ザルトボメル攻囲戦(1599) Beleg van Zaltbommel

Zaltbommel 1599

Unknown (1649) “Atlas van Loon” 「ザルトボメル攻囲戦 (1599)」 In Wikimedia Commons

ザルトボメル攻囲戦 Sluis 1599/5/15-1599/7/22
対戦国

flag_nl.gif オランダ
flag_nl.gif フリース
flag_en.gif イングランド
flag_es.gif フランス
flag_pf.gif スコットランド

flag_es.gif スペイン

勝 敗 ×
参加者 ナッサウ伯エルンスト=カシミール
ナッサウ伯マウリッツ
ナッサウ伯ウィレム=ローデウェイク
ナッサウ伯ローデウェイク=ヒュンテル
ホレス・ヴィアー
オデ・ド・ラ=ヌー
アラゴン提督メンドーサ
ルイス・デ・ベラスコ
ラ・バルロット

半世紀前の英雄・ヘルレ公の元帥マールテン・ファン・ロスムにゆかりの街、そして「海乞食」の抵抗で自治を守りぬいた街、ザルトボメル。ワール川沿いに現れたスペインのメンドーサ提督対策としてこの街を訪れていたオランダ軍幹部たちは、そのメンドーサに包囲され、身動きできなくなってしまう。ザルトボメルの救援は、ひとり街の外に居た若干27歳のナッサウ伯エルンスト=カシミールに託された。

何か書こうとすると敵がこの家めがけて撃ってきて、中断を余儀なくされる。直撃さえしなければ、敵の砲が奏でる音楽を聴くのは楽しいものなのだが。

ナッサウ伯エルンスト=カシミール/ Prinsterer, “Archives”

経緯

De strijd in de Bommelerwaard, 1599 Eijgentlijcke afbeeldinge vande gelegentheyt der Stadt Bommel en de omliggende Lantschappen mitsgaders der beyden Legers, te weeten der vermogende E. Heeren Staten der vereenichde Ned, RP-P-OB-80.386

Lambert Cornelisz. (1599) 「ザルトボメル攻囲戦 (1599)」 In Wikimedia Commons それぞれの隊の位置関係がよくわかるバージョン

ザルトボメルは反乱初期の1572年、「海乞食」たちによって、スペイン国王およびヘルレ公(その時点でスペイン国王が兼任)からの自立を宣言した街です。それ以来、スペイン軍の数度に渡る奪還の試みを乗り切り、自治を維持してきていました。北にワール川、南にマース川を臨む中洲の位置にあり、南のマース川を挟んでスヘルトヘンボスにも隣接しているこの街は防衛上も非常に重要です。ナッサウ伯マウリッツはわずか13歳の頃から、築城技師のアドリアーン・アントニスゾーンの理論を用いつつ、古い城壁も残しながら、この街の要塞化を進めていました。しかし資金難のために20年近く経ったこの時点でも要塞は完成しておらず、そこをスペイン軍に突かれることになりました。

このときスペイン軍を率いていたのは、アラゴン「提督」のメンドーサです。メンドーサ提督は前年にラインベルクを攻略した後ライン川に沿って進軍を続けており、4月にはシェンケンシャンツ攻囲に失敗していました。翌月、マウリッツら軍幹部および法律顧問オルデンバルネフェルトを含む連邦議会議員たちが、対策会議のためにザルトボメルに集まっていたところ、メンドーサ提督はライン川からワース川沿いに西進し、瞬く間にクレーフェクールに砦を建設してザルトボメルの攻囲を始めました。

冒頭には煽り文句で書いたものの、実は何故エルンスト=カシミールだけが街の外に居たかは不明です。若年のため「幹部」に数えられていなかっただけかもしれません。いずれにしても彼が自らの裁量のみで主力連隊を運営するのはこれが初めてで、冒頭の地図にも、通常はあるはずの総司令官陣地が描かれておらずエルンスト=カシミールのキャンプだけが描き入れられています。しかし兵員の不足は深刻で、エルンスト=カシミールが最初に率いたフリースラント5個中隊はほとんど何の装備もない状態でした。そこで援軍の必要を感じたホラント州が独自に資金を工面し援軍を送ってきました。最終的にエルンスト=カシミールのもとには歩兵5000人と騎兵8個中隊が集まったとのことなので、迅速に増援がおこなわれたことが分かります。この騎兵8個中隊は、後に彼の弟ローデウェイク=ヒュンテルによって、スペイン軍の追撃に用いられます。

戦闘

Beleg van Zaltbommel door Mendoza, 1599, RP-P-OB-80.390

Simon Frisius (1613-1615) 「ザルトボメル攻囲戦 (1599)」 In Wikimedia Commons 舟橋のこちらにいるのはエルンスト=カシミールとローデウェイク=ヒュンテルの兄弟でしょうか

街の中に残されていたマウリッツ、その従兄弟のナッサウ伯ウィレム=ローデウェイクやローデウェイク=ヒュンテルらは、街中の軍隊と住民たちを動員して、未完成の要塞の応急手当をおこないました。また、浮き橋として使える平底船を用意し、川の通行の自由も確保しました。

メンドーサ提督はフルウェネンとロスムにキャンプを設けますが、前者は街の中から、後者はエルンスト=カシミールのキャンプからの砲撃により、掘削作業が思うように進みません。結局1ヶ月ほど攻囲を続けた6月13日にスペイン軍は撤退を決定しました。 冒頭の地図を見るとよくわかるのですが、この攻囲中の1ヶ月間、エルンスト=カシミールのキャンプは日々ひたすら三方からの砲撃にさらされ続けました。日に50-60発の砲弾が浴びせられましたが、オランダ軍の側も効果的な砲撃を続け、相手の砲台を15以上破壊しました。将校や技術者にも死者や怪我人が出て指導者が不足し、エルンスト=カシミール自身が先頭に立って塹壕を掘る羽目になってしまったようです。

逆に、情報の伝達や物資の調達は、戦時と思えないほどよく機能していました。エルンスト=カシミールのキャンプからザルトボメルの街のマウリッツの居館までは約2時間で、1日に2-3回の情報のやりとりが可能でした。また、キャンプの北側には市場が立ち、エルンスト=カシミールがマウリッツや議員たちに要求した食料や物資は、すべてそこから届けられました。これは、三者間による仲介取引までが可能だったことを意味しています。(これを利用して、エルンスト=カシミールはちゃっかり小遣い稼ぎまでしています)。もっとも、配達人も頻繁に捕らえられていたので、情報が互いに相手方に筒抜けだった可能性も大いにあります。

余波

Beleg van Zaltbommel, 1599 de Bommeler Waart (titel op object), RP-T-1889-A-1919

Lambert Cornelisz. (1599-1621) 「ザルトボメル攻囲戦 (1599)」 In Wikimedia Commons 舟橋と物資調達がよくわかるバージョン

スペイン軍の完全撤退にはそれからさらに1ヶ月以上かかることになります。ザルトボメルの攻囲が解かれたことで、街にいたウィレム=ローデウェイクやローデウェイク=ヒュンテルの軍が、街の外のフォールネ(マース川とワール川の合流地点)に新たにキャンプを築くことができました。6月末にはフランスのド・ラ=ヌー中隊、イングランドのホレス・ヴィアー中隊など、外国から合計8個中隊が援軍に現れました。ここに至って、スペイン軍が川に囲まれた中洲に主力を展開してしまったことが裏目に出てしまったわけです。ちなみに、このフランス軍は国王アンリ四世の肝煎りで送られた軍隊です。前年の1598年に「ヴェルヴァン条約」でスペインと和平を結んだアンリ四世ですが、快く援軍を送り出しています。

マウリッツは川沿いに徐々に戦線を延ばしつつも、不要な箇所への人員の配置は極力抑え、退却を試みるスペイン軍を各所で執拗に追います。その都度、スペインのキャンプからは戦利品が得られました。この地方からスペイン軍を完全に駆逐することができたのは7月22日になってやっとです。とはいえ、その後メンドーサ軍は解散してしまったわけではなく、さらにライン地方に脅威を与え続けます。

ニーダーラインでのドイツ人将軍たちの軍事行動

Jan van Goyen 002

Jan van Goyen (1645) エメリヒ=アム=ライン In Wikimedia Commons

この年、古参のドイツ人の3人の将軍、リッペ伯シモン六世、ゾルムス=リッヒ伯ゲオルク=エバーハルト、ホーエンローエ=ノイエンシュタイン伯フィリップスは、ニーダーザクセン・クライスとクールライン・クライスに要請され、ライン川沿いの対スペイン軍対策のため派遣されていました。しかし利害の一致しないドイツ諸侯の動きは鈍く、ようやくブラウンシュヴァイク公・ヘッセン方伯・ブランデンブルク選帝侯から集めた軍は装備もなく訓練もほとんど受けたことのない烏合の衆という有様で、砲もなければ補給もろくに期待できませんでした。

スペイン軍のファン・デン=ベルフ伯兄弟(長男のヘルマンと末弟のヘンドリク)は、オランダと国境を接するスペイン=ヘルレ州の州総督でもあり、伯としての領地もその中にありました。彼らもこの年、国境沿いの要地をいくつか奪還していました。リッペ伯とゾルムス伯はなんとかオランダのマウリッツ軍と合流を図ろうと、ウィレム=ローデウェイクと連絡をとりつつ進軍し、ファン・デン=ベルフ伯に対抗していくつかの街や砦を死守しました。

  • ワウトリッヘム オランダが防衛に成功
  • ドゥートリンヘム スペイン(ファン・デン=ベルフ伯ヘルマン)が占領
  • オルソイ オランダ(ゾルムス伯)が防衛に成功
  • エメリヒ オランダ(ゾルムス伯)が防衛に成功・マウリッツと合流
  • レース スペイン(ファン・デン=ベルフ伯ヘンドリク)が防衛に成功
  • ヘネプ スペイン(メンドーサ提督)が占領
  • ラインベルク オランダが奪取に失敗

残党狩りと「新乞食」―聖アンドリース砦攻囲戦(1600)

Lodewijk van Nassau verovert Wachtendonk, 1600 Serie 10 Nederlandse en Buitenlandse Gebeurtenissen, 1587-1612 (serietitel), RP-P-OB-78.784-307

Frans Hogenberg (1600-1602) 「ヴァハテンドンク占領 (1600)」 In Wikimedia Commons 右上にローデウェイク=ヒュンテル(なぜかヒゲなし…)の肖像があります

メンドーサ提督は撤退にあたり、あちこちの砦に少数の守備隊を残していきました。その多くがスペイン人ではなく、ワロン人とドイツ人の傭兵でした。しかし慢性的に給与の支払が滞っているうえに、全く給料をもらえない状態で冬を越したことに腹を立て、各地で守備の傭兵たちが反乱を起こし始めました。マウリッツはこれを、砦と人員を総取りできる好機と捉えます。

1600年1月から3月にかけて、結果的に奪取に成功したのはマース川上流のヴァハテンドンク、上述のフォールネ砦(ザルトボメルの後いったんスペインに奪われていました)とクレーフェクール砦、フォールネ砦近くの聖アンドリース砦と、すべてマース川沿いです。やや離れたヴァハテンドンクはローデウェイク=ヒュンテルの騎兵隊による急襲で占領しましたが、残りの砦は短期間の攻囲と買収で入手しています。

Maurits neem de schans Sint-Andries in, 1600, RP-P-OB-80.517

Frans Hogenberg (1613-1615) 「聖アンドリース砦攻囲戦 (1600)」 In Wikimedia Commons 左上星型砦が聖アンドリース、左下がフォールネ

少し手こずったのが聖アンドリース砦です。メンドーサ提督は、過去にこの砦を建設したベラスコ将軍に救援を依頼しました。マウリッツが提示した買収額がスペイン軍の通常の給与のわずか1/4の金額だったこともあり、救援軍を期待する守備隊はオランダ側との交渉をはねつけます。しかしベラスコ将軍が援軍をあきらめ引き返したこと、飢餓と寒さで犠牲者が出始めたことから、守備の兵士たちはオランダとの交渉に反対する将校たちをすべて砦から追い出し、マウリッツの提示額をのんで降伏しました。

聖アンドリースの守備兵たちは、そのままオランダ軍に雇われることになりましたが、彼らは開城時にはやせ細ってボロボロの風体で、その外見から半ば自虐的に「新乞食 Nieuw Geuzen」を自称しました。経緯はよくわかりませんが、彼らはまずはナッサウ伯フレデリク=ヘンドリクの麾下に置かれ、フレデリク=ヘンドリクが未成年のため代理でマルケット卿が指揮をし、その後ナッサウ伯ハンス=エルンストの隊に配属されます。「新乞食」たちもこの時点では想像していなかったこととは思いますが、さっそく同年7月には「ニーウポールトの戦い」、その後「オーステンデ攻囲戦」と、いきなり激戦地でデビューすることになります。

当然ながら彼らはスペイン軍からは法の範囲外におかれました。そんなスペイン軍たちを挑発するため、彼らは敢えてスペイン色の赤のサッシュを逆の肩にかけて戦ったそうです。「新乞食」も「アンドリース野郎」もあまり名誉ある愛称ではありませんでしたが、のち「ワロン古参兵」と呼ばれるようになりました。

経緯はこのようなものでしたが「新乞食(ワロン連隊)」は、八十年戦争中に誕生したたくさんの連隊の中でも、共和国の最後(1795年)まで存続した10連隊のうちのひとつとなります。

ニーウポールトへの道

Beleg van Zaltbommel door Mendoza, 1599 De Stad Bommel belegert door den Admirant, maar verlost door Prins Maurits, in t' Jaar 1599 (titel op object), RP-P-OB-44.123

Jan Luyken (1681) 「ザルトボメル攻囲戦 (1599)」 In Wikimedia Commons 左下がメンドーサ提督(但し街のこちら側にいるのは本来正しくない)

この後「ニーウポールトの戦い」でオランダ軍は再度メンドーサ提督と相対することになります。ザルトボメル攻囲戦でのメンドーサ提督への評価が、「フランドル遠征計画」に対する軍部と議会の意見の相違を産んだといっても良いでしょう。議会は、この「陸に上がった提督」を軽視したため無謀な遠征計画を起草し、軍部は、油断がならない提督だと評価したからこそ、遠征計画に激しく反対したと考えられます。

リファレンス

  • Motley, “United Natherlands”
  • Kikkert, “Maurits”
  • Prinsterer, “Archives”