フルスト攻囲戦(1596) Beleg van Hulst

Beleg van Hulst (1596) door Albertus van Oostenrijk - Siege of Hulst (1596) by Albert of Austria (Frans Hogenberg)

Frans Hogenberg (1596-1598) フルスト攻囲戦(1596) In Wikimedia Commons

フルスト攻囲戦(1596) Hulst 1596/6/?-8/18
対戦国 flag_nl.gif オランダ flag_es.gif スペイン
勝 敗 ×
参加者 ゾルムス伯ゲオルク=エバーハルト
ナッサウ伯エルンスト=カシミール
マティス・ヘルト
レイエル・ファン・オルデンバルネフェルト
オーストリア大公アルプレヒト

単なる優柔不断なのか、高度な計算に基づく行動なのか――。定まらないかに見えるアルプレヒト大公の針路に共和国軍は振り回される。そして最も信頼に足る最古参の将軍の、突然の翻意による不可解な開城。フルスト陥落の顛末は今でも謎に包まれたままだ。

我が軍の兵士たちの精神は神の、肉体は国王のものだ。

オーストリア大公アルプレヒト/ Motley, “United Natherlands”

経緯

Hulst - City walls 1

1591年以降整備されたフルストの稜堡 In Wikimedia Commons

北フランス(カレー、アルドル)での勝利に勢いに乗った南ネーデルランドの新執政アルプレヒト大公は、オランダにもその照準を向けようとしていました。しかし南部との間の防衛線は長く、そのいずれの街を攻めて来るものか、また攻めるべきか、両者がそれぞれ絞りきれずにいました。西から、オーステンデ、ベルヘン=オプ=ゾーム、ブレダ、ヘールトライデンベルフなどをオランダ側は警戒しましたが、6月末、不意にアルプレヒト大公が現れたのは、アクセルとアントウェルペンのちょうど中間地点にあたるフルストでした。

フルストは1591年にナッサウ伯マウリッツによってスピード奪還されて以降、前衛基地のひとつとして防備が強化されてきました。やや北東にあるザントベルフとの間に洪水線(東部=フルスト連絡線)が整備され、1591年時点では未だ完全な円形だった城壁も徐々に星型要塞に切り替えが進められます。それでも、冒頭の版画のように、街の周囲に数ヶ所の堡塁が築かれたものの、星型(最終的に九芒星のかたちになり現在もそのままの状態で残っています)にはまだ程遠い状態です。

この地域の重要性を熟知していたマウリッツは、自ら視察を申し出ます。しかしホラント州議会は、「閣下の熱意や卓越した手腕は承知していますが」と前置きしたうえで、危険な場所で身を危険にさらすような行動を自粛するよう要請する決議をしました。このときフルストの街では、ちょうどゾルムス伯ゲオルク=エバーハルトがゼーラント州から徴募した駐屯兵を率いて守備についていました。ゲオルク=エバーハルトはウィレム一世時代からのベテランの将軍のひとりで、1586年にイングランド将校フィリップ・シドニーが戦死して以降ゼーラント州の指令職にも就いており、このままフルスト防衛の全権を委任されることになりました。

戦闘

VaandeldragerTrommelaar

フルストの街にある彫刻『ドラマーと旗手』 In Wikimedia Commons

ゲオルク=エバーハルトには、できるだけスペイン軍による攻囲を長引かせ、持久戦を採るよう指示が出されたようです。実際、フルストの近代要塞化は未だ途上だったとはいえ、むやみやたらな一斉攻撃なら跳ね返すに足る強度を誇り、アルプレヒト大公の軍は無茶な突撃を繰り返しては、1ヶ月足らずの間に5000人にも及ぶ犠牲者を出していました。(これは攻囲側の損害としては異例の多さといえます)。このペースならば籠城側も、相手の自滅を待つことも充分に可能だったはずです。

加えて、マウリッツが従兄のフリースラント州総督ウィレム=ローデウェイクとともに、フルスト救援軍を指揮することになっていました。当初マウリッツ自身の進軍に反対していたホラント州でしたが、ここに来てフルスト解放のため新たに兵を募っていました。

8月16日、アルプレヒト大公は正式に街へ降伏勧告をしました。ゲオルク=エバーハルトは即座にそれを拒否、守備隊は最後の一人になるまで街を死守すると回答します。しかし突如、その日のうちに、フルストの側からスペイン軍に向けて交渉の使者が差し向けられました。複数の将校たちがゲオルク=エバーハルトに対して開城要請を受け入れるよう迫り、ゲオルク=エバーハルトもそれに同意したとされ、強硬に反対を唱えたのは、マティス・ヘルト(「ブレダの泥炭船」のとき副官をしていた将校)だけだったとのことです。そのまま話は早々に進み、わずか2日後の8月18日にフルストは開城しました。

このフルスト籠城には、兄や従兄に先んじて8月上旬からナッサウ伯エルンスト=カシミールが援軍として加わっています。彼の臨場感あふれるレポートからも、わずか数日でどれだけ敵の攻撃が激しくなり状況が悪化していったかということがわかりますが、残念ながら、開城時まで彼が留まったかどうかも含め、この急展開の謎解きとなるような記述はまったく見当たりません。

余波

HulstMonument1

フルストの街にある彫刻『ラヴェラン』 In Wikimedia Commons

この不可解な顛末に、防衛の責任者ゲオルク=エバーハルトへの批判が共和国中で噴出しました。ゼーラント州議会は不快感を公然と表明したうえで、即刻彼を罷免しました。連邦議会の議員たちも、ゲオルク=エバーハルトとすれ違っても挨拶を交わすことすら拒み、古くからの支持者たちでさえ彼の弁明を聞こうとはしませんでした。彼を庇ったのはマウリッツただ一人で、「確かにその過失の大きさには疑いがないが、彼の共和国に対する過去の多大な貢献を鑑みて、ゼーラントで奪われたポストと同程度の指令職を連邦議会が用意して然るべきである」と議会へ申し入れています。

また、時を同じくしてフルストの弁護士団が、フルスト守備隊の将校のひとりレイエル・ファン・オルデンバルネフェルト(ホラント州法律顧問ヨハン・ファン・オルデンバルネフェルトの長兄)に対し、「売国と職務怠慢」の名目で訴訟を起こしました。マウリッツも彼を軍法会議にまでかけようとしましたが、結局はどちらもうやむやのまま棚上げとなってしまったようです。いずれも詳しいことはわかりませんが、マウリッツの行動ひとつとっても――ゲオルク=エバーハルトへの寛大すぎる態度とレイエルへの正反対の措置と――何かしら不自然ないきさつがあったことは間違いありません。

ところで、マウリッツの異母兄オランイェ公フィリップス=ウィレムが南ネーデルランドのブリュッセルに入城したのは、このフルスト陥落直後の9月上旬のことです。その後フィリップス=ウィレムは国境を越えて北部へもやってきて、父ウィレムの暗殺されたデルフトにも立ち寄ったようです。

さらに翌10月には、イングランド・フランス・オランダ間で対スペイン三国同盟が結ばれました。オランダ共和国が英仏と同等に近い立場に立ったとして、こちらではホラント州法律顧問ヨハン・ファン・オルデンバルネフェルトの手腕が評価されています。

一方のアルプレヒト大公ですが、着任第一年めの快進撃とは裏腹に、翌年からその意向は和平に傾いていきます。スペイン本国の国家破産による資金難、フランドル軍内の反乱や暴動が大きな要因ですが、とくに兵士の反乱については彼自身に起因するところも大きいです。スペイン国王とローマ教会に忠実なアルプレヒト大公は、冒頭に挙げた台詞のように兵の命を使い捨てにする傾向にあり(といっても当時の貴族や司令官の倫理観からすると何ら特別なことでもないのですが)、毎回数千人もの犠牲者を出す数頼み一辺倒の向こう見ずさに対して批判は少なくありませんでした。確かに彼はアンリ四世やマウリッツの感じたとおり机上の戦略家としては優秀でしたが、現場に出た途端その戦術は不思議なほどにお粗末です。これらの事情も含め、翌1597年、フランドル軍は対オランダ戦線で防戦一方に回ることになります。

リファレンス

  • Velpius R., Siege of Calais, 1596
  • Motley, “United Natherlands”
  • Kikkert, “Maurits”