クーフォルデン攻囲戦(1592) Beleg van Coevorden

Coevordia Obsessa et Capta - Siege of Coevorden in 1592

Unknown (1649) “Atlas van Loon” 「クーフォルデン攻囲戦 (1592)」 In Wikimedia Commons

クーフォルデン攻囲戦 Coevorden 1592/8/16-9/2
対戦国

flag_nl.gif オランダ
flag_nl.gif フリース
flag_en.gif イングランド

flag_es.gif スペイン
勝 敗 ×
参加者 ナッサウ伯マウリッツ
ナッサウ伯ウィレム=ローデウェイク
ナッサウ伯ヤン七世
ナッサウ伯フィリップス
ホーエンローエ=ノイエンシュタイン伯フィリップス
シュトルベルク伯ゲオルク=ルートヴィヒ?
ブレーデローデ卿フロリス
ダイフェンフォールデ提督ヤーコプ二世ワセナール?
ヴィアー卿フランシス
ヴィアー卿ホレス
フレデリク・ファン・デン=ベルフ
フランシスコ・ベルデューゴ
マンスフェルト伯カール

「クーフォルデンが陥ちるなどということがあれば、この世のどこにも陥ちない街などない」。州総督ベルデューゴが絶対の自信をもつ美しい星型の要塞クーフォルデン。そこに待ち受けるのは、ステーンウェイクで弟を亡くし復讐に燃えるファン・デン=ベルフ伯フレデリクである。この要害の地で夜襲を受け、危機に立たされたオランダ軍に、退却したはずのイングランド軍が救援に現れた。

使者をよこすには2ヶ月早い、まずはこの国王陛下の城壁を地面と同じ高さまで破壊することだ、とマウリッツ公に告げよ。その後何度でも突撃を仕掛けると良い。半年もしたら、こちらから返答の使者を送ることも考えようではないか。

ファン・デン=ベルフ伯フレデリク/ Motley, “United Natherlands”

経緯

Het beleg van Coevorden (1592) door Prins Maurits en Willem Lodewijk - The siege of Coevorden in 1592 by Maurice and William-Louis of Naussau

Bartholomeus Willemsz. Dolendo (1600-1601) In Wikimedia Commons 「クーフォルデン攻囲戦 (1592)」

同年7月5日に開城したステーンウェイク攻囲戦の開城条件について、ナッサウ伯マウリッツやナッサウ伯ウィレム=ローデウェイクの司令部と、議会の決定の間には若干の齟齬がありました。加えて議会は、スペイン軍のパルマ公が再度フランスからオランダに転じるという情報をもとに、軍に対して東部遠征を取りやめるよう要請しました。しかしマウリッツは議会の承認を得ないまま、独断でクーフォルデンに軍を進めます。

ステーンウェイク攻囲戦から1ヶ月半経っている間に、オランダ側の参加者にだいぶ変化があります。ナッサウ伯ヤン七世はこの1ヶ月半の間にハーグに戻っており、どうやら兵力の補充をまかされたようです。ステーンウェイクで戦死したファン・ドルプ将軍の代わりとしてか、遠征に反対する考えを変えたからか、ホーエンローエ伯が参加します。また、フランスに援軍として派遣されていたヤン七世の四弟ナッサウ伯フィリップスもちょうどハーグに帰国していました。ヤン七世は弟フィリップスを帯同し、再度東部戦線へ向かいます。逆に、ステーンウェイクに参加していたヤン七世の若年の弟たち、五弟エルンスト=カシミールと六弟ローデウェイク=ヒュンテルはクーフォルデンには名前が見当たらないので、このとき兄のヤン七世とハーグに戻り、フィリップスと入れ替わりになったのかもしれません。

そしてイングランド軍には、フランスのブルターニュへ向かいアンリ四世を支援するよう、エリザベス女王からの命令が届けられます。マウリッツは、女王の命に従うよう英軍司令官のフランシス・ヴィアーに命じ、英軍はいったんクーフォルデンを離れドゥースブルクに入りました。同じく英軍のロバート・シドニーは怪我のため完全に戦線を離脱し、知事を務めるフリシンゲンで治療にあたることになります。

戦闘

Coevorden taken by Maurice of Nassau in 1592 - Coevorden ingenomen door Maurits in 1592 (Johannes Janssonius)

Johannes Janssonius (1663) 「クーフォルデン攻囲戦 (1592)」 In Wikimedia Commons

クーフォルデンはアントウェルペン、ミラノに並び、ヨーロッパの三大要害と謳われる強固な要塞建築都市でした。ステーンウェイク以上に砲撃は困難が予想されました。クーフォルデンに近い位置に司令官キャンプが、さらに西に少し行ったステーンウェイクスムールに3人のベテラン、ホーエンローエ伯、ブレーデローデ卿、シュトルベルク伯のキャンプが置かれました。

マウリッツ自身が数千名の兵を連れて、オートマルスムを初めとする近郊の街を回っている間、ウィレム=ローデウェイクは環状の堡塁と砦を整備していました。全ての補給路を遮断したうえ、街を囲む水濠に流れ込む水流もせき止めたため、街は補給物資だけではなく飲料水にも不足することになりました。クーフォルデンを守るファン・デン=ベルフ伯フレデリクはフロニンゲン州総督ベルデューゴに援軍を要求していましたが、この時点でベルデューゴはファン・デン=ベルフ伯がまだ差し迫った状況ではないと考え、遠くフランスに展開しているマンスフェルト伯父子やパルマ公に一応の要請を送っている程度でした。このとき、80歳を越えた高齢のマンスフェルト伯(父)ペーター=エルンストはフランス戦線に疲れ、スパで療養中でした。

マウリッツは8月12日までに攻囲キャンプに戻ってくると、早速ファン・デン=ベルフ伯フレデリクに和平の使者を3回に渡って送ります。すると14日、フレデリクは単身城壁の上に登り、オランダ軍に向かって冒頭に挙げたようなカッコいい台詞を叫んで徹底抗戦の構えを取りました。 8月末にオランダ軍による一斉攻撃がある、という情報を受けたベルデューゴは、フランスからのマンスフェルト伯(子)カールの部隊を待つ時間はないと判断し、自ら援軍に赴くことにしました。

ベルデューゴの「白シャツ」夜襲

Beleg van Coevorden door Maurits, 1592 Serie 10 Nederlandse en Buitenlandse Gebeurtenissen, 1587-1612 (serietitel), RP-P-OB-78.784-285

Frans Hogenberg (1592-1594) 「クーフォルデン攻囲戦 (1592)」 In Wikimedia Commons 左下のやや大きい2人の騎兵は、逃亡するベルレーモン伯とベルデューゴ将軍です。

まずベルデューゴは、マウリッツを塹壕の外に誘い出して、野戦で決着をつけようと試みました。が、マウリッツは決して野戦を行おうとしない司令官なので、どんなに挑発を重ねようと決して誘いに乗ることはありません。次にベルデューゴはオランダ軍が作った堡塁を攻略しようとしますが、これも撥ね返されるのみで成果は上がりません。

そこでベルデューゴは夜襲を仕掛けることにしました。ホーエンローエ伯のキャンプ(冒頭の地図のいちばん左)がターゲットとして選ばれました。8月28日の夜、夜襲の際によく行われる方法ですが、兵士たちは白いシャツを上着や鎧の上から被り、闇夜でも敵味方がわかるような身支度をします。そして夜明け前にキャンプを強襲しました。

この襲撃を知ると隣のキャンプからは、ウィレム=ローデウェイクの隊も増援に向かいます。そしてフランスに転戦するはずのイングランド軍が、戦闘開始1時間半後、突如救援に現れました(あまりにも出来すぎた話ですが、ヤン七世やヴィアー将軍が詳細な時間まで書き残している事実です)。オランダ軍の苦戦を知ってたまたまやってきたところ、ちょうど突撃のシーンに出くわしたということのようです。

この襲撃についてはナッサウ伯ヤン七世が父のヤン六世に詳しく語っています。その中で、英軍のフランシス・ヴィアーと弟のフィリップスが最も勇猛果敢に戦った、と賞賛しています。

この襲撃でオランダ側の死者はわずか3名、負傷者は6名。しかしその負傷者の中に、右腿に銃弾を受けたウィレム=ローデウェイクが含まれていました。傷は致命的なものではなく、数日後には馬に乗れるくらいにまで回復しましたが、当たり所が悪かったのかウィレム=ローデウェイクはその後生涯に渡って杖無しでは歩けない体になってしまいました。

マウリッツも自ら激戦地に突っ込んで行き、さらに退却する敵を追撃までしたので、後から議員たちに大目玉を食らいました。これがベルデューゴ将軍の最初で最後の襲撃で、その5日後、ファン・デン=ベルフ伯は和平に応じることになります。

キャンプでの日課

もともと深酒をしないウィレム=ローデウェイク、そして二日酔いをしたことのないマウリッツは、キャンプ内でも規則正しい生活をしていました。朝は早起きしてミサの出席を欠かすことはなく、その後必ず自ら視察に回りました。(司令官自身があちこち勝手に出歩くのは危ないので、これも議員たちからいつも怒られました)。また、戦場には馬車ひとつ分の図書を持ち込んでおり、2人とも夜にはテント内でラテン語を読んでいました。

ホーエンローエ伯などの反乱軍時代からのベテランの将軍たちはその姿を見てバカにしていましたが、逆にそれを伝え聞いたスペイン軍のベルデューゴ将軍やモンドラゴン将軍は、さもありなんとさらに尊敬の念を高めたといいます。

余波

スペイン軍の条件のほとんどは認められ、望んだ大部分のものは携帯を許可されました。しかしそこから大砲と穀物の持ち出しは除かれていました。ファン・デン=ベルフ伯の副官は、将兵は食料と飲料水の不足する中3週間籠城していたとして、小麦の持ち出しを直訴します。マウリッツは「国王の要塞の損害よりも兵糧の調達のほうを案じていることにはいたく感心した」と言って、穀類だけではなく大砲も持ち出すことを快諾しました。ファン・デン=ベルフ伯フレデリクはオランダ軍キャンプで従兄弟たちに丁重にもてなされた後、次の駐屯地まで馬車を提供されています。

Beleg van Coevorden (1593-1594)

Unknown (1613-1615) 「クーフォルデン攻囲戦 (1593-1594)」 In Wikimedia Commons ベルデューゴ将軍による奪還作戦

翌年、ベルデューゴ将軍によるクーフォルデン奪回作戦が大規模に行われます。ウィレム=ローデウェイクが街に大量の物資を備蓄していたためこれは失敗に終わりました。このような反撃に都度対応するより、いったんこのエリアから完全にスペイン軍を駆逐すべきだ、という議論も持ち上がりますが、当初からの計画のとおり、フロニンゲン州奪還を第一とする方針が優先されました。

同時に街の防衛も強化され、もともと難攻不落で有名だった五芒星型のこの街は、さらに七芒星型に進化することになります。

Coevorden

Unknown (1647) 要塞都市クーフォルデン In Wikimedia Commons

リファレンス

    • Motley, “United Natherlands”
    • Markham, “Veres”
  • Firth, “Tracts”
  • Kikkert, “Maurits”
  • Prinsterer, “Archives”