対戦国 |
オランダ |
スペイン |
---|---|---|
勝 敗 | ○ | × |
参加者 |
ナッサウ伯マウリッツ |
(ヘルマン・ファン・デン=ベルフ) (駐屯地守備兵) |
1月のトゥルンハウトの戦いに勝利したオランダ軍は、その勢いに乗り東部戦線での大規模な遠征を企画する。13歳となりレイデンでの学業を終えたナッサウ伯フレデリク=ヘンドリクは――若年のため将校ではなく盾持ちとしてだったが――自身初の遠征参加に有頂天になっていた。
最終的にラインベルク当局が条件を受諾し降伏した開城交渉の席で、ぼくは自分の責任を充分に果たすべく、ずっと兄上のお側にいてそのお手伝いをしていたんです。
ナッサウ伯フレデリク=ヘンドリク/ Poelhekke, “Drieluik”
はじめに
もともとこの遠征は1595年に計画されていました。しかし、スペイン軍の当時92歳の老将モンドラゴンに阻まれ、完全な失敗に終わっていました。モンドラゴン将軍は1596年はじめに老衰で死去するものの、この年は南ネーデルランドの新執政アルプレヒトの攻勢に加え、英仏との三国同盟に伴いフランスに兵力と資金を提供する必要があったため、オランダ軍は遠征の資金を捻出することができませんでした。そこへ翌1597年1月のトゥルンハウトの戦いで大勝利を得、再度遠征への機運が高まりつつありました。スペインの三度めの国家破産、それによるスペイン兵の暴動の多発が追い風になったことも言うまでもありません。
ナッサウ伯フレデリク=ヘンドリクの従軍はこの遠征が初となります。おそらく兄マウリッツの盾持ちとしての参加で、あまりに嬉しくて姉たちに自慢して回ったようです。とはいえ、この年の晩秋にはその姉のうちのひとりシャルロット=ブラバンティナの結婚式への出席のため、母ルイーズ・ド・コリニーとともにフランスに向かうので、9月中にはハーグに戻ることになります。
ところで、イングランド軍は1597年遠征の最初から最後までずっと同行していますが、司令官のフランシス・ヴィアー卿は8月まで本国のアゾレス諸島遠征に従軍しており、さらに11月にはエリザベス女王の御前で直接その報告をしています。そしてその間のわずか2ヶ月の間にこのオランダの遠征にも参加しており(本人が9月末に低地地方入りしたと書いています)、かなり精力的に動いていることになります。明らかに彼が居ない間のイングランド軍も「ヴィアー隊」と表記されていますが、1597年遠征には弟のホレスが帯同しているため、その名称でも間違いはありません。
またこの遠征の冒頭では、亡きリンブルフ伯アドルフ・ニーウェナールゆかりの、いずれも子供の居ない2人の寡婦の存在が鍵を握ります。この記事ではその2つの攻囲戦を取り上げました。
ラインベルク攻囲戦
8月9日にラインベルクに到着したオランダ軍は、さっそく土木建築に取りかかりました。1591年遠征時同様に砲撃中心の戦術が取られ、11日には各所の砲台が完成して砲撃が始まりました。
その間、オランダ軍は二度の開城交渉の使者を送ります。回数を重ねる毎に砲撃が強化され降伏条件が悪くなる、これも1591年遠征と同じです。ラインベルクは二度とも条件を拒否するものの、三度めで降伏に応じることになりました。この間わずか11日間です。
ナッサウ伯フレデリク=ヘンドリクが姉に伝えた一文は、この三度の交渉すべてを指すものと推測されます。初めての従軍でこんなえげつない駆け引きを見せられたことも、マウリッツとフレデリク=ヘンドリクの戦術がよく似ている理由のひとつかもしれません。
ニーウェナール=アルペン女伯アマーリア
リンブルフ伯アドルフ・ニーウェナールの異母姉。はじめブレーデローデ卿ヘンドリク三世(「海乞食」のリーダーのひとり)、その死後プファルツ選帝侯フリードリヒ三世と結婚し、1587年以降は寡婦となっていました。2人の夫がいずれも狂信的なカルヴァン派だったにもかかわらず(またはその反動か)、アマーリア本人は比較的控えめな信徒だったようです。アドルフ等の親族たちの死後、リンブルフ伯領・アルペン伯領を含むたくさんの領地を相続していました。
ラインベルク攻囲に先立って、アルペン城の前を通ったマウリッツはスペイン軍の手にあったアルペンを解放します。攻囲戦ではなく女伯アマーリアとの条約によって、スペイン兵を駆逐しアルペンを支配下におきました。カルヴァン派のアマーリアはスペイン支配による対宗教改革を快く思っていませんでしたが、かといって、「反乱軍」の仲間だと思われることも頑なに拒否したため、条約は中立条約とされました。
メールス攻囲戦
マウリッツはラインベルクの開城後、まっすぐフロールを目指すのではなく、いったんメールスに軍を向けました。メールスは、スペイン軍のファン・デン=ベルフ伯ヘルマンの送った援軍で守備が増強されていました。ヘルマンは、マウリッツが近いうちに必ずこの街を奪いにくることを知っていました。メールスは城と街からなる構造で、マウリッツは軍を2つに分け、その両側から塹壕を掘っていきます。
城門下に坑道が到達したら地雷で門を爆発させて、その後一斉攻撃がかけられる予定でした。が、メールス守備隊はほとんど抵抗らしい抵抗もみせず突撃の前に降伏を申し出たため、ラインベルク以上に短い5日間でのスピード開城に至りました。
メールス女伯アンナ=ワルブルガ
リンブルフ伯アドルフ・ニーウェナールの叔母で且つ妻。はじめホールネ伯フィリップ、その死後アドルフ・ニーウェナールと結婚し、1589年以降は寡婦となっていました。アドルフ等の親族たちの死後、メールス伯領を含むたくさんの領地を相続していました。
領地をスペイン軍に支配され亡命を強いられていたワルブルガは、1594年、親戚筋でもあるナッサウ伯マウリッツをメールスの相続人に指名します。ただし欲しければ自分で手に入れろ、ということでもあります。ワルブルガは1597年の時点で既に75歳と高齢で、メールスの奪還はナッサウ家の所領が近年中に増えることを意味していました。それを知っていたヘルマンが警戒を強めていたのも、マウリッツがラインベルクからまっすぐ北上せずにほんのちょっと南下したのも、そんな理由があったためです。
余波
ラインベルクは翌1598年、スペインのアラゴン提督メンドーサによって奪われてしまいました。これ以前からも、そして以降もラインベルクは何度もスペインとオランダの間で所有権が変わり、最終的には1633年のフレデリク=ヘンドリクの攻囲戦で共和国軍が手にすることになります。ラインベルクが「戦争の娼婦」と呼ばれる所以です。
アルペン領はアルペン女伯のもと再度カルヴァン派への改革が進められ、1602年に異母妹の家系に継承されます。
メールス女伯は1598年に故郷の街に帰って余生を過ごし、1600年に領地は指名どおりマウリッツに継承されました。ユーリヒ=クレーフェ伯からの継承権主張があったものの、この遠征での奪還の功もあって、女伯の死後約100年後のプロイセンによる継承まで、メールス伯領はナッサウ家の所有となります。マウリッツは継承後すぐに、シモン・ステフィンに命じて街を近代要塞化しました。攻囲戦時の版画と、下記の図面を見ればその差は歴然です。
メールスの開城後、オランダ軍は1595年に攻囲に失敗したフロールへ向かいます。
リファレンス
- Motley, “United Natherlands”
- Prinsterer, “Archives”