ヘールトライデンベルフ攻囲戦(1593) Beleg van Geertruidenberg

Siege of St. Geertruidenberg by Maurice of Orange in 1595 - Obsidio St. Geertrvydenberg'

Giovanni Battista Boazio (1649) “Atlas van Loon” In Wikimedia Commons 「ヘールトライデンベルフ攻囲戦 (1593)」

ヘールトライデンベルフ攻囲戦 Geertruidenberg 1593/3/27-6/24
対戦国

flag_nl.gif オランダ
flag_nl.gif フリース
flag_en.gif イングランド
flag_fr.gif フランス(ブイヨン公国)

flag_es.gif スペイン

勝 敗 ×
参加者 ナッサウ伯マウリッツ
ホーエンローエ=ノイエンシュタイン伯フィリップス
ゾルムス=リッヒ伯ゲオルク=エバーハルト
ナッサウ伯フィリップス
ヴィアー卿フランシス
ヴィアー卿ホレス
ブイヨン公アンリ・ド・ラ=トゥール=ドーヴェルニュ
マンスフェルト伯ペーター=エルンスト
マンスフェルト伯カール
フエンテス伯ペドロ=エンリケス・デ・アセベド

ナッサウ伯マウリッツがわずか数年で到達した近代攻囲戦の理想的なモデル、それがこのヘールトライデンベルフ攻囲戦である。その完成度については、従兄のナッサウ伯ウィレム=ローデウェイクの手放しの賛辞が十二分に物語っている。「粗野な暴力の支配する戦争に秩序と労働を取り入れることの優れた証明、今や忘れ去られ、無視され、嘲笑すらされていた古代の戦争芸術と科学の大いなる復興、そして少なくとも当世の攻囲戦としては最上の実践――閣下の勝利を賞賛するのは、私の義務だろう。」 *1

興味深いと噂のオランダ軍のキャンプを見学に行った友人の一人が、これほどの士気と規律を同時に兼ね備えた軍は見たことも聞いたこともない、と報告してきております。

ジャック・ボンガル/ Motley, “United Natherlands”

経緯

ヘールトライデンベルフも、1589年に給料未払いに反発したイングランド将校によってパルマ公に売り渡されてしまった街のひとつです。それ以上に、ヘールトライデンベルフを含むこの一帯はナッサウ家の領地でもあり、その中心都市のスペイン軍による占領はナッサウ家の収入にも直接ダメージを与えていました。ナッサウ家の当主であるマウリッツはもちろんのこと、とりわけウィレム=ローデウェイクの怒りは大きく、一刻も早く奪還すべきだと主張していました。

1591年と1592年の遠征の相次ぐ成功でフロニンゲン包囲網が完成したとして、連邦議会も、次は南部に目を向けるべきとの考えでした。ヘールトライデンベルフはマース川河口に面しているため外海との行き来も可能であり、また、ドルトレヒトとブレダに至近距離で、深くホラント州とゼーラント州両方に食い込む楔ととして脅威的な立地でもありました。 ナッサウ家と連邦議会との利害が一致したうえ、1592年末にパルマ公ファルネーゼが病死していました。まさにこの上ない好機と判断されたわけです。

ルクセンブルク遠征 Veldtocht naar Luxemburg

攻囲戦の開始とほぼ時を同じくして、連邦議会はナッサウ伯フィリップスに3000の兵を与え、ルクセンブルクへの遠征を命じます。ルクセンブルクの州総督を務めるマンスフェルト伯ペーター一世エルンストの足止めと陽動目的です。ルクセンブルクに領土を接し、領地拡大を目論むブイヨン公アンリ・ド・ラ・トゥール=ドーヴェルニュが協同者として選ばれました。

最初フィリップスは自軍のみでザンクト・フィートの街の攻略を試みますが、うまくいきませんでした。そこでフィリップスは法律顧問のオルデンバルネフェルトに宛てて、このままルクセンブルクに留まってブイヨン公と合流するか、帰国すべきか伺いをたてます。

ブイヨン公には、国王のアンリ四世の助力があればあわよくば、との思惑がありましたが、この時期アンリ四世はパリ入城のための工作の真っ最中(カトリック改宗は同年7月)で、とても援軍を出す余力はありませんでした。オルデンバルネフェルトは、マンスフェルト伯がまんまとフィリップスに誘い出され迂回路をとったことで、時間稼ぎは充分にできたとしてフィリップスに帰国を命じます。ブイヨン公もさすがに単独での遠征は無謀と判断し、兵を退くことにしました。 しかもマンスフェルト伯は、前年に北部の諸都市を落としたオランダ軍が、この年はとうとう本丸のフロニンゲンに迫るつもりでいると考え、いったん北に向かってしまいました。この勘違いのおかげで、マウリッツ率いるヘールトライデンベルフ攻囲軍はさらに時間的猶予を得たことになります。

Inname van Hoei

Hogenberg, Frans (1595-1615) 「ユイ占領 (1595)」 In Wikimedia Commons

ブイヨン公はうまいことダシにされてしまった格好ですが、この1年半後、再度ルクセンブルク遠征が計画され、その時にまたフィリップス軍を招聘しています。この1595年の遠征ではシャルル・ド・エローギール(「ブレダの泥炭船」のときの実務部隊長)が、蘭仏間の補給路として最短ルートにある要衝ユイの街を一時占拠していますが、あまりに占領後の兵の暴虐が激しいとしてリエージュ司教から非難を浴びたうえ、すぐにスペイン軍のラ・モット卿により奪還されています。

戦闘

Beleg van Geertruidenberg (Jan Luyken, 1691)

Jan Luyken (1691) 「ヘールトライデンベルフ攻囲戦 (1593)」 In Wikimedia Commons

まずオランダ軍は、河口を囲むように船を半月型に並べ、それらを鎖でつないで海からの補給を遮断しました。ヘールトライデンベルフの北側三分の一はこうして完全に封鎖されます。冒頭の地図でその様子がよくわかります。また、沼地や湿地の多い地形で、今までの東部戦線のような土木工事が可能かどうかも当初は疑問が持たれていました。これも実際に掘ってみると充分に通用することがわかったため、マウリッツは残り三分の二の陸地を堡塁と塹壕で封鎖することにします。街の西側はマウリッツの司令官キャンプ、東側はホーエンローエ伯のキャンプが置かれることになりました。

困った老将軍

1590年代前半のフランドル方面軍では、70-90代の老将軍たちが現役を張っていました。それぞれ出自やキャリアへのプライドが高く、アクも個性も強い将軍たちで、互いの不仲も相当なものです。このヘールトライデンベルフも、誰が救援軍の指揮を執るべきかという不毛な議論が延々と続けられ、執政府の役人たちも手を焼いていました。

また、年齢を感じさせない熱血ぶりも特筆すべきで、野戦での激突で白黒つけたいという志向があります。反してマウリッツは、数少ない兵士を無駄に消耗しないために野戦を徹底的に避け、土木工事と火力だけで開城に導くのを由とする司令官です。マンスフェルト伯の挑発に対するオランダ軍トランペット兵の受け答えのエピソードが残されています。

マンスフェルト伯ペーター=エルンスト 「なぜ貴殿の司令官、壮健な若武者であるマウリッツ公は、塹壕に籠ったまま、我々のような誉れ高き戦士と戦場で相対しようとはせんのだね。」

オランダ軍ラッパ兵 「我が主人は、将来閣下のような壮健な老将軍になりたいとお望みです。そのためには、敢えて今日、閣下の挑戦をお受けする必要はないと思し召しなのです。」

Motley, “United Natherlands”

困ったフィリップスその1・ホーエンローエ伯

ホーエンローエ=ノイエンシュタイン伯フィリップスは、オランイェ公ウィレム一世の軍で20年近くのキャリアがある古参の将軍です。もともとウィレムの暗殺後に総指令の地位を受け継ぐのは自分だと考えていたため、マウリッツが共和国の最高指令権を持つことを快く思っていませんでした。さらにマウリッツの軍制改革によって、将校に規律と知的能力が要されるようになったことも不満の種でした。

スペイン軍のマンスフェルト伯ペーター一世エルンストは、大きく迂回しながらもヘールトライデンベルフに到着しました。さらに、フランスで戦っている息子のカールまで呼び寄せます。しかし、このタイムロスのため、マウリッツの堡塁は完璧なまで――塹壕の内側には風車や干拓地までが建設されていました――に街を囲んでしまっており、何度か襲撃を試みるものの近づくこともできません。マンスフェルト伯父子は南西側、南東側、そして東側と、包囲網の弱点を求めて移動しました。彼らが東のワスピク付近に展開したとき、マウリッツは中間地点であるラームスドンクに砦を築くようホーエンローエ伯に命令を出しました。

自分の思っていた場所よりはるか敵地近くへの建設命令に、ホーエンローエ伯は激怒します。なかなか建設に取りかからないホーエンローエのところに痺れを切らしたマウリッツがやってくると、ホーエンローエは将校全員を集め、こんな命知らずの馬鹿げた命令をきくつもりはない、これは将校全員の総意なので、今から自分たちは軍を引き払うと息巻きます。そして後ろを向くと、「従う者はついて来い」と部下たちに命じました。それに対しマウリッツは、

「ではいちばん最初に動いた者を吊るすとしよう」

とだけ告げました。

結局この言葉にその場を去る者はなく、砦の建設は強行され、マンスフェルト軍を撃退することに成功しました。ちなみにイングランド軍のヴィアー将軍は、文句ひとつ言わず、さらに敵軍キャンプの目と鼻の先に別な砦を建設しています。ホーエンローエ伯とヴィアーはなぜか似たような場所に配置されることも多かったのですが、お互い反りは合わなかったようです。近代戦を積極的に取り入れる司令官とそうでない司令官との差は、どんどん広がることになります。

困ったフィリップスその2・ナッサウ伯

ルクセンブルクから帰国したナッサウ伯フィリップスは、さっそく従弟のマウリッツのキャンプに入りました。マウリッツは(自身が誰よりも酒好きにもかかわらず)規律遵守のため将校たちによる酒宴を禁止していましたが、従兄であるフィリップスが毎晩のようにそれを破るためほとほと頭を悩ませていました。

ある日、ブレーデローデ卿のテントで酒盛りになったとき、何のノリかフィリップスは単身敵地に偵察に行くと言い出しました。そして鎧も着けずに(ちょっと脱ぎ上戸の気があったようです)泥酔状態で馬にまたがると、本当にひとりで敵陣に向かいました。しかも偵察だけではつまらないと思ったのか、いきなり敵の砲撃陣地に突っ込んでいこうとしました。

当然この派手な行動は敵にもすぐに発見され、フィリップスは銃撃にさらされます。フィリップスとマウリッツの従者たちが慌てて彼を止めにいき、そのうちひとりは大怪我をしてしまいました。 が、いかにオランダ軍が規律を重視したとはいっても、この時点では改革も未だ途上であり、まだ若いマウリッツ自身も含めてこのような無謀はあちこちでおこなわれていたようです。実際、このヘールトライデンベルフ開城の直接のきっかけになったのも、3人の中隊長が仕掛けた奇襲でした。

困ったオルデンバルネフェルトと連邦議会議員

オランダ軍司令官キャンプには、必ず連邦議会の代表者が詰めていました。司令官のマウリッツには決定権はなく、すべて議会の決議に従うこととされていたからです。ヘールトライデンベルフ攻囲戦は、1590年からはじまるマウリッツの攻囲戦の中で、初めて3ヶ月という長丁場になったものでした。過去にはレイデン攻囲戦やアントウェルペン攻囲戦など1年に渡る攻囲戦もありましたが、攻囲される側ではなくする側としてはほとんど初めてに等しい経験であり、共和国になってから、軍制改革後としてはもちろん初です。

兵士たちに特別日当を払って塹壕を数ヶ月間掘らせ続けると、こんなに費用がかかるものだというのも、ここで初めて認識されたといっても良いでしょう。議員たちは資金を惜しんではマウリッツを急かしたりその指揮に干渉し、法律顧問のオルデンバルネフェルト自身までがたびたびキャンプに乗り込んできました。 それでも街が開城すると、それ以降、連邦議会は支払った金額以上の賠償金を得ることになります。もちろん今後の定期的な税収も見込めます。それ以上にゼーラント州以北の沿岸はすべて共和国の支配下となり、安全な航行が可能になったこともオランダ経済にとっては喜ばしいことでした。

キャンプ生活

Aertsen, Pieter - Market Scene

Pieter Aertsen (circa 1550) 市場の風景 In Wikimedia Commons

八十年戦争期のオランダ軍のキャンプ生活」にも書きましたが、マウリッツのキャンプは、

  • 周囲が堅牢な塹壕で囲まれている
  • 一万人を下らない兵士(=給与所得者兼消費者)がいる
  • 正規の手数料さえ払えば、各将校への個別の賄賂は不要
  • 兵士による盗難や暴力には厳しい罰則がある

との理由から、商売の場所として最適な場所でもありました。周囲の農民たちや酒保商人たちがこぞってキャンプに押しかけて商売をはじめ、安く良いものが何でも手に入る市場としても有名になりました。

このような安全な環境は、他にも多くの「観光客」の興味を惹きました。この「新しい」攻囲戦争に興味を持った外国の軍人貴族たちのほか、議員に代表される非軍人、さらに女子供までが含まれています。マウリッツの弟フレデリク=ヘンドリクが9歳にして初めて訪れた戦場がここヘールトライデンベルフです。マウリッツの義母のルイーズ・ド・コリニーも、着飾った侍女たちを大勢連れて見物に来ました。さらに、マウリッツの次妹で17才のルイーズ=ユリアナは、プファルツ選帝侯との結婚のためハイデルベルクに向かう途中、末妹のエミーリア=アントウェルピアーナを含む多くの随員を伴って、兄のもとに陣中見舞いと出発の挨拶のために立ち寄っています。

それでも実際の戦場ですから、目を転じればあちこちで死傷者が出ていますし、酔って暴れる将兵も居ます。マウリッツ自身のテントも比較的物騒な部類で、日常的にオルデンバルネフェルトと口論したり、ホーエンローエ伯と互いに剣を抜いて罵り合ったりしていました。

余波

開城後スペイン軍の守備兵はアントウェルペンへ名誉ある撤退をおこないました。ただし、1589年に街をスペインに売ったイングランド将校たちの生き残りは、マウリッツとヴィアー卿の報復の対象となり、見つかりしだい絞首刑にされました。

連邦議会が収入源を得たのと同様、領地を取り戻したナッサウ家も収入が回復しました。マウリッツが治安維持のためと称して1589年以前よりも税金を上げたので、家政をあずかる母親のルイーズ・ド・コリニーもやっと経済的なゆとりを得るようになります。とくに利益を得たのはフレデリク=ヘンドリクで、このとき共和国軍の中隊長となり(子供なので指揮は部下が代行します)、さらにヘールトライデンベルフの知事の職にも就いて(もちろんこちらも他の人物が代行します)、その少なからぬ月収は翌年以降レイデン大学の学費に充てられることになります。なお、当初この知事職はホーエンローエ伯に約束されていましたが、連邦議会がナッサウ家に便宜を図ることにしたということは、彼らの想像以上に軍制改革の成果とその経済効果が高かったということに他ならないでしょう。

Wedde Franz Hogenberg 1598 1608

Frans Hogenberg (1598-1608) 「ウェッデ占領 (1593)」 In Wikimedia Commons ウィレム=ローデウェイクによるフロニンゲン州ウェッデの街の占領 (1593年8月30日)

そして連邦議会は、かねてより軍資金不足を訴えていたフリースラント州総督のウィレム=ローデウェイクにも、多額の資金を提供することができました。ウィレム=ローデウェイクはへールトライデンベルフ開城後、マウリッツにフリース兵をすぐに返してよこすよう依頼し、この年のうちに東フリースラントの防衛を固めました。 そして翌年、オランダ軍はいよいよ本格的にフロニンゲンの攻略に取り掛かることになります。

リファレンス

  • Motley, “United Natherlands”
  • Kikkert, “Maurits”
  • Prinsterer, “Archives”
  • *1 Prinsterer “Archives”, Motleyにも英訳あり