乞食党のはなし/「ヘーゼン」と「ゴイセン」

Brielle-2007

ブリールの「ヘーゼン養護施設」の看板 In Wikimedia Commons

八十年戦争期のオランダを勉強するにあたって、最重要な用語のひとつに「乞食(党)」があります。この用語については思うところも多いので、「オランダ史の歴史用語」の項目の一つとするのではなく、ここで詳しく項を設けました。

日本における「ゴイセン」の誤用

オランダ史は日本では昔からマイナーでした。そのため、かならずしもオランダ専門家によって紹介されてきたわけではなく、特殊な用語の訳出やカナ表記が研究者によってまちまちだったり、誤ったものが多用され、無批判のまま使い続けられてきました。

中でももっとも誤ったものと思われ、かつ使い続けられてきているものが「ゴイセン」です。おそらく21世紀に入っても各種概説書で使われ続けているのではないでしょうか。この誤用への指摘は、オランダ史の側からは、かなり以前から行われてきています。

  • 栗原福也「ネーデルラント連邦共和国」、『岩波講座 世界歴史15 近代2』、岩波書店、1969年
  • 桜田美津夫「いわゆるゴイセンとは何か」、『北欧史研究』第5号、1987年
  • 川口博「予備的考察」、『身分制国家とネーデルランドの反乱』、彩流社、1995年
  • 佐藤弘幸「オランダ共和国の成立とその黄金時代」、『スイス・ベネルクス史』、山川出版社、1998年

もともとフランス語の「乞食(複数)」をあらわす Gueux をそのままオランダ語化したものが Geuzen であり、それがさらにドイツ語化したものが Geusen です。いつ誰がこの単語をドイツ語から日本に持ってきたのかは不明ですが、それでもこのドイツ語も、カナ表記した場合には「ゴイゼン」となるはずで、やや不正確です。つまり、極論すれば日本では、ヨーロッパのどの国でも通じない「ゴイセン」なる用語を独自に使っている、ということになります。

かといって、もともとオランダ語ではないものを「ヘーゼン」とカナ表記するより、管理人も川口氏同様、日本語で「乞食」とするので充分だと思います。もっとも、それはそれで差別表現(?)の問題などもあるのかもしれないですね。

「乞食」誕生の経緯

ネーデルランド一帯で「反乱」が始まる少し前の話です。

1566年4月5日、300名弱の貴族が大挙して、ネーデルランド執政府を訪れました。当時の執政パルマ公妃マルガレータ(スペイン国王フェリペ二世の異母姉)に異端審問の中止を請願するためです。これに狼狽したマルガレータに対し、彼女を落ち着かせようと、側近のベルレーモン伯が次のようにささやいたといわれています。

“Ce ne sont que de gueux” (所詮乞食の群れに過ぎませんよ)

これを耳ざとく聞きつけた請願者たちは、その3日後に再び集まったときに、この蔑称を半ば自虐的に自称することにしました。「乞食上等!」というわけです。乞食の持つ托鉢やずた袋がシンボルとして使われるようになりました。

Emblem of the Geuzen

Unknown (16th century) 乞食のシンボル In Wikimedia Commomns 実際「乞食上等」って書いてますね

この事件にマルガレータ側が一定の譲歩を示してしまったため、カルヴァン派の牧師たちが公然と説教をはじめたり、カトリック教会では新教徒による偶像破壊運動が起こるようになりました。スペイン側から見れば、要は執政府がナメられたわけです。これに対抗するため、翌1567年に国王フェリペ二世は、強硬派のアルバ公を新執政としてネーデルランドに派遣します。

アルバ公の迫害は苛烈を極めたため、新教徒たちにとっての状況は、むしろ「請願」前より悪くなっていきました。アルバ公が到着して一年も経たないうちに、エグモント伯やホールネ伯までが処刑されるに至りましたが、この2人は単なる貴族ではなく数々の特権を持つ金羊毛騎士であり、しかも新教徒ですらなかったのです。いわんや新教徒をや、です。

森乞食・海乞食・泥乞食

森乞食 Bosgeuzen

アルバ公の迫害によって、カルヴァン派を「含む」(「のみ」ではありません)多くの人々が、難民となったり亡命を余儀なくされたりしました。処刑を恐れて自発的に逃れた人々もいれば、街ごととばっちりを受けた人々も含まれていたでしょう。オランイェ公ウィレムその人も、この時にドイツの故郷ディレンブルクに亡命しています。

が、亡命と一言で言っても、それなりに費用はかかります。住処を追われて行くところのない貧しい人々もいたはずです。中でも、ブラバントやフランドルの森林地帯に潜み、スペイン兵に対してゲリラ活動をした人々は、「森乞食」を自称しました。ただし、彼らは数も多くなく、散発的な襲撃を繰り返したのみで、大勢に影響を与えるまでには至りませんでした。

海乞食 Watergeuzen/Zeegeuzen

陸を根城にした森乞食に対して、海を拠点にした亡命者たちは「海乞食」を自称しました。ここには「請願」に署名していた下級貴族も何人も加わっていましたが、当初は海岸沿いの街や近くを航行する船舶(スペイン船を狙い撃ちするわけでもなく、実は大半がオランダ船)の襲撃と掠奪を繰り返していただけで、「社会の屑」とまで呼ばれるようになりました。その収益の一部がドイツのウィレムのもとに流れていたため、ウィレムは彼らの船に私掠許可状を与えてオランイェ公の旗を掲げることを許しはしましたが、その海賊行為自体は到底ほめられるものではありませんでした。イングランドのエリザベス一世は、イングランドの全ての港で海乞食を出入禁止にします。

7a 1572

(1572) 「デン=ブリール開放」の海乞食メダル In Wikimedia Commomns

1572年、ある海乞食の船が、寄港地を無くして仕方なく、偶然たどり着いたのがデン=ブリールです。たまたまスペイン兵が留守だったため、海乞食たちは街をあっさり占領できてしまいました。この偶発的な出来事をきっかけに、「反乱」は各地に飛び火し、大きな流れになっていきます。

が、海乞食は、このデン=ブリール占領以降、数年で急速に姿を消していきます。一説には、反乱の広がりにより、メンバー銘々が出身地へ帰ることができるようになったからともいわれています。もともとが烏合の衆で、特段の結束のなかった集団が、それぞれ別のかたちで反乱に組み込まれ、淘汰されていったということのようです。

新乞食 Nieuwe Geuzen

St andries 1651

Baudartius (1651) 「聖アンドリース砦攻囲戦 (1600)」 In Wikimedia Commomns

1600年のニーウポールトの戦いの直前、ヘーレワールデン近郊の砦で、反乱を起こしたスペイン軍(ワロン地方やドイツ出身者の傭兵軍)の兵士たちが居ました。3年間の給与未払いに反抗し、将校たちを追い出して兵士たちだけで砦に立て籠もったものです。この噂を聞いたナッサウ伯マウリッツは、この機に乗じて砦を奪還しようと試みます。共和国軍は攻囲戦と交渉の末に砦を占領し、さらに彼らが当初スペインに要求していた金額の25%程度の金額で、兵士2,000名をスペインから共和国側に寝返らせることにも成功しました(聖アンドリース砦攻囲戦)。この兵士たちが自称したのが「新乞食」という名前です。

「新乞食」はそのまま翌月のニーウポールトの戦いにも投入され、かつての雇い主スペインと戦いました。なぜか、古参の傭兵軍にもかかわらず、ナッサウ伯ハンス=エルンストやフレデリク=ヘンドリクなど、当時まだ10~20代と若い将校に率いられることを好んだようです。(オランダに寝返るときの条件として、未成年のフレデリク=ヘンドリクを名指しで自分たちの司令官に希望しました)。理由はわかりません。また、この名称は1600-1601年にかけてのみきかれるもので、1601年に当初のリーダーがオーステンデで戦死し、デ・ハルタイングが正式に司令官となった1602年以降は、「マルケット連隊」の名で呼ばれるようになりました。いずれにしても、成立の経緯からも、彼らが新教徒だったとはあまり考えられません。

泥乞食 Slijkgeuzen

De Weegschaal, 1618 Op de Jonghste Hollantsche Transformatie (titel op object), RP-P-OB-77.274

Salomon Savery (1618) 「天秤上の剣」 In Wikimedia Commomns マウリッツが最終的に党派選択をしたことを描いた寓意画

デン=ブリール占領から40年以上後のことです。共和国はスペインと十二年の休戦中、国内では穏健派と厳格派に分かれたカルヴァン派が、宗教論争を繰り広げていました。そんな中の1617年、連邦議会のお膝元ハーグでは、厳格派の説教が禁じられることになりました。そこでハーグの厳格派の信徒は、日曜ごとに、郊外のレイスヴェイクまで泥の中を歩いて厳格派教会に通うことになります。これを自称して「泥乞食」といったわけですが、かなりピンポイントに限られた用法です。しかもこの時点で既に「乞食」は反乱初期のレガシィであり、「森乞食」や「海乞食」とは意味するところもだいぶ違っていて、あくまで対比されるのは、スペインでもカトリックでもなく、同じカルヴァン派の中の別な一派という狭い概念です。

その年のうちには、「厳格派はハーグに教会を持つ権利がある」というナッサウ伯マウリッツの鶴の一声で、泥乞食たちはハーグに教会を回復しました。さらに、1619年のドルトレヒト宗教会議で厳格派が事実上の国教となってからは、泥乞食の存在意義そのものもなくなることになります。

イングランドではピューリタン、フランスではユグノー、オランダではゴイセン

Nieuw Geuzenliedboek 1581

(1581) 「乞食歌集」 In Wikimedia Commons

ところで、よくある記述にこんな一文があります。検索すると山ほどヒットします。

「カルヴァン派は、イングランドではピューリタン、フランスではユグノー、オランダではゴイセンと呼ばれた。」

イギリス史やフランス史の専門家も、この一文にはいろいろ突っ込みたいことがあるかと推測されますが、オランダに関しても、そもそも「ゴイセン」の用語を使っているということを除いても、これもちょっと誤解のある記述です。

もともとマルガレータに請願するため集まった250名あまりの貴族は、カルヴァン派だけではなく、ルター派やカトリックも大勢含まれていました。またアルバ公の新教に対する迫害は激しいものでしたが、「十分の一税」という重税をも課されたため、やはりこれに反抗したのもカルヴァン派だけというわけではありませんでした。そもそも八十年戦争時代全体を通じて、ネーデルランドにおけるカルヴァン派は圧倒的多数派だったことは一度もなく、むしろ単純な数だけでいえば少数派ですらありました。

そして「乞食」を自称する者たちが表舞台に現れたのは、先に述べたとおり、すべての期間を合計してもせいぜい十年前後です。しかもやや性格を異にする「泥乞食」以外については、そこに特定の信教は紐づいていません。

Geuzennap, RP-T-00-3576

Justus van Attevelt (1680-1690) 乞食のシンボル In Wikimedia Commomns こちらも「乞食上等」

確かに当時から、とくに初代の「乞食」たちが消えうせていってから、「Geuzen」という単語が時代と共に一人歩きしていった感はあります。現在でもたとえばWeb検索することを「ググる」といいますが、当時も、似たような使い方で、反乱側に加わることを「Geuzenする」(ヘゼる?)なんて表現することもあったようです。これが転じて、「スペイン(カトリック)に反抗する者」→「カルヴァン派」の図式になった可能性はあります。

「呼ばれた」を文字どおり受身と解釈するなら、実際、「スペインに反抗する者」の意味で相手側から使われることは多々ありました。スペイン軍の将軍たちが、事あるごとに反乱軍や共和国軍の将校を蔑んで「乞食」と呼んでいる例がいくつもあります。ですがそれは最初のベルレーモン伯と同様の用法で、やはり宗教的なイデオロギーの要素はほとんどありません。これらを総合して、「オランダのカルヴァン派=ゴイセン」という呼称はややずれた表現ではないかと思うのです。

リファレンス

記事中に挙げた参考URL以外については以下のとおり。

  • 佐藤弘幸『図説 オランダの歴史』、河出書房新社、2012年
  • 桜田三津夫『物語 オランダの歴史』、中公新書、2017年
  • 森田安一編『スイス・ベネルクス史(世界各国史)』、山川出版社、1998年
  • 川口博『身分制国家とネーデルランドの反乱』、彩流社、1995年
  • 栗原福也「十六・十七世紀の西ヨーロッパ諸国 二 ネーデルラント連邦共和国」『岩波講座 世界歴史(旧版)<15>近代2』、岩波書店、1969年
  • ウィルソン『オランダ共和国(世界大学選書)』、平凡社、1971年
  • ヨハン・ホイジンガ『レンブラントの世紀―17世紀ネーデルラント文化の概観(歴史学叢書)』、創文社、1968年