ホーホストラーテンの反乱(1602-1604) Muiterij van Hoogstraten

Maurits ontzet de muitende Spaanse soldaten in het kasteel van Hoogstraten, 1603 Warachtige afbeeldinge van het sterck ende geweldig Casteel van Hoogstraeten ende hoe de nieuwe Bondgenooten daerinne belegert sijn worden, RP-P-OB-80.643

Unknown (1603-1605) ホーホストラーテン救援(1603) In Wikimedia Commons

ホーホストラーテンの反乱 Hoogstraeten 1602/9/1-1604/5/18
対戦国 flag_nl.gif オランダ
flag_en.gif イングランド
flag_es.gif スペイン
勝 敗
参加者 ナッサウ伯マウリッツ
ナッサウ伯エルンスト=カシミール
ヴィアー卿フランシス
反乱騎兵 1500名
反乱歩兵 3000名
ダヴレ侯シャルル=アレクサンドル・ド・クロイ


オーストリア大公アルプレヒト七世
ファン・デン=ベルフ伯フレデリク

八十年戦争最長の攻囲戦、オーステンデ攻囲戦。それと並行して、ホーホストラーテンで八十年戦争最長の反乱が発生していた。給与未払いに対して実力行使に出る、しかし理不尽にも、その行為は最高刑が死刑の重犯罪とみなされる。同時に、オーステンデを見捨てたヴィアー卿にマウリッツ公の本隊を加えたオランダ軍が、フラーフェ攻囲戦に取り掛かっていた。さらにスペイン本国からはこれらの解決が厳命される。オーストリア大公は二方面作戦どころか、完全な四面楚歌に陥ってしまっていた。

あらゆる王侯たちが、殿下の悪しき政治を反面教師とするでしょう。古の偉大な司令官たち、キュロス、アレクサンダー、スキピオ、カエサルは、兵士を富ませこそすれ、飢えさせることなどなかったのです。

反乱兵の代表/”United Netherlands”

はじめに

Studio of Peter Paul Rubens - Porträt des Erzherzogs Albrecht zu Pferde vor der Küste von Ostende

ルーベンス (1640) オーステンデ攻囲戦とアルプレヒト大公 In Wikimedia Commons

八十年戦争期のオランダ軍とフランドル方面軍」の「給料未払と反乱」項目に詳述しましたが、「Mutiny=反乱」は、主に給料の未払によって引き起こされる、雇用者側との労使交渉やストライキに近いものです。もちろん現代とは全く違い、そのペナルティは凄まじく、起こす方は命がけです。「下」から行われるのが常で、上級将校は交渉材料として捕虜にされてしまうか、場合によっては殺されてしまうこともあります。このホーホストラーテンの反乱でも、まだ20歳そこそこのダヴレ侯シャルル=アレクサンドル・ド・クロイが捕虜にされていました。1600年の聖アンドリース砦の反乱のように、立てこもる強固な場所があった場合、反乱は長引き交渉に至ることなります。

ホーホストラーテンの街に立てこもった反乱兵たちは、全てベテランで構成されていて、ほとんどがスペイン人とイタリア人、騎兵1500名と歩兵3000名でした。彼らはその「反乱」の名からは想像がつかないほどに礼儀正しく振舞っていました。「まるで盗賊ギルドのように」という表現がぴったりですが、その自治は徹底しており、住民に無体を働いた兵士は軍内で漏れなく処罰されました。オランダ(オレンジ)でもスペイン(赤)でもない、として兵たちは緑色を自分たちのアイデンティティとして用い、自分たちで組織した臨時政府ともいえる参事会が交渉を担当しました。イタリア人も多く含む反乱兵は、イタリアの「共和国」の概念にオランダ共和国のやり方を加えて独自の「共和国」を模索したようです。つまり知識層も相当数含まれていたと考えられます。ホーホストラーテンの街自体ももともと強固な砦を備えていましたが、当番制で夜営をし、さらに要塞の防備も固めました。周囲の封鎖は行われなかったため、近隣の農村から物資も問題なく調達でき、長期戦も可能な状況でした。

経緯

Tocht van Maurits door Brabant naar Grave, 1602, Lambert Cornelisz., 1603

Lambert Cornelisz. (1603) ブラバントからフラーフェへの進軍(1602) In Wikimedia Commons

ニーウポールトの戦いのすぐ後のこの時期、南ネーデルランド執政府はその見返りにオーステンデ攻囲を試みます。結果的に3年以上もかかる、八十年戦争最長の攻囲戦となってしまうわけですが、もちろん当初はそんなにかかるとは誰も思っていなかったでしょう。オーステンデが長引いた理由は、攻囲戦そのものに加え、この時期目白押しの他の戦いも理由となっています。

  1. 1601年7月 オーステンデ攻囲戦開始
  2. 1601年7月 ラインベルク攻囲戦 →オランダのラインベルク確保により、陸の「スペイン街道」の利便性が激減
  3. 1601年11月 オランダ軍のブラバント侵攻 →オランダ側はスヘルトヘンボス攻囲戦を失敗、しかしスペイン側はメンドーサ提督などの人手をとられる
  4. 1602年3月 ヴィアー将軍とエルンスト=カシミール将軍がオーステンデを離れる →英独両連隊がフリーに
  5. 1602年7月 フラーフェ攻囲戦開始 →メンドーサ提督の派遣、防衛失敗によるスペイン召喚
  6. 1602年9月 ホーホストラーテンの反乱開始
  7. 1602年10月 ドーバー海峡の海戦 →海の「スペイン街道」スペイン軍の給与を運んできた艦隊の敗戦
  8. 1603年5月 スライスの海戦 →海の「スペイン街道」スペイン軍の給与を運んできた艦隊の敗戦
  9. 1603年8月 オランダ軍のスヘルトヘンボス攻囲戦(-11月)、再度失敗

もともと慢性的に給与は遅れていましたが、ライン川の「スペイン街道」を抑えられ、さらに給与は遅滞しました。ホーホストラーテン以外でも、メンドーサ提督の軍内にも反乱は頻繁に発生しています。さらに海路で運んできた資金もすべて海戦によってカットされてしまい、反乱軍との交渉に使うつもりの給与はいつまで経っても届きませんでした。

ホーホストラーテンの反乱は、まさにこの版画にある時期、オランダ軍内でも最強のイングランド連隊とドイツ連隊がオーステンデから解放されたことで、万全の態勢でフラーフェ攻囲を始めた時期にあたります。

この版画の左上、イングランド連隊の前の先頭を行く「ラレン」連隊の名がみえます。ジョルジュ(またはアレクサンダー?)・ド・ラレン、なぜこの位置かと考えたら、ホーホストラーテン伯の継承権を持っているか、または「Drost」とあるのでこの地域の役人のポストを提供されていると思われます。この時期ちょうどこの周辺地域が戦場になっていたため、「ホーム」であることを買われたのかもしれません。ジョルジュにしてもアレクサンダーにしてもなかなか家系図にも載ってこない人物なので、なぜオランダ側にいるのか?等(親族は大概スペイン側)詳細はわかりませんが、残念ながらこの後すぐ1604年のスライス攻囲戦で戦死しているようです。レンネンベルフ伯ジョルジュ・ド・ラレンとは別人です。

戦闘

Mislukte poging door Albrecht om Grave te ontzetten, 1602, RP-P-OB-80.623

Pieter Bast (1602) フラーフェ攻囲戦(1602) In Wikimedia Commons

反乱兵たちの要求はシンプルなたった一点、「給与」です。そのため初期は非常に強気でした。アルプレヒト大公は当初、使者として聖職者を1名で派遣して説得を試みましたが、あまりに彼が冷たくあしらわれたのに激怒し、ホーホストラーテンにいるすべての兵と「参事会」の法的権利を奪う(=ban)とした檄文を作成してばらまきました。さらに、仲間を売った者には報奨金を出した上、反乱の罪も殺人の罪も免除する、としましたが、もちろんそれに呼応する者は1人も現れません。それを聞いたフラーフェ攻囲中のマウリッツは聖アンドリース砦の二匹目のドジョウを狙って反乱兵に書簡を送りましたが、それも大公の使者と同じ目に遭い、書簡が兵たちの前で見せしめに燃やされました。マウリッツの書簡を持ち込んだトランペット吹きがそれに不快感を表明したところ、さすがにまずいと思ったのか、オランダ側とは交渉の窓口が開かれることになりました。

反乱兵はホーホストラーテンに立てこもったまま冬を越し1603年になりました。アルプレヒト大公は前年の対応を少し反省し始めていました。空中分解もせず長期間まとまっている5000人(少し増えました)もの古参兵は、全員吊るしてしまうには惜しい、というよりも、オーステンデに苦戦しているいま逆に喉から手が出るほど欲しい戦力でした。かといって、反乱兵が要求している金額を工面することはできません。

1603年7月末、アルプレヒト大公はオーステンデにいるファン・デン=ベルフ伯フレデリクに10000の兵を与え、ホーホストラーテンを攻めるよう命じました。街は半数の2500人でそれに対抗しようとします。スヘルトヘンボス攻めのためヘールトライデンベルフにいたマウリッツは、反乱兵たちを救援しようと12000を超す全軍をホーホストラーテンに向けました。ファン・デン=ベルフ伯フレデリクは、反乱兵のためにわざわざ従弟でもあるマウリッツと野戦をする気はなく、夜のうちに兵を引きました。

8月3日、マウリッツはホーホストラーテンの街に入りました。マウリッツは彼らがアルプレヒト大公と和解するまで保護する代わりに、オランダ軍とは今後戦わないと約束させました。また、昨年奪還したばかりのフラーフェの街を駐屯地として提供したばかりか、そこまでの移動に必要であれば騎兵での護衛まで申し出ました。実際にこの冬、彼らはフラーフェで快適に過ごしています。

アルプレヒト大公はこれに非常に焦り、スペイン本国や議会の反対にもかかわらず、彼らの要求に完全に従うことにします。1604年5月に延滞した給与が準備でき、大公は彼らに書面で恩赦を認めることになりました。

1603年10月、オランダ軍の軍法会議の長官でオランイェ公ウィレム1世の時代からの古参の軍人オリバー・ファン・デン=テンペルは、ホーホストラーテンの反乱兵の捕虜になっていたスペイン軍のマラスピナ侯を捕らえました。スヘルトヘンボス攻囲中のマウリッツのキャンプで食事をした後2人で戻る途中に、スヘルトヘンボスからの大砲の流れ弾に当たり亡くなっています。このとき反乱兵たちはクエイク(フラーフェの近く)やフレイメン(スヘルトヘンボスの近く)に展開していたというので、彼らも常に街に籠っていた…というわけでもなさそうです。

余波

Coin1603Ostend

オーステンデ攻囲戦の寓意コイン『おんどりときつね』 (1603) In Wikimedia Commons

反乱を起こすのは兵士たちなので、その代表者の名前が残されることはあまりないようです。このホーホストラーテンの反乱の場合も、3年と長期にわたったにもかかわらず、兵の代表者が選挙で選ばれたこと(参事会の署名も「選出者 Eletto」だった)、兵士たちはそれぞれオランダ軍に加わるかスペイン軍に出戻るかを選べたため、余計に個人の特定が困難になっています。なお、ほとんどがオランダに加わったと書かれたものもありましたが、この時点のオランダ軍に聖アンドリース砦の「新乞食」のようなまとまった単位での外国人で構成される軍の加入がないことから、ほとんどがスペイン軍に戻ったのではないかと推測されます。

これは反乱が「成功」した非常に稀なケースです。繰り返しますが、通常反乱に恩赦はありません。全員を罰することが物理的に難しい場合、何人かの代表者またはクジを引いた不運な者が残虐な刑罰に処せられます。しかもオランダ軍への転向、スペイン軍への帰参、どちらを選んでも良いという好条件はほかに類を見ないと思われます。ベテランで構成されたこの反乱兵たちはその辺もよくわきまえていて、相当な準備で臨んだに違いありません。それでも確たるリーダーもなく5000人が3年がかりでまとまっていたというのは、脅威以外の何物でもありません。

なおこのコインはちょうどこの時期、オーステンデ攻囲戦の寓意としてオランダで鋳造されたイソップ童話をもとにしたコインです(絵は『おんどりときつね』ですが、内容は『からすときつね』だそうな)。オーステンデへの恩赦を申し出たアルプレヒト大公対する皮肉で、「甘い言葉に気をつけろ」とのことですが、結局マウリッツの反乱兵への甘い言葉は通じなかったという意味では強烈なカウンターに見えてしまいます。

だいぶ前の2013年に、この反乱を元ネタにしたイソップ童話(?)を書いております。たまたまです。今回ちゃんと見たらオチは少し違ってましたが…。
 
えほん「きたかぜとたいよう」(1602) ~アルプレヒトでんかとマウリッツかっか
 
ちなみに、「へいし1人のくびにつき10クラウン、しょうこうのくびで50クラウン、もっとえらいしょうぐんのくびなら200クラウン」はホントです。

リファレンス

  • Motley, “United Netherlands”
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