グラディスカ戦争(1615-1617) Guerra di Gradisca

Uskoki-Valvasor

Janez Vajkard Valvasor (1689) スロヴェニアのウスコク In Wikimedia Commons

グラディスカ戦争 Guerra di Gradisca 1615/8/11-1617/11/6
対戦国

ヴェネツィア
flag_nl.gif オランダ
flag_en.gif イングランド

flag_es.gif 神聖ローマ帝国
flag_es.gif スペイン

勝 敗 ×
参加者 ナッサウ=ジーゲン伯ハンス=エルンスト
ナッサウ=ジーゲン伯ウィレム
ドン・ジョヴァンニ・ディ・メディチ
ポンペオ・ジュスティニアーニ
シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=プレーン公ヨアヒム=エルンスト
ペーター・メランダー
アダム・フォン・トラウトマンスドルフ
バルタサル・デ・マラダス
オスナ公ペドロ・テジェス=ヒロン
アルプレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン

ユーリヒ=クレーフェ継承戦争の決着の翌年、次はオランダからはるか遠く、アドリア海を舞台にした戦争が始まる。新教のオランダは旧教のヴェネツィアを支援することとなり、援軍の司令官ナッサウ=ジーゲン伯ハンス=エルンストは、何もかもがうまくいかない遠征に苛立ちを募らせる。三十年戦争の直前までだらだらと続いたこの戦争は、オランダ国内のクーデター騒ぎの煽りを受け、甚だしい損失をもたらす結果となってしまった。

一昨夜ブリールに到着し昨夜からドルトレヒトに停泊中の、甥のヨハン=エルンストの軍に合流して我々は沿岸航行する。だが弟のヘンドリクの軍が着いたら、それもすぐにドルトレヒトを出航させよう。

ナッサウ伯マウリッツ/ Prinsterer, “Archives”

はじめに

Uskok War

グラディスカ戦争の主な戦場 In Wikimedia Commons

グラディスカ戦争は、三十年戦争同様に西欧の複数国家が入り乱れた国際戦争です。取り上げられることも少ないうえ、国によって「ウスコク戦争」「フリウリ戦争」などとも呼ばれ呼称にも一貫性がないのですが、ここでは舞台となるイタリアでの呼び方に合わせて「グラディスカ戦争」としました。

オランダ軍は貿易相手国のヴェネツィアに請われて援軍を派遣しますが、今までの派兵とのいちばん大きな違いは、カトリック勢力に味方した(アンリ四世期のフランスの場合は特殊事例なので別として)ということです。しかも共同戦線を張る他の傭兵隊長や連隊長たちは、過去に敵として戦った相手でもあります。参加者欄に挙げた当事者たちの出身国も見事にばらばらです。

この記事では、サイトの主旨上あくまでオランダに主眼を置き、1617年の第二次グラディスカ攻囲戦を取り上げます。ちょうどこの時期、オランダ本国では宗教論争が過熱し、ナッサウ伯マウリッツの「厳格派」表明、議会による「緊急決議」の発令、市民軍の徴集、と、情勢が劇的に変化しています。(詳細については「宗教論争からクーデターへ」参照ください)。それに起因したわずかな行き違いのため、ナッサウ家にもまた新たな不幸が訪れてしまうことになります。

戦闘

Giovanni Bembo Doge-Francesco-Erizzo-1566-1646,-C.1631

ジョヴァンニ・ベンボ (1616) /フランチェスコ・エリッツィオ (ca. 1631) In Wikimedia Commons

1616年までの経緯

「ウスコク」というのは、広い意味では東アドリア海周辺の海賊のことです。17世紀の初め頃には、セニの街にあるネハイ要塞を根城としており、クロアチア・ハプスブルク軍に数えられていました。彼らはゲリラ戦を得意としており、オスマン帝国やヴェネツィア共和国の貿易船を襲っていました。(かつてのネーデルランド「反乱」時代の「海乞食」と似たようなものではないかと)。ヴェネツィアの防衛費は年々嵩む一方で、ヴェネツィアは同時に国境地域でのハプスブルク家との紛争も抱えていました。アドリア海を航行するオーストリア船に税金をかけ、払えないと見ると港を封鎖しその貿易を阻害していたためです。

1615年、ハプスブルク家に雇われたウスコクたちがヴェネツィア船を襲ったことが戦争の契機となります。当時のドージェ(元首)ジョヴァンニ・ベンボはウスコク撲滅を掲げ、フランチェスコ・エリッツィオ(その6代のちのドージェ)率いるヴェネツィア軍は12月20日、イゾンツォ川に面したグラディスカを攻囲します。グラディスカはかつてヴェネツィアの領土でしたが、100年以上前の1511年にハプスブルク家に併合されてしまっていたという曰くのある街でもあります。

スティリア大公フェルディナント(のちの皇帝フェルディナント二世)は、従兄の皇帝マティアス、義弟のスペイン国王フェリペ三世にグラディスカ防衛の協力を依頼します。対オスマン国境防備のため、マティアスは充分な援軍を用意することができず、このときアルプレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン(のちの皇帝軍元帥)のドイツ人部隊を傭兵として雇い、フェルディナント大公が募ったウスコク部隊とともに救援に向かわせています。また、当時スペイン領ナポリ副王をしていたオスナ公ペドロ・テジェス=ヒロンは、本国の許可無くヴェネツィア船に襲撃を加えました。

この攻囲戦は、戦闘行為や疾病で兵に大きな損害が出るばかりで、一向に街を陥とすことができません。ヴェネツィアはオランダとイングランドに援軍を求めることになります。

1616年9月、オランダ連邦議会は援軍の派遣に同意し、その隊長にナッサウ=ジーゲン伯ハンス=エルンストを指名しました。しかしハンス=エルンストのこの分遣隊運営は最初から難題が続きます。そもそもオランダとヴェネツィアの間の正式な契約にそれから半年近くかかったこと、輸送船を揃えるのに手間取ったこと、雇った兵への支払が滞ったために暴動が起きかけたこと(オランダでは兵に賃金を前払いし、ヴェネツィアでは到着後の支払いとしていたため)、利益が出ないからやっぱり貸したくないと船主からクレームが出たこと、挙句の果てには冬の嵐のため春になるまで出航が遅れたこと―。ハンス=エルンストも、行く前からすっかりやる気を失くしてしまっていました。遠征にはハンス=エルンストのほか、弟のウィレム(のちのナッサウ=ヒルヒェンバッハ伯)と、おそらく従弟のナッサウ=バイルシュタイン伯ルートヴィヒ=ハインリヒも加わりました。

第二次グラディスカ攻囲戦

GiovannideMedici Arolsen Klebeband 01 403 2

ドン・ジョヴァンニ (1600-1602) /デ・マラダス将軍 (17th century) In Wikimedia Commons

オランダとイングランドの援軍がヴェネツィアに到着したのは1617年4月上旬です。実はこのグラディスカ攻囲戦を「第二次」とするのはオランダ到着後のことを指すようで、それまでも絶えず攻囲自体は続いてはいました。グラディスカ攻囲のヴェネツィア軍の総司令官は、前任のポンペオ・ジュスティニアーニの戦死後、トスカナ公の庶子で建築家でもあるドン・ジョヴァンニ・ディ・メディチに移っていました。ドン・ジョヴァンニはもとは皇帝軍の将軍でしたが、この戦争からその敵側に回っていました。このドン・ジョヴァンニとナッサウ伯たちはとにかく反りが合わず、事ある毎に対立を繰り返します。

オランダ軍がグラディスカに到着し攻囲戦に加わったのは6月1日以降です。ここからすぐにオランダ軍は複数の砦を奪取し、小規模戦闘ではオーストリア大公のクロアチア軍総司令官アダム・フォン・トラウトマンスドルフを戦死させています。(その後ハプスブルク側の総司令官はバルタサル・デ・マラダス将軍に委譲されます)。

これを好機としたオランダ軍は、全軍でもって一気にグラディスカを陥落させる総攻撃を打診します。が、ドン・ジョヴァンニは自分の指揮ではない作戦を嫌がり、加勢を拒絶しました。また、ドン・ジョヴァンニが充分な休養を許可しないため、病気が蔓延しオランダ軍はわずか数週間のうちにみるみるうちに数を減らしていきました。挙句、翌月に入りオーストリア軍に援軍のヴァレンシュタイン将軍が到着し、いくつかの拠点を奪還されると、ドン・ジョヴァンニは体調不良を理由に総指令職を降りてしまいます。さすがにこれにはハンス=エルンストも激怒し、自分も本国の連邦議会に宛てて辞職を申し出たほどです。このような状態で、戦線は膠着したままとなりました。

オランダ本国の状況

Pauwels van Hillegaert - Het afdanken der waardgelders

Paulus van Hillegaert (1627) 「マウリッツ公による市民軍解散 (1618)」 In Wikimedia Commons

ナッサウ伯マウリッツの厳格派表明と「緊急決議」

詳細については「宗教論争からクーデターへ」に譲りますが、1617年夏の本国オランダでは、

  • 7月23日 マウリッツの厳格派表明
  • 8月4日 「緊急決議」による各都市市民兵の徴集
  • 9月~ マウリッツの軍事威嚇行為

と、急ピッチで話が進んでいます。もとは穏健派・厳格派に分かれた宗教論争が、マウリッツの厳格派表明により、政治勢力と結びついて国内を二分する争いになりました。法律顧問のオルデンバルネフェルトは議会で急遽「緊急決議」を議決させ、厳格派市民の暴動に備えるための自衛軍の徴集権を各都市に認めます。そのような各都市参事会に対し、自衛軍を解散するよう、マウリッツは正規軍を率いて威圧を始める決心をします。ほぼ内乱にも相当する切迫した事態といえます。

そもそも初めの宗教論争は1604年頃から始まっていて、火が点いたのがスペインとの休戦直後の1610年、ここにきて急激に事が進み始めたのは、いっそのことここで共和国の国教を決定してしまおうという宗教会議の開催が叫ばれ始めたためです。自らの投じる一石の大きさを知っていたマウリッツは、最後まで党派を明らかにしてきませんでした。正直興味もなければ本当にどっちでもいいと思っていた節もあります。しかし、従兄でフリースラント州総督のウィレム=ローデウェイク(過激な厳格派として知られています)の圧力や、英国王ジェームズ一世をはじめとする国際的な関心や干渉の強まる中、とうとう選択を余儀なくされ、腹を括る必要に迫られたわけです。

ナッサウ家の方針とハンス=エルンストの死

Old udine

Joseph Heintz the Younger (ca. 1650) ウーディネ In Wikimedia Commons

このクーデター騒動の中、マウリッツはナッサウ家の利益を最優先として動いていました。マウリッツは、自分は党派を表明したものの、弟のフレデリク=ヘンドリクには決して自分の信条を人前で言わないよう助言していました。これは仮に自分やウィレム=ローデウェイクが州総督職を追われるなど失脚に追い込まれたとしても、後々オランイェ公を継ぐであろう弟にはダメージが少なくなるようにとの配慮です。またマウリッツはさらに、自分にウィレム=ローデウェイクやエルンスト=カシミール兄弟が参謀や副官として助力してくれていたのと同様、将来的にフレデリク=ヘンドリクにはハンス=エルンストを補佐役にと考えていました。状況がどう転ぶかわからない時点では、ハンス=エルンストが今現在国内に居ないことはリスクヘッジとして好都合でもありました。

ハンス=エルンストは7月末に、もうこの役目は嫌なのでオランダに帰国したいとマウリッツにも手紙を書いています。ちょうど「緊急決議」の時期と重なるこの状況下で、マウリッツはもうちょっと我慢してヴェネツィアに留まるよう、その意向をいったん却下しました。これには、もしハンス=エルンストが帰国したらその代わりに息子のフレデリク=ヘンドリクがヴェネツィアに行く羽目になるのではないか、と見当違いの心配をした義母ルイーズ・ド・コリニーの強力な後押しもありました。

ハンス=エルンストが赤痢に罹ったのはその直後かと思われます。オランダでの軍事力行使の決定とグラディスカ戦争の和平交渉の開始を受け、マウリッツの次の手紙は逆に早期帰国を要請する内容だったようです。このほんの少しの時期のずれが重大な結果をもたらしてしまいました。ハンス=エルンストは、自身は病気が治ってから帰国する旨を伝えたようですが、結局快癒することはなく、新暦9月27日、そのままウーディネで客死しました。おそらく本人は知ることはありませんでしたが、マドリードで和平条約の締結された翌日のことです。しかも、プロテスタント信者の埋葬がカトリック当局によって拒否されたため、防腐処理されたハンス=エルンストの遺体はしばらく時間をおいてから故郷のジーゲンに送られることになります。

冒頭に挙げたマウリッツのウィレム=ローデウェイク宛書簡の日付は新暦10月2日です。この「一昨日到着したハンスの軍」とは、病気のハンス=エルンストに先立って返された軍の一部のことでしょうか。この日の時点ではまだ、マウリッツはハンス=エルンストの死を知らないであろうことが読み取れます。ヴェネツィアからの航海に1ヶ月弱かかることを考えると、おそらくこの艦に乗っている乗組員たちも同じでしょう。

余波

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セニのネハイ要塞 In Wikimedia Commons

マドリード条約

フランスとスペインの仲介によってパリで和平交渉が始められ、最終的にマドリード条約として1617年9月26日に和平条約が発効されました。条約によってヴェネツィアは勝者とされ、ウスコクはセニから追放されることになりました。また、イストリアおよびフリウリ地域で皇帝軍が占領した場所はすべて返還されることとなりましたが、それは結局戦争前の状態に戻っただけの話で、何か得たものがあるわけではありません。むしろこれら戦場となった地域の疲弊は激しく、9割以上の家屋が破壊され、9割以上の耕地が放棄されたとも言われています。

ヴェネツィアとオランダとの関係でいえば、この戦争ののち、関係がより深まり対ハプスブルクで同盟を結ぶことになります。同じく商業を生業とした共和国であり、かといってその商業上の縄張りがあまりかぶらないので、互いに利益を阻害することが少ないことも理由かもしれません。1619年に条約はハーグで調印され、翌年からヴェネツィアとの間に互いの大使が常駐するようになりました。

三十年戦争との関わり

これ以降のヴェネツィアとオーストリアとの関係は比較的平穏に保たれたため、ヴェネツィアはあまり三十年戦争には関わらなかったといって良いでしょう。1648年のウェストファリア条約でも、交渉の仲介者として明記はされていますが、ヴェネツィア共和国に言及した条項はありません。

オランダが分遣隊を派遣し、かつ、スペインも(間接的にではあれ)参戦しマドリードで条約の結ばれた戦争ではありますが、これは両者とも「十二年休戦条約」違反にはとくに問われなかったようです。そのためオランダ・スペイン両者にとって、休戦明けのライン地域やネーデルランドでの戦いは、三十年戦争にカウントされる場合があったとしてもあくまで「八十年戦争の続き」であり、このグラディスカ戦争との直接の関わりはやはりありません。

どちらかといえば、国レベルではなく戦闘の現場に居た傭兵隊長レベルでの関わりが大きいといえます。とくに、のちに皇帝軍の元帥に任じられる人物たちのデビュー戦となったといえる戦いでもあります。このときに初めてフェルディナント大公に雇われたヴァレンシュタイン(1625年元帥)はもちろんのこと、デ・マラダス将軍(1626年元帥)は、さっそく1618年に皇帝軍元帥ブッコワ伯のもとで騎兵を率い、ロムニスの戦いをはじめとしてボヘミアで対フリードリヒ五世戦を戦っています。また、英蘭兵を含む両陣営の多くの兵たちが、帰国できずこのまま三十年戦争へ流れていったとの指摘もありますが、同様に、それまでオランダ軍に在籍していたと思われるペーター・メランダーもオランダには戻らず、ここで独立して傭兵隊長として身を立てていったようです。彼もかなり後(1642年)には皇帝軍の元帥になることになります。

さらにずっと後の1693年の話ですが、このときオランダ軍に助力したシュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=プレーン公ヨアヒム=エルンストの長男ヨハン=アドルフは、ウィレム三世時代のオランダ共和国軍元帥となっています。

リファレンス

  • 栗原福也「十六・十七世紀の西ヨーロッパ諸国 二 ネーデルラント連邦共和国」『岩波講座 世界歴史(旧版)<15>近代2』、岩波書店、1969年
  • クリステル・ヨルゲンセン他『戦闘技術の歴史<3>近世編』、創元社、2010年
  • ジェフリ・パーカー 『長篠合戦の世界史―ヨーロッパ軍事革命の衝撃 1500-1800年』、同文館出版、1995年
  • Wilson, “Thirty Years War”
  • Motley, “Life and Death”
  • Prinsterer, “Archives”