宗教論争からクーデターへ

Lastman, Pieter - David handing over a letter to Uriah - 1619

ラストマン(1619)「ダヴィデとウリヤ」 In Wikimedia Commons
オランイェ公マウリッツと法律顧問オルデンバルネフェルトの対立の寓意画。暴君によって不遇の死を遂げる忠臣、というモチーフを揶揄しています。

※過去(20世紀…)に書いた文章からの抜粋に約10年後に加筆修正しました。注釈は略しています。さらに10年経って見るとかなりざっくりで内容不足の感があるので、大幅加筆するか記事を分割するか検討中です。

宗教論争 ~1610年代

Het Arminiaans Testament, 1618 t' Arminiaens Testament (titel op object), RP-P-OB-77.269

Claes Jansz. Visscher (II) (1609) 「アルミニウス派」の寓意画 In Wikimedia Commons

「州議会派」と「州総督派」に分かれて激しく争ったスペインとの停戦論争は、大きな不満の火種は残したものの、「十二年休戦条約」の締結によって強制的に終了しました。むしろオランダ連邦共和国に本当の「危機」が訪れるのは、それからすぐ後のことです。

1604年からレイデン大学内で起こっていたカルヴァンの予定説の解釈をめぐる論争が、休戦条約の翌1610年、大学外をも巻き込む論争に発展します。他の宗派にも広く門戸を開くとする、レイデン大学教授アルミニウスが提唱した「穏健」な解釈を支持する人々が、「建議書」と呼ばれる意見書を連邦議会に提出しました。これに対抗して、厳格なカルヴァン派以外の宗派を認めない、同大学教授ホマルスの「厳格」な解釈を支持する者たちが、「反建議書」を提出します。これが宗教論争の始まりとなりました。

もっとも、当時の共和国内にはローマ=カトリックをはじめとする他の諸宗派に属する人々も大勢存在しており、カルヴァン派・カトリック・その他がそれぞれ人口の約三分の一を占めていました。このように決してカルヴァン派は圧倒的多数派ではなく、さらにその中の穏健派や厳格派という括りは、むしろ少数派ともいえました。これらの「穏健派(建議派)」と「厳格派(反建議派)」が共和国を二分する宗教論争を引き起こしたのは、この二つの宗派に、停戦論争における二大勢力「州議会派」と「州総督派」とが結びついたからにほかなりません。

この二つの派閥は下記のように呼ばれることもあります。紛らわしいのでまとめておきます。

  • 穏健派・アルミニウス派・建議派・レモンストラント派・州議会派
  • 厳格派・ホマルス派・反建議派・反レモンストラント派・州総督派

穏健派の解釈は、宗教迫害を防いで社会の平穏と商工業の発展を促進するとして、特にホラント州の裕福な商人層や寡頭的為政者層、すなわちレヘントたちに支持されました。厳格派の教義は、南部からの狂信的な亡命者はもちろんのこと、社会的不満を持つ一般市民、軍部、内陸諸州(すべてホラント州やレヘントの寡占を快く思わないという点で共通しています)に支持されました。厳格派はスペインとローマ=カトリックを徹底的に否定し、その勢力下にある南部諸州の解放を求めていたため、旧教の黙認と休戦条約の締結を非難しつづけていました。

二つの意見書の提出に対して、ホラント州の法律顧問であるオルデンバルネフェルトは、まずは教会会議の開催を禁じました。また、当時の人々は教会の説教壇を新聞がわりの情報源にしていたのですが、市民までがこのような不十分で多分に偏った情報源からドグマを選択することを恐れ、1614年、オルデンバルネフェルトはこれらの説教壇から宗教論争に関わる説教をおこなうことも禁止しました。しかしこのような規制が強まるほど、地下活動や反対派を誹謗するパンフレットの出版などによって、論争は逆にますます激しさを増していくことになります。

Weegh-schael (pamphlet) Arolsen Klebeband 18 129

J. Taurinus (1617) 穏健派のパンフレット「天秤」/ S. Savery (1618) 「天秤の上の剣」 英大使カールトンを批判したパンフレットと寓意画 In Wikimedia Commons

解決策として、厳格派は、自分たちの教義を半強制的に共和国の国教とするために、全国的な教会会議を開催することを要求しました。複数の宗教の存在は国家の不安定の要因とし、一国家には一宗教であるべきと主張したわけです。逆に穏健派は、諸外国同様に世俗政治を宗教に優先させるべきであるとして、このような宗教論争の問題も州議会単位でそれぞれが独自に解決すべきであると考えていました。全国教会会議の介入が、州の主権を脅かすことを恐れたためでもあります。

ここで宗教問題に関して、他の地方政治問題同様に州レベルで扱うか、外交や国防同様に全国レベルで扱うかという議論がなされました。最終的には、全国教会会議の開催が連邦議会で議決され、1618年8月、教会会議に反対していたオルデンバルネフェルトが逮捕されると、同年11月13日からドルトレヒト全国教会会議が開催されました。

Synode van Dordrecht

Pouwel Weyts (1621) ドルトレヒト全国教会会議の開催 In Wikimedia Commons

ドルトレヒトは、1572年にホラント州議会(第一回自由連邦会議)が開催された場所でもあります。またこの街は「正統派」の世評が高かったため、イングランドのジェームズ一世の要請によって会議場所として適当とされました。会議には26人の外国人議員(イングランド、フランス、プファルツ選帝侯領、ヘッセン辺境伯領、ナッサウ=ヴェッテラウ領、スイス諸州はチューリヒ、ベルン、バーゼル、シャフハウゼン、諸都市はブレーメン、エムデン、ジュネーヴからの代表者)が出席し、全29週間のうち3週間の間を空けたのみで、180の会議が催されました。

会議では教理問答や信仰告白について、また聖書の翻訳について協議されました。途中、1619年1月14日に穏健派の議員たちが議長ヨハネス・ボーヘルマンによって議場から追い出され、その後、五カ条からなるドルトレヒト信仰基準(TULIP)が起草されます。この中で穏健派の教義は否認され、厳格派が事実上の国教として支配権を得ることになりました。

両派の対立の暫定的決着 ~1618年-1619年

共和国内で、宗教問題に関して最後まで立場を明確にしなかったのは州総督のナッサウ伯マウリッツであったといわれています。マウリッツが公然と党派を明らかにしたのは、最終的に1617年7月23日のことです。狂信的な厳格派の第一人者で泥乞食の指導者ヘンリクス・ロサエウス牧師の教会のミサに、厳格派の従兄ウィレム=ローデウェイク等の側近たちを伴って訪れ、それが党派の選択と見なされました。それから事態は急速に進展しはじめます。

同年8月4日、オルデンバルネフェルトはホラント州議会に緊急決議を提出し、その中で州主権と政教分離を強く主張しました。この後、この決議文に反対する厳格派市民の暴動を恐れて、ホラントの各都市は独自に「市民軍」(ワードゲルダー)を召集しはじめました。これは都市が独自にもつ防衛権として、共和国の事実上の基本法であるユトレヒト同盟の第四条にも保証されている権利です。オルデンバルネフェルトは厳格派に緊急決議を強要するために、この市民軍のもつ「合法的」な力をあてにして、軍事力による威嚇を試みたというわけです。

Het afdanken der waardgelders door prins Maurits op de Neude te Utrecht, 31 juli 1618 (Joost Cornelisz. Droochsloot, 1625)

Joost Cornelisz Droochsloot (1625) 「ユトレヒト市民軍の解散 1618/7/31」 In Wikimedia Commons

しかし、軍人であるマウリッツのほうが行動は迅速でした。まずは連邦議会で緊急決議の是非を問い、長い間協議させておきました。その間にマウリッツは単独で軍隊を率いてオーフェルエイセル州・ヘルデルラント州の各都市を回り、市民軍の解散を迫ったうえで「市政の刷新」をおこないました。要は、こちらも軍隊による威嚇でもって、その都市の参事会員(この場合はおもに穏健派に属する人々)を追放し、自分の息のかかった人物をその後釜に据えたわけです。この時点ではオルデンバルネフェルトの方法が「合法」であり、マウリッツの手段の方が「非合法」であるはずでした。

が、1618年7月、マウリッツはホラント州とユトレヒト州の反対にも関わらず、満場一致の扱いで、不当に連邦議会から市民軍の解散権を得ました。これによってマウリッツの非合法的手段は合法化されてしまいました。クーデターです。マウリッツは見せしめとして、反対票を投じたユトレヒトで市民軍の解散と市政の刷新を強行したのち、さらに翌8月にはこの問題に関して、連邦議会から無限の権限を得ました。そして8月28日、オルデンバルネフェルトと彼の3名の支持者(ロッテルダムの法律顧問ヒューホ・デ=フロート〔グロティウス〕、レイデンの法律顧問ロンバウト・ホーヘルベーツ、ユトレヒトの書記官ヒレス・ファン・レーデンベルフ)が政治犯として国家反逆罪のかどで逮捕されました。

Slot loevestein 1619

Claes Jansz. Visscher (1619) In Wikimedia Commons グロティウスとホーヘルベーツのルーフェステイン城収監

その後もマウリッツのクーデターは続きました。10月18日以降は、いよいよホラント州の諸都市(アルクマール、レイデン、ハールレム、ロッテルダム、ハウダ、アムステルダム)で市政の刷新をおこない、それぞれ半数以上の参事員が厳格派の人物にすげ替えられました。

Town Hall at Haarlem with the Entry of Prince Maurits by Pieter Jansz. Saenredam

Pieter Jansz. Saenredam (1630) In Wikimedia Commons マウリッツ公のハールレム市庁舎入城

ちょっと話は前後しますが、続いてドルトレヒトで全国教会会議が開催されます。同時に、ビネンホフに拘束されていたオルデンバルネフェルトらの裁判も始まっていました。その裁判は不当なもので、過酷な拷問に耐えきれずにレーデンベルフは自殺し、デ=フロートとホーヘルベーツは罪状を認めて終身禁固刑に処せられました。ひとり屈しなかったオルデンバルネフェルトは1619年1月にホラント法廷から特別法廷に移され、反対派が多数を占める24人の裁判官のもと、さらに不利な裁判を続けられます。そして9ヶ月にわたる禁固・裁判ののち、オルデンバルネフェルトは1619年5月12日に死刑判決を言い渡され、その翌13日の朝には斬首されてしまいました。同月29日にはドルトレヒト全国教会会議も閉会し、これら一連の事件は一時的に幕を閉じることとなります。

Decapitation of Johan van Oldenbarnevelt - Onthoofding van Oldenbarnevelt (Iustitie aen Ian van Oldenbarnevelt geschiet)(1619, Claes Jansz. Visscher)

Claes Jansz. Visscher (1619) オルデンバルネフェルトの処刑 In Wikimedia Commons

リファレンス

  • 近世教会史13 正統主義時代(5)オランダのチューリップ論争 小海キリスト教会牧師所感
  • キリスト教史を学ぶ会 第22回 ※補足説明欄  鎌倉雪ノ下教会 リンク切れ
  • 佐藤弘幸『図説 オランダの歴史』、河出書房新社、2012年
  • 桜田三津夫『物語 オランダの歴史』、中公新書、2017年
  • 森田安一編『スイス・ベネルクス史(世界各国史)』、山川出版社、1998年
  • 川口博『身分制国家とネーデルランドの反乱』、彩流社、1995年
  • 栗原福也「十六・十七世紀の西ヨーロッパ諸国 二 ネーデルラント連邦共和国」『岩波講座 世界歴史(旧版)<15>近代2』、岩波書店、1969年