに、このプファルツ遠征の間にヴィアー将軍が立て替えていた給与も経費も、存命中に完済されることはありませんでした。

Frederick V (1596-1632), keurvorst van de Palts, koning van Bohemen, en zijn echtgenote Elisabeth Stuart (1596-1662) te paard Rijksmuseum SK-A-958

Adriaen van de Venne (1626-1628) 狩りに赴く冬王夫妻 In Wikimedia Commons

フリードリヒ五世が亡命政府を置いたハーグでは、多くの絵画が残されているように、フリードリヒ五世とその家族は狩りや芸術などの娯楽に時間を費やしました。政府や家政を担う人々(数百名といわれています)など、その宮廷にかかる費用も莫大でしたが、さらに1630-1631年にはアーネム近郊のレーネンに冬の離宮まで建設させています。これらの費用はオランダとイングランド両政府の寄付金から賄われたとのことです。(なので、兵員や軍資金をこの二国が出してくれないとか文句言われる筋合い無い気が…)。

リファレンス

  • 世界歴史体系 ドイツ史1、山川出版社、1997年
  • ウェッジウッド, C.V. (瀬原義生 訳)『ドイツ三十年戦争』、刀水書房、2003年
  • Markham, “Veres”
  • Wilson, “Thirty Years War”
  • Schiller, “Thirty Years War”
  • Prinsterer, “Archives”
  • DNB00

トップに挙げたデュ・ムーランの書簡内の「Madame d’Orange」は、『ドイツ三十年戦争』内では選帝侯母后(ルイーゼ=ユリアナ・ファン・ナッサウ)となっていますが、そのリファレンス元の”Archive”では、オランイェ公妃(ルイーズ・ド・コリニー)と明記されています。いずれも作者註・編者註での記載のため、原文が誰を指していたのかはっきりしません。デュ・ムーランの書簡には差出地の記載がありませんが、このときセダンに居たのであれば、第三の説としてブイヨン公妃(エリーザベト・ファン・ナッサウ)の可能性もあります。