対戦国 |
オランダ |
スペイン |
---|---|---|
勝 敗 | ○ | × |
参加者 | ナッサウ伯マウリッツ ナッサウ伯ウィレム=ローデウェイク ナッサウ伯フィリップス ゾルムス伯ゲオルク=エバーハルト ホーエンローエ伯フィリップス |
スペイン守備兵 (フランシスコ・ベルデューゴ) (クリストバル・ド・モンドラゴン) |
1591年の遠征は、内容もさることながら、その移動距離に驚かされる。オランダ共和国の北端から南端へ。遠征の成功は、その若さ、無謀さによる機動力の賜物だったのかもしれない。
マウリッツ伯のズトフェンとデフェンテル奪取はなんと痛快なことだろう。パルマ公が10年かけて築いた名声を、彼はそれぞれわずか8日で手に入れてみせたのだ。
ブイヨン公アンリ・ド・ラ・トゥール=ドーヴェルニュ/ Prinsterer, “Archives”
経緯
ズトフェンとデフェンテルの攻略によってエイセル川を押さえたナッサウ伯マウリッツは、いったんイングランド軍と分かれ、従兄のナッサウ伯ウィレム=ローデウェイクとともにフロニンゲン方面に向かいます。
この地図を見てもわかるように、デルフゼイルは北海に面したエムス川河口の街で、フロニンゲン奪還作戦のための海からの補給基地となりえる要所です。逆にフルストはアントウェルペン付近にあり、南の防御基地です。この2つの攻囲戦にとくに関連性はありませんが、ここでは1591年遠征の一貫として一緒に扱いました。また、この2つの攻囲戦の間に、「クノッセンブルフ救援」がありますが、こちらは逆に「ネイメーヘン攻囲戦」との関連性が高いので別記事で扱います。
いずれの攻囲戦も攻囲戦というほどのものではなく、守備隊の逃亡によりほぼタナボタのように奪取できてしまったものです。
戦闘
デルフゼイル奪還
7月2日、マウリッツとウィレム=ローデウェイクがデルフゼイルの前に着くと、大軍を見た守備兵は逃げ出してしまい、これといった戦闘行為もなく入城できてしまいました。
このような感じで、7月7日、7月11日に相次いでいくつかの砦を落としながら、7月15日にはステーンウェイクの城門前に到達しました。ここでマウリッツはネイメーヘンからの報に接し、ステーンウェイクを後回しにして、急ぎネイメーヘンへ救援に向かいます。
デルフゼイルを放棄し、フロニンゲンの街に逃げ込んだ将校や兵士たちは、州総督ベルデューゴの怒りを買い、将校は全員斬首、兵士のうち12名もクジ引きで斬首刑にされたそうです。
クノッセンブルフ救援
「クノッセンブルフ救援/ネイメーヘン攻囲戦」参照。
フルスト攻囲戦(1591)
こちらも5日間の短期の攻囲で開城しています。街の守備隊の司令官カスティージョが、全く抵抗せずに街を明け渡したためです。
このとき、近郊の街アントウェルペンでは、パルマ公アレサンドロ・ファルネーゼの長男ラヌッチョが低地地方に到着したとして歓迎の祭りが行われていました。その眼前でこのような屈辱的な占領が行われ、知事の老将モンドラゴン(87歳)は激怒し、カスティージョを職務怠慢として斬首しました。モンドラゴン将軍にとっては、「学識を鼻にかけたヒヨッ子」に率いられた「厚かましい乞食ども」にしてやられたことが相当に悔しかったようです。
余波
これらの街の開城後のエピソードが紹介されています。「オランダ軍は降伏した街には決して掠奪を行わない」という規律を徹底させるため、デルフゼイルでは帽子と短剣を盗んだ兵士2名が、フルストでは女性に強盗を働いた兵士1名が、それぞれ全軍の前で見せしめの絞首刑と銃殺刑になりました。これは兵士たちにはもちろん、街に対するデモンストレーションでもありました。
オランダ軍はこの後、さらに取って返して、再度ネイメーヘン攻囲を試みます。 デルフゼイルはヨハン・ファン・デン=コルンプットによって、フルストもこの後近代要塞化されます。が、フルストはこの5年後、オーストリア大公アルプレヒトによって再奪還されてしまうことになります。
リファレンス
- Motley, “United Natherlands”
- Markham, “Veres”
- Kikkert, “Maurits”
- Prinsterer, “Archives”