対戦国 | フランス イングランド オランダ |
スペイン |
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勝 敗 | × | ○ |
参加者 | アンリ四世 エセックス伯ロバート・デヴァルー ナッサウ伯マウリッツ |
オーストリア大公アルプレヒト ルイス・デ・ベラスコ カルロス・コロマ ブッコワ伯シャルル=ボナバンチュール ナッサウ伯フィリップス=ウィレム |
兄オーストリア大公エルンストの死を受け、スペイン国王フェリペ二世の執政としてネーデルランドに送られたオーストリア大公アルプレヒト七世。色白で貧弱な新執政は、華々しいブリュッセル入場の直後、フランス国王アンリ四世と戦うべくフランスに向け出陣する。「誰もが信じようとしない3つの真実がある。エリザベス女王は生涯『処女王』のままだろうということ、余が善きカトリック教徒であること、そしてアルプレヒト大公が優れた司令官だということだ。」――アンリ四世がそう語ったように、枢機卿あがりの司令官と侮る者が大半を占める中、その資質の恐ろしさに当初から気づいていたのは、同じく自身も戦士であるアンリ四世とナッサウ伯マウリッツだけだった。
私は、「死を恐れる」という感情を持つようなヤワな家には生まれてはいないよ。
オランイェ公フィリップス=ウィレム/ Motley, “United Natherlands”
経緯
1595年2月の南ネーデルランド執政オーストリア大公エルンストの急死を受け、次の執政はその末弟のオーストリア大公アルプレヒトが任命されます。ちょうど1年後の1596年2月、アルプレヒト大公はブリュッセルに入城しました。
アルプレヒトの使命は南ネーデルランド執政府とフランドル方面軍の建て直しでしたが、無能との評判だったエルンストの弟で、現役の枢機卿でもあったことから、当初とくに軍事指導者としてはまったく期待されていませんでした。しかし彼は、幼年期からスペインのフェリペ二世の宮廷で政治・宗教的教育を受け、軍事的にも1589年のイングランドによるカウンター・アルマダを撃退するという実戦経験もあり、オーストリア系ハプスブルク家の兄たちとは育ち方も経歴も一線を画していました。さらに、ちょうどこの執政交代の1年のインターバルの間に、南ネーデルランド執政府のベテランたち(アルプレヒトにとっては老害ともいえるでしょう)の退場が相次ぎ、メンバーが入れ替わっていたことも幸いしていたといえます。この攻囲戦に参戦している中にも、後々三十年戦争で活躍する若い将校たちが何人もいます。
アルプレヒト大公は、前年のフエンテス伯による北フランスでの勝利(デュラン攻囲戦)に乗じ、まずはフランスの対アンリ四世政策をとります。アンリ四世はちょうどこの時、フランス国内の「カトリック同盟」との間でラ・フェール攻囲戦を戦っていました。アルプレヒト大公はブリュッセル入城から2ヶ月も経たないうちにヴァランシエンヌで軍を集めます。ラ・フェール救援のためと思われていましたが、大公は針路を内陸ではなく真逆の海岸方面へ向け、4月8日にはカレーへ到着しました。
戦闘
カレーの街は市街地とその西に展開する要塞に分かれていて、要塞はフランスのユグノー軍とイングランド軍の混成軍が駐屯していました。が、この時フランドル軍本隊のような大軍に対する防備は想定しておらず(エリザベス女王はここで遊ばせている英軍をカディス遠征に使おうと考えていたほどです)、充分な対抗準備ができませんでした。アルプレヒト大公は先遣隊のベラスコ将軍らに命じ、まずは沿岸を速攻によって抑えると、さらに街の河口の砦(冒頭の版画の中央上部にも描かれているリスバネ砦)を降伏させて海からの援軍を完全に遮断し、カレー近郊の駐屯兵たちを要塞内に退却させます。
ラ・フェールを攻囲している最中のアンリ四世は、逆にスペイン軍とカトリック同盟軍との挟み撃ちになる危険性を考えると軍を動かせず、当時対スペイン同盟を打診中だったイングランドに加勢を求めます。エリザベス一世はエセックス伯を援軍として送ることを快諾しながらも、防衛が成功した暁には、カレーをイングランドの支配下におくことを交換条件としました。この条件にアンリ四世が二の足を踏んでいる間に、カレーに到着した大公の本隊は日々攻囲を強化していきます。
アンリ四世は、オランダにも助勢を働きかけました。とくにナッサウ伯マウリッツには個人的な書簡でも援軍を依頼しています。前年の遠征の失敗を受け、マウリッツはこの冬例年以上に激しく軍を訓練していました。ちょうどその成果を実戦で確かめたいという気持ちもあったようです。マウリッツはすぐにゼーラント州に兵を都合させ、自らも船団に乗り込んで4月17日、カレーに向かって出航しました。
ところでこの時、そのマウリッツの異母兄であるフィリップス=ウィレムが、30年にわたるスペインでの虜囚生活から解放され、アルプレヒト大公とともにフランドルに戻ってきていました。アルプレヒト大公とほぼ同い年で個人的な友人でもある彼は、このカレー攻囲戦にもスペイン側として参加していました。(冒頭の版画右下のテント横に書かれている「オランイェ公」の文字はマウリッツではなくフィリップス=ウィレムを指しています)。激戦区で周りの将校たちが次々倒れていく中でも顔色を変えなかった、などというくだりは弟や従兄弟たちとも通じるさすが血というところでしょうか。
同じ4月17日に、スペイン軍の砲撃でカレーの城壁に突破口が開き、第一回めの総攻撃がおこなわれていました。これは辛くも撃退され、双方に大勢の犠牲者が出ました。ここで大公は、8日の猶予を与えて降伏条件を出します。ここでスペイン国王に下ることを良しとしないカレー市民たちは、兵とともに要塞に立て籠もりました。4月24日、交渉期限が切れたとして早朝から砲撃が再開されるとともに、10時には第二回めの総攻撃が強行されれます。仏・英軍の抵抗は激しいものではありましたが、フランドル軍の精鋭の敵ではなく、わずか45分ほどのあいだに一方的に勝敗は決しました。市民を除いた死者・捕虜の合計はほぼ籠城軍総数の5,000人ともいわれます。
エセックス伯の率いる6,000の英軍、マウリッツの20隻におよぶゼーラント船団、フランスのサン=ポル伯の補給船団、そしてさらにアンリ四世自身が一時ラ・フェール攻囲を解いてまでカレーに向かった援軍は、すべてこの総攻撃に間に合わないか、沿岸からの砲撃によってカレーに上陸できず、成すすべがありませんでした。開城の日、カレーの知事と11名の将校たちは最後の抵抗を試みたようですが、これも結局は1時間足らずで鎮圧され、知事以下8-10名の将校たちが処刑されたとのことです。
余波
カレーの占領に成功したアルプレヒト大公は、充分な数の守備隊をカレーに残したうえで、近郊のアルドル、アンギヌガット、アム=アン=アルトワを相次いで攻略し、イギリス海峡への足掛かりを強化しました。アンリ四世はオランダの連邦議会に対し、そのままマウリッツ軍にカレーを再占領するよう命じることを期待しますが、大公のターゲットがオランダ本国に向きかねない現状では、連邦議会が何よりも急ぐべきことはそのマウリッツを即刻ハーグへ呼び戻すことでした。カレー奪還は断念され、アンリ四世自身もそのままラ・フェールに戻り攻囲を続けることになります。
イングランドでも、カレー占領に憤った市民の暴動が起こりました。エリザベス女王は、スペインとの関係においては、常に和平と戦争とを天秤にかけてどっちつかずの態度に終始していましたが、さすがに今回のカレー陥落はイギリス海峡への直接の脅威ともなるため、戦争に振れざるを得なくなります。そしてイングランドではエセックス伯の主導で、カディス遠征軍が組織されることになりました。ここに長年オランダで戦ってきたヴィアー将軍の連隊や、オランダの一部軍隊(ナッサウ伯ローデウェイク=ヒュンテル率いるフリースラント中隊など)も加わることになり、オランダ本国の戦力も例年に比べると著しく低下します。
そしてある意味カレーの陥落が、英・仏・蘭の利害の一致をより強めたといっても良いでしょう。三国の対スペイン同盟に関する交渉は、この後より加速していくことになります。
リファレンス
- 栗原福也「十六・十七世紀の西ヨーロッパ諸国 二 ネーデルラント連邦共和国」『岩波講座 世界歴史(旧版)<15>近代2』、岩波書店、1969年
- クリステル・ヨルゲンセン他『戦闘技術の歴史<3>近世編』、創元社、2010年
- ジェフリ・パーカー 『長篠合戦の世界史―ヨーロッパ軍事革命の衝撃 1500-1800年』、同文館出版、1995年
- フランソワ・バイルー(幸田礼雅 訳)『アンリ四世―自由を求めた王』新評論、2000年
- Velpius R., Siege of Calais, 1596
- Motley, “United Natherlands”