一般的に八十年戦争の終点とオランダの独立の完全な承認は、1648年のウェストファリア条約であるといわれています。世界史でも必ず習う有名な条約ですが、「じゃあウェストファリアって何?」と改めて訊かれると、説明に窮するというのが正直なところでしょう。とくにオランダの場合は、「ウェストファリア条約」に先立つ「ミュンスター条約」との関連もあり、なおさら混乱しがちです。
近年、下記の詳細な研究書が出版され、これを契機に「じゃあウェストファリアって何?」をもう一度考えてみました。この本自体が非常に難解であるため、なかなか理解には遠く及ばないのですが、概要の説明である第一部第一章『ウェストファリア講和会議及び条約の概要と「当事者」』を参考にまとめてみました。
ウェストファリア条約―その実像と神話
- 著者: 明石欽司 (著)
- 出版社: 慶応義塾大学出版会
- サイズ: 単行本
- ページ数: 600p
- 発行年月: 2009年06月
【内容情報】(「BOOK」データベースより)
近代国際法、近代欧州国際関係の原点とされるウェストファリア条約。その実態の詳細な提示を通じてウェストファリア条約それ自体についての我々の理解をより正確なものとし、近代国家や近代国家系の形成過程、そして近代国際法の形成過程を問い直す世界水準の研究。
【目次】(「BOOK」データベースより)
第1部 ウェストファリア条約の全体像(ウェストファリア講和会議及び条約の概要と「当事者」/ウェストファリア条約における皇帝及び帝国の「対外的」関係/ウェストファリア条約における帝国等族の法的地位/ウェストファリア条約における「都市」関連規定を巡る諸問題 ほか)/第2部 ウェストファリア条約以後の帝国と欧州国際関係、そして「神話」(ウェストファリア条約の批准及び実施について─第2部の序に代えて/ウェストファリア条約締結以降の帝国/一六四八年以降の諸条約におけるウェストファリア条約/国際法学説における「ウェストファリア神話」の形成─一七世紀後半から一九世紀の「国際法」関連文献の検討を通じて)
IPOとIPM
「ウェストファリア条約」をあらわす二文書を、『その実像と神話』の表記に合わせて、便宜上「IPO(オスナブリュック講和条約)」「IPM(ミュンスター講和条約)」と表記します。
「当事者」
この「当事者」の中には、条約前文に明記されている「三主要当事者」から、署名者(両条約ともに40名前後)、講和会議の参加・不参加に関わらず「この講和に含まれる」者など、多種多様な主体が含まれます。これは「多層的または階層縦断的な関係」(74p)と表現されており、各条約は前文では二国間条約の形式をとっているものの、「多辺的かつ多層的な内容を包括させる」(同)ものです。下記に箇条書きでごく簡単に分類しました。
- 三主要当事者
- 神聖ローマ帝国皇帝
- フランス国王
- スウェーデン女王
- 講和会議参加者
- スペイン
- オランダ
- スイス
- 帝国等族
- 自由帝国都市
- デンマーク
- ヴェネツィア共和国
- ローマ教皇
- ポルトガル・カタルーニャ
- 講和会議不参加者
- イングランド
- モスクワ大公
- トルコ
交渉地
ミュンスター(おもにラテン語での交渉)
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- 皇帝・フランス
- スペイン・フランス(「ピレネー条約」まで持ち越し)
- スペイン・オランダ
オスナブリュック(おもにドイツ語での交渉)
-
- 皇帝・スウェーデン
- 皇帝・プロテスタント派帝国等族
条約が規定する内容
- 条約全般の目的や原則の規定
- 領土や諸権利の移譲、およびそれに伴う補償に関する規定
- 皇帝と帝国等族・自由帝国都市との権利や義務に関する規定
- 宗教問題に関する規定
- 条約実施の手続きに関する規定
ミュンスターとウェストファリア
結論からいうと、「ミュンスター条約」と「ウェストファリア条約」は別物です。下記1の「ミュンスター条約」は、あくまでスペインとオランダ二国間のみの条約です。また「ウェストファリア条約」はひとつの条約ではなく、一連の条約の総称です。一般的には下記2と3の二文書を指して「ウェストファリア条約」と呼びます。この3つの条約が1648年にすべてミュンスターで調印された(オスナブリュック講和条約も調印はミュンスター)ことから、「ウェストファリア」と「ミュンスター」の用いられ方に若干の混乱があるのだと思います。
1. ミュンスター条約
調印1648/1/30(批准1648/5/15)
スペイン国王フェリペ四世とオランダ連邦議会間の二国間条約
2. ウェストファリア条約(IPM: ミュンスター講和条約)
調印1648/10/24
神聖ローマ帝国皇帝フェルディナント三世とフランス国王ルイ十四世間の条約
3. ウェストファリア条約(IPO: オスナブリュック講和条約)
調印1648/10/24
神聖ローマ帝国皇帝フェルディナント三世とスウェーデン女王クリスティナ間の条約
西蘭ミュンスター条約
便宜上この記事内では、上記1の西蘭二国間条約を「西蘭ミュンスター条約」と表記します。
「ウェストファリア講和会議」自体は、正式には1643年の7月からおこなわれていました。この講和会議にからむ「当事者」が膨大な数にのぼったこと、それぞれの間の調整に手間取ったことから、結局「ウェストファリア条約」に至るまで5年以上の月日を要しました。スペインとフランスの二国間に関してのみは、さらに10年以上先の「ピレネー条約(1659)」までかかることになります。
ところで、このミュンスターのテーブルに各国が使節団を派遣したわけですが、州総督フレデリク=ヘンドリクの反対もあってオランダ使節団の出足は遅く、結局現地に到着したのはいちばん最後になってしまいました。これが1646年11月です。ところがオランダはこの交渉の中で、全体の条約とは別に、1648年1月、スペインだけを相手にさっさと二国間条約を結んでしまいます。これが「西蘭ミュンスター条約」です。遅れてのこのこと現れた挙句に、はっきりいって抜け駆けです。オランダにとっては、直接の対戦国であるスペインと正式に終戦のうえ独立を承認されることが第一義なのであり、フランスや他の同盟国との関係で自国が不利にさえならなければそれで良いわけです。
条項のベースは1609年の十二年休戦条約です。ユトレヒト州、ゼーラント州、州総督オランイェ公ウィレム二世(父フレデリク=ヘンドリクは1647年3月に死去)は最後まで和平に反対しました。ゼーラントは首尾一貫して反対を続け、署名もしていません。 ユトレヒト州は途中で妥協し、和平に賛成票こそ投じたものの、署名の際には欠席しています。
その後、オランダは他国の間の仲介役に徹します。実際、1648年10月のウェストファリア条約では、IPMにオランダへの言及はなく、IPOの「当事者」として名前が挙がっているのみで、両文書に署名すらしていないようです。その意味で、「オランダはウェストファリア条約で独立が承認された」とするよりも、「オランダはミュンスター条約で独立が承認された」と記載するほうが、より正確であるといえます。なお神聖ローマ帝国からの独立は、他の帝国等族とまとめてIPMになります。
カトリック信仰に留まったブラバント、フランドル、エノー諸州が、スペイン領南ネーデルランドとしての繁栄を約束される、という寓意画。
リファレンス
- 明石欽司『ウェストファリア条約―その実像と神話』、慶応義塾大学出版会、2009年
- 佐藤弘幸『図説 オランダの歴史』、河出書房新社、2012年
- 桜田三津夫『物語 オランダの歴史』、中公新書、2017年
- 森田安一編『スイス・ベネルクス史(世界各国史)』、山川出版社、1998年
- 川口博『身分制国家とネーデルランドの反乱』、彩流社、1995年
- 栗原福也「十六・十七世紀の西ヨーロッパ諸国 二 ネーデルラント連邦共和国」『岩波講座 世界歴史(旧版)<15>近代2』、岩波書店、1969年