ズトフェン攻囲戦(1591) Beleg van Zutphen

Inname van de schans bij Zutphen, 1591 Serie 10 Nederlandse en Buitenlandse Gebeurtenissen, 1587-1612 (serietitel), RP-P-1878-A-1040

Frans Hogenberg (1591-93) 「ズトフェン攻囲戦 (1591)」 In Wikimedia Commons

ズトフェン攻囲戦 Zutphen 1591/5/19-30
対戦国

flag_nl.gif オランダ
flag_en.gif イングランド
flag_nl.gif フリース

flag_es.gif スペイン

勝 敗 ×
参加者 ナッサウ伯マウリッツ
ナッサウ伯ウィレム=ローデウェイク
ナッサウ伯フィリップス
フランシス・ヴィアー
ゾルムス伯ゲオルク=エバーハルト
スペイン軍守備隊

前年のブレダ奪取は、運や個人的なセンチメンタリズムの要素もあっただろう。1591年は、マウリッツが初めてシステマチックな反攻を始めた年ともいえる。まずは川に沿って要所を押さえる――中でも最重要河川と位置づけられたエイセル川の、2つのハンザ都市が最初のターゲットに設定された。

我が軍からとくに屈強な兵士を選び、半数に農婦・半数に農夫の格好をさせて、市場に行くときのような籠や行李を持たせる。もちろん中には武器を入れ、服の下も充分に武装させた上でな。

ヴィアー卿フランシス/ Firth, “Tracts”

経緯

Het beleg van Zutphen (1591) door Prins Maurits - The siege of Zutphen in 1591 by Prince Maurice (Bartholomeus Willemsz. Dolendo)

Bartholomeus Willemsz. Dolendo (1600-01) 「ズトフェン攻囲戦 (1591)」 In Wikimedia Commons

1590年の「ブレダの泥炭船」は確かにナッサウ伯マウリッツの最初の戦功ではありますが、他人から持ち込まれた案であることや、思った以上に事がうまく運んだという偶発性にも助けられている部分があります。マウリッツと従兄のウィレム=ローデウェイクは、軍制改革の傍ら、その軍隊を用いた今後の遠征方針も計画していました。

1588年既に、マウリッツとウィレム=ローデウェイクは下記のように考えていました。

川沿いのあらゆる要所、たとえば、エイセル川沿いのデフェンテルやズトフェン、ワール川沿いのネイメーヘン、マース川沿いのフラーフェ、フェンロー、マーストリヒト、そしてフロニンゲン。まずは1つ、そして次…というように川沿いの街を順に征服していけば、その「庭」の中にあるすべての小さな街は、補給路と糧食を絶たれて自滅するだろう。

Graaf, R. de, Oorlog, mijn arme schapen, 2004

ここで真っ先に挙げられているのが「エイセル川沿いのデフェンテルやズトフェン」です。将来、計画はほぼこのとおり(マース川は後回しになりますが)に進められ、1591年には早くも冒頭の3つの街の攻囲が実行に移されることになります。

ズトフェンは、かつてファン・デン=ベルフ伯ウィレム四世(ウィレム沈黙公の義弟)が反乱軍として占領した街ですが、その後何度か所有権が変わり、1587年、レスター伯麾下の英軍将校ローランド・ヨークの内応でスペイン軍に売り渡されていました。

戦闘

The taking of Zutphen

James Grant (1873) 「ズトフェン攻囲戦 (歴史画)」 In Wikimedia Commons

この年の遠征に関しては、マウリッツはとにかく速攻を旨としていました。パルマ公の軍と直接対峙した場合、絶対に勝てないことがわかっていたので、相手に援軍を用意させる暇を与えないためです。マウリッツは100隻の川船を用意し、10000人の軍と大砲を運びました。さらに、当時すぐ川上のドゥースブルクに駐屯していた英軍のヴィアー将軍に書簡を送り、援軍を要請しました。

ヴィアー将軍は、かつて1586年にレスター伯のもとでズトフェン攻囲戦を戦った経験があり、その時にレスター伯が建設したフェルーウェ砦を奪うことにしました。この砦は街に近接していたため、前年のブレダのように奇襲が計画されました。5月23日、ヴィアーは兵たちの中から勇敢な者何人かを選んで農民夫婦に化けさせ、砦に農産物を売りに来たふうを装わせました。彼らが砦内に招き入れられると、その後ろから200名の騎兵をなだれ込ませて砦を占拠します。

同時にマウリッツの本陣では、着々と攻囲陣地がつくられていました。5月27日にフリースラントからウィレム=ローデウェイクの軍が到着し、翌日から3箇所に据え置かれた合計32門の攻城砲での砲撃がはじまります。未だ全く近代要塞工事が行われていなかったズトフェンでは、中世からの城壁は砲撃されるがままに破壊され、わずか2日で降伏を申し入れることになりました。

ヴィアーのイングランド兵女装大作戦については、バスケットの上のほうはタマゴ・バター・チーズなどで擬装して、タマゴを値切ろうと近づいてきたスペイン兵に、いきなりペチコートから取り出したピストルをぶっ放した、なんてエピソードもあります。敢えて選り抜きの猛者たちを女装させたセンスは、はっきり言ってあまり良いとはいえませんが。冒頭の版画の下のほうに女性が何人か描いてありますが、手に短剣を持ってるので、これが女装兵士たちかと思います。

余波

Capture of Zutphen by Maurice of Orange in 1591 - Verovering van Zutphen door Prins Maurits in 1591 (Johannes Janssonius, 1663)

Johannes Janssonius (1663) 「ズトフェン攻囲戦 (1591)」 In Wikimedia Commons

スペイン駐屯兵たちは、自分たちの荷物を携行したまま街を去ることが許可されました。住民たちは、このままスペイン国王への忠誠を守って街を出て行くか、共和国に忠誠を誓って市民権を持ったまま街に留まるか、3日間考える猶予を与えられました。これは、今までに散々オランダ・スペイン双方に蹂躙されてきた住民たちにとっては破格の降伏条件で、カトリックの聖職者やよっぽどの変わり者以外、ほとんど街を離れるものはなかったといいます。また、今後オランダ共和国に組み入れられる街がどのように扱われるか、という見本にもなりました。

マウリッツは開城の日の夜、早速軍を川沿いに移動させます。次の目的地は、わずか10km強しか離れていないデフェンテルです。デフェンテルはズトフェンよりも大きな街で防備も強固だったため、当初はさらに北東のクーフォルデンの攻囲が予定されていましたが、大砲の運搬に時間がかかること、ズトフェンのスピード開城に自信を得たことから、そのまま決行に至ったようです。

ちなみに、おそらくあまりに出発が早く開城交渉が終わっていなかったため、ズトフェン市参事会のメンバーたちもこの行軍に同行し、マウリッツのキャンプでの滞在と次の攻囲戦の見学を許可されました。

ズトフェンの訪問記はこちら。

リファレンス

  • Motley, “United Natherlands”
  • Markham, “Veres”
  • Firth, “Tracts”
  • Kikkert, “Maurits”
  • Prinsterer, “Archives”