オーステンデ攻囲戦(1601-1604) Beleg van Oostende 中期

Fort Napoleon021

Unknown (17th century) 「オーステンデ攻囲戦 (1601-1604)」 In Wikimedia Commons 1602年時のスペイン軍キャンプ

オーステンデ攻囲戦 Oostende 1601/7/5-1604/9/16
対戦国

flag_nl.gif オランダ
flag_en.gif イングランド
flag_nl.gif フリース
flag_es.gif フランス

flag_es.gif スペイン

勝 敗 △ ~1603/9 △ ~1603/9
参加者 フレデリク・ファン・ドルプ
カーレル・ファン・デル=ノート
オーストリア大公アルプレヒト
ブッコワ伯シャルル=ボナバンチュール
フェデリコ・スピノラ

ファン・デン=ベルフ伯フレデリク

ヴィアー卿にも見捨てられたオーステンデは、双方に決定打がなく膠着状態を維持したまま、日々泥沼化していった。そんな折、イングランドではエリザベス一世が崩御し、新国王ジェームズ一世は即位後まもなくスペインとの和平のテーブルに着く。これにオランダやフランスも巻き込んで、オーステンデの「外」でも静かな外交パワーゲームが開始された。

騎兵将校テッドキャッスル殿のペイジは、僕を呼ぶとその小さな手から金の指輪を外し、「どうかこれを姉上へ…そして僕の最後の”おやすみ”を伝えて」と懇願して息絶えた。

ヘンリー・ヘクサム/ Firth, “Tracts”

はじめに

オーステンデ攻囲戦は「スペイン軍の攻撃不能な攻撃、オランダ軍の防御不能な防御」が3年以上もの間続けられたうえ、オランダ軍側は総司令官を含む軍部のトップ3が一度も参加することのなかった、八十年戦争全期間を通じても、もっとも長期間かつ特異な攻囲戦です。そのため、この記事もその内容に応じて3つの期間に分けています。

  1. 前期 開戦からヴィアーの撤退まで 1601/1-1602/3
  2. 中期 ヴィアー撤退からスピノラ登場まで 1602/3-1603/9
  3. 後期 スピノラ登場から開城まで 1603/9-1604/9

この「中期」では、ヴィアー将軍撤退からスピノラ将軍の登場前までをひとつの区切りとしました。

経緯

Siege of Ostend05

Unknown (17th century) 「オーステンデ攻囲戦 (1601-1604)」 In Wikimedia Commons

この時期は、オーステンデ内以上にオーステンデ外での動きが活発になった時期です。オーステンデ攻囲戦が始まる半年前にフランスと和平を結んだばかりのサヴォイアが、オーステンデのスペイン軍に援軍を差し向けてくるようになりました。それに対し、オランダ側はフランス国王アンリ四世に対して、変わらず支援を続けてくれるよう依頼しています。(フランスは1598年のヴェルヴァン条約で表向きはスペインと休戦していますが、以降もオランダ軍に援軍を出し続けています)。

何よりもイングランド女王エリザベス一世からジェームズ一世への代替わりが最も大きな出来事です。ジェームズ一世の即位式には、オランダからもオルデンバルネフェルトをはじめとする連邦議会議員たちや、ナッサウ伯マウリッツの名代として弟のフレデリク=ヘンドリクが参列しています。オランダとしては、やはり変わらずイングランドの援軍を必要としていたため、1585年のノンサッチ条約の確認をしたかったわけですが、即位後すぐにスペインへ和平交渉を持ちかけたのはジェームズ一世の側からでした。

1602年はじめにはナッサウ伯エルンスト=カシミールがオーステンデを引き上げ、同年3月に、当初のオーステンデ防衛司令官フランシス・ヴィアーもがオーステンデを去るに至って、オーステンデにはそれ以降、オランダ側の主だった将軍は派遣されなくなります。彼ら主力はナッサウ伯マウリッツの別の攻囲戦に従うことになります。

戦闘

Siege of Ostend01

Unknown (17th century) 「オーステンデ攻囲戦 (1601-1604)」 In Wikimedia Commons 画面右奥に攻城機械が描き入れられています。

1年半ものスパンがありながら、とりたてて何らかのイベントはこの時期には伝えられていません。砲撃と防御、そして時折各所で小競り合いが繰り返されるだけの、まさに膠着状態だったわけです。というのも、オーステンデの地形が幸い(災い?)し、いずれの陣営も食料や資材の補給はそう難しくなく、戦費と人員が耐えずつぎ込まれていたためです。

とはいうものの、同様に損失も甚だしいものでした。オーステンデ攻囲戦の全期間を通して、両軍合わせた戦死者は8万人・10万人などと見積もられていますが、怪我をして戦闘不能となり街の外に運び出された兵士のうち、助かった者の割合が少ないことを考えると、人的損害はその数倍の数十万人規模にのぼるとも言われています。さらに、オーステンデの内外ではペストなどの伝染病も何度か発生しました。

この時期の特筆すべき戦闘は、陸ではなく海でのものです。アンブロジオ・スピノラ将軍に先駆けて、その弟のフェデリコ・スピノラ提督が、オランダ側の海からの補給路を遮断すべく、二度にわたりガレー船団を率いて参戦します。しかしフェデリコは、スライスの海戦でオランダのヨースト・デ=モール提督に敗れ戦死しています。

参照: フェデリコ・スピノラ提督の海戦

その直後、陸では、ブッコワ伯によるオランダの陸の補給路のひとつの遮断が成功しています。また逆に、オランダ側からの攻撃も行われています。明け方の奇襲を仕掛けようとしたものの、あまりに早く着きすぎたためまだ暗い中で同士討ちをしてしまったとか、 花火師を呼び寄せてスペインの砦のひとつを火の海にし大砲を全部ダメにしてやったとか、詳細はよくわかりませんが、いろいろな試みはされているようです。

余波

Beleg van Ostende - Belegeringswerktuigen (Michiel Colijn, 1616)

Michiel Colijn (1616) オーステンデの攻城機器 In Wikimedia Commons

物資が豊富でオーステンデへの出入りも比較的容易だったため、オーステンデには兵士以外にも、外国の貴族の若者や学者・医者・技術者など様々な人々が訪れました。オーステンデは「ヨーロッパ戦争大学」と呼ばれ、若い貴族が攻囲技術や用兵を実地で学び、外科医は3ヶ月も居れば数年分の経験が得られると言われました。技術者が新たな機器の実験を、こぞって行う場ともなりました。上に挙げた怪しげな機器たち(「戦闘」の項の絵にも実際に使われている様子が描かれています)は、この時期に発明されたり改良されたりしたものです。

オーステンデの状況が進まない間、オランダ軍は、1602年にはフラーフェを攻囲しこれを奪取、翌1603年にはスヘルトヘンボスを攻囲しますがこちらは失敗しています。 前後の展開については下記にて。

リファレンス

  • Belleroche E., The Siege of Ostend, or, the New Troy, 2011
  • Motley, “United Natherlands”
  • Markham, “Veres”
  • Firth, “Tracts”
  • Kikkert, “Maurits”
  • Prinsterer, “Archives”