ミュルハイムの戦い(1609) Slag bij Mülheim

Schlacht von Mülheim 1609

Simon Frisius (17th century) 「ミュルハイムの戦い (1609)」 In Wikimedia Commons

ミュルハイムの戦い(1609) Mülheim 1609/2
対戦国 flag_nl.gif オランダ flag_es.gif スペイン
勝 敗 ×
参加者 ダニエル・デ・ハルタイング スペイン軍守備兵

「十二年休戦条約」の交渉もほぼ決着してあとは署名と発効を待つだけとなった時期、最後の足掻きのように、かつて失敗した街での小競り合いが行われていた。しかし、無法者と何ら変わりない小集団による蛮行だったとしても、軍旗を掲げての行為である以上、やはりトップがその責を負わざるを得ない。

我が軍がミュルハイムの多くの家屋を焼失させたとのこと、非常に遺憾に思う。連邦議会から見舞金を送るよう、必ず口添えの労をとろう。

ナッサウ伯マウリッツ/ Schlacht bei Mülheim (1609), Wikipedia (de)

経緯

ミュルハイムの川向かいにあるブロイヒ城の領主、ダウン=ファルケンシュタイン伯ヴィリヒ四世は1598年、スペインのメンドーサ提督率いるスペイン軍に城を攻囲されたうえ、謀殺されていました。のち長男のヨハン=アドルフが領地を回復するものの、1605年、すぐに今度はスピノラ将軍率いるスペイン軍に支配され、スペイン軍に保護を与えねばならない状況に陥りました。さらに1607年、ヨハン=アドルフは、その保護を与えたスペイン兵の強盗により弟ヴィリヒをも亡くしています。

オランダ軍は1605年に一度、ミュルハイムおよびブロイヒ城の奪還を試みましたが失敗していました。1607年以降は、スペインとの「十二年休戦条約」の交渉のため、オランダ軍として議会の主導する派兵計画は行われておらず、各連隊や中隊といった小規模の単位で、個別にライン地方を遠征して回っている状態だったようです。1607年の「エルケレンツ襲撃」なども同じようなもので、ほとんどが実践と欲求不満の解消を兼ねた、旧来の傭兵のような群盗に近いものだったと思われます。

戦闘

David Vinckboons - An Officer Preparing His Troops for an Ambush - WGA25110

David Vinckboons (1612) 兵に襲撃の準備をさせる将校 In Wikimedia Commons

そのため戦闘も小競り合いに近いものでした。ダニエル・デ・ハルタイングの率いるマルケット連隊(といえるほどの数もいなかったかもしれません)は、ミュルハイムの村を通る際に守備のスペイン兵と散発的な戦闘を繰り返して、街の中央の教会広場に捕らえたスペイン兵を300名ほど集めました。それを免れたスペイン兵が教会に立て籠もって抵抗を続けたため、最後には火を掛けて燻し出します。これによって、1605年以来ここに駐屯していたスペイン軍を追い払いました。

余波

Prospect des Schloss Bruch

Johann Jacob Becker (circa 1775) ブロイヒ城とミュルハイム In Wikimedia Commons

ダウン=ファルケンシュタイン伯にとっては、父と弟の仇でもあるスペイン軍を、どのようなかたちにせよ領地から追放できたのはそれなりの成果だったかもしれません。それにしても、1605年の戦いのとき同様、街はダメージを受けました。それを伝え聞いたナッサウ伯マウリッツは、3月8日付で、冒頭に挙げたような詫び状を直接ヨハン=アドルフに宛てて送ってきています。

この年の4月9日に、「十二年休戦条約」が署名され発効の運びとなります。条約の合意自体は既に1月に成されていました。2月(の具体的な日付まではわかりません)の時点でマルケット連隊がそれを知っていたかどうかは別としても、結果的にこの襲撃がオランダ軍の休戦前最後の戦いとなりました。

リファレンス

  • Motley, “United Natherlands”