オランダとオランイェ公

Jan Davidsz de Heem - Vivat Oraenge

Jan Davidsz. de Heem (1670s) “Vivat Oraenge” In Wikimedia Commons

サイト全体の趣旨としてこのテーマを掲げていながら独立した記事としては無かったので、ここでまとめておきます。

日本語(カタカナ)で書くと、「オランダ」と「オランイェ公」と、いい感じに頭韻踏んでますが、もともとは「Hollanda/ホラント州のポルトガル語読み」と「Oranje/フランスのオランジュ公領のオランダ語読み」で、スペルも語源も日本語化の経緯もまったく違っています。

Rodokmen nizozemskych kralu

オランイェ公家系図(なぜかチェコ語版) In Wikimedia Commons

チェコ語なのでちょっと見づらいですが、オランイェ公の家系図があったので挙げておきました。おそらく、ヨーロッパのどの王家の家系図よりもシンプルです。オランイェ公ウィレム一世(沈黙公)とその次弟のナッサウ伯ヤン六世の孫の世代が従兄妹婚をしているので、最初の100年程度こそかなり親い傍系で並立していただけで、その後はほぼ一本線といっても良いでしょう。

「オランイェ公」は常時1名で、複数名で並存はしません。オランジュが公国となった後、「オランジュ公/オランイェ公」を称号としていたのは、12世紀の初代ベルトラン一世から現在のカタリナ=アマーリア王女まで、歴代30人です。

ネーデルランドとオランイェ公

Orange1601

オランジュ公領の位置 In Wikimedia Commons

神聖ローマ帝国の領邦のひとつ、オランジュ公領は、地中海にもほど近い南仏にあり、本来地理的にオランダとは何ひとつ関係ありません。12世紀以降、歴代のオランジュ公は、ボー=オランジュ家、シャロン=アルレー家の2つの南仏の家系に引き継がれてきました。

16世紀、シャロン=アルレー家当主のフィリベール・ド・シャロンが若くして戦死しました。跡継ぎが途絶えたオランジュ公の継承権は、フィリベールの甥(姉の息子)ルネ・ド・シャロンに引き継がれます。ルネはシャロンを名乗りましたが、その父親はナッサウ家の傍系で、ネーデルランドにいくつかの飛び地の領地を持つナッサウ伯ヘンドリク三世でした。これが、まったく接点の無かったオランジュ公とオランダ(この時点では低地地方一帯)との関わりの始まりです。

このルネも若くして戦死し、再度跡継ぎが途絶えたオランジュ公は、ナッサウ家から選ばれることになりました。ここで、ドイツのナッサウ家本家の長男ウィレム一世が登場します。ウィレムはドイツ生まれで、フランスの公国の称号を得、ネーデルランドで宮仕えをすることになりました。しかも当初はフランス語話者としてだったため、「オランジュ公ギョーム」とでも名乗っていたでしょう。

ナッサウ伯ヘンドリク三世のナッサウ家は、正確には「オットー系ナッサウ家」です。ナッサウ家は14世紀に「ヴァルラム系ナッサウ家」と「オットー系ナッサウ家」の2つに分岐しました。当サイトでいうナッサウ家はすべて「オットー系ナッサウ家」(のさらに分家)です。ちなみに、「ヴァルラム系ナッサウ家」は現在のルクセンブルク大公につながっています。

ここで位が上のオランダ系ナッサウ家のほうが本家となりました。逆転した格好ですね。ウィレム一世のオランダ系が「オランイェ=ナッサウ家」、ウィレムの次弟ヤン六世のドイツ系が「ナッサウ家」(17世紀にはナッサウ=ジーゲン、ナッサウ=ディーツ等にさらに分岐)と区別されるようになります。

このウィレムがやがてこの地域における国王の圧制に異を唱え、「ネーデルランドの反乱」を率い、最終的には「祖国の父」と呼ばれる立場になっていったことから、よりオランダに近しくオランダ語で「オランイェ公」と称されることが一般的になっていきます。ウィレムはルネを通じ、ネーデルランド内にあるナッサウ家の所領をも受け継いでいました。逆にその称号である遠隔の領地オランジュとの関係は希薄になり、ウィレム一世以降、ウィレム本人も含め、南仏のオランジュ公領に足を踏み入れたことのないオランイェ公は何人もいます。また、17世紀末にフランス国王ルイ十四世がオランジュ公国を武力で接収してからは、実を伴わない称号だけのものになります。

オランダ共和国とオランイェ公

The arrival of King-Stadholder Willem III (1650- 1702) in the Oranjepolder on 31 January 1691

Ludolf Bakhuizen (1692) ウィレム三世の上陸 In Wikimedia Commons

ウィレム一世以降、オランダ系ナッサウ家の家長が「オランイェ公」を継ぎました。これはネーデルランドの国情と関係なく、純粋に一貴族家系としての継承です。ウィレム一世の次代のオランイェ公、長男フィリップス=ウィレム(冒頭の家系図に載ってないですね…)は、未成年のうちにスペインへ連れ去られ、父の死後オランイェ公を継いでからも15年近くスペインに留まり、南ネーデルランドに戻ってきたのは50歳近くなってからです。この間ウィレム一世の次男マウリッツはオランダで父の職務のみを継いだわけですが、兄の死に伴ってオランイェ公を継いだのは、やはり50歳を過ぎてからです。

一方、1584年のウィレム一世の暗殺を経て1588年に成立したオランダ共和国は、その名のとおり特定の個人を国家元首に持ちません。主権者は、敢えて言うなら「連邦議会」になります。

このオランダ共和国に特有の役職、州総督(スタットハウダー)や陸海軍総司令官も、元首ではなく、州議会や連邦議会に任命される一官吏です。たまたま両役職や複数州の州総督を兼任していたり、半ばオランイェ公の世襲となった時期もあったため、共和国時代のオランイェ公も元首と混同されがちですが、いずれの役職も、公式な為政権や外交権は一切ありません。むしろ、議会からの命令が無いと自らは何もできない立場(恩赦権などの一部権限を除く)であると極言してしまっても良いでしょう。

例外が日本を含む非ヨーロッパ諸国との外交です。「議会」が国家の意思決定機関である、という抽象的な概念を相手国の元首に理解してもらうことへは労力を割かず、ナッサウ伯時代のマウリッツを仮の国家元首に見立てた親書が用意されました。(ここでのマウリッツの称号は「フェーレ侯」などです)。

また、「八十年戦争期の州総督・南ネーデルランド執政一覧」で作成した表でもわかるとおり、少なくとも17世紀の間は、オランダすべての州の州総督を兼任した人物は存在していません。

オランダ王国とオランイェ公

Landing Willem Frederik Scheveningen 1813

Nicolaas Lodewijk Penning (1813) ウィレム六世(のちのウィレム一世)の上陸 In Wikimedia Commons

オランダが王国となった1815年からは、国王の第一継承権を持つ男子のみが「オランイェ公」を称していました。が、1983年以降、男女に関わらず長子継承が可能となり、現在の第一継承権者カタリナ=アマーリア王女は30人めにして初の「オランイェ女公」となりました。日本語に意訳すれば、「オランダ王太子」といったところです。

ちなみに、オランダ王家のメンバーの「苗字」にあたるのは「オランイェ=ナッサウ」です。

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