スヘルトヘンボス攻囲戦(1601/1603) Beleg van ‘s-Hertogenbosch‎

's-Hertogenbosch tevergeefs belegerd door Maurits, 1601, RP-P-OB-80.597

Pieter van der Keere (1603-1605) スヘルトヘンボス攻囲戦 In Wikimedia Commons まったく同じ地図なのに1601年と1603年とされているものがある

スヘルトヘンボス攻囲戦 ‘s-Hertogenbosch (1) 1601/11/7-27 : (2) 1603/8/19-11/5
対戦国 flag_nl.gif オランダ
flag_en.gif イングランド
flag_es.gif フランス
flag_pf.gif スコットランド
flag_es.gif スペイン
勝 敗 ×
参加者 ナッサウ伯マウリッツ
ナッサウ伯フレデリク=ヘンドリク(1603)
ナッサウ伯ウィレム=ローデウェイク
ナッサウ伯エルンスト=カシミール(1603)
ナッサウ伯ローデウェイク=ヒュンテル
ナッサウ伯ハンス=エルンスト(1603)
マルケット卿ダニエル・デ・ハルタイング
マルセリス・バックス
オーストリア大公アルプレヒト七世
ファン・デン=ベルフ伯フレデリク
フロッベンドンク男爵アントニー・シェッツ

八十年戦争の舞台となった街で、最も防御が堅牢な街はどこか?と問われれば、クーフォールデン、フロニンゲン、アントウェルペン…複数の街が挙げられるだろう。では、最も手堅く街を守った人物は誰か?となれば、それはたった一人しかいない。25歳の頃から40年間、スヘルトヘンボスの知事の職にあり、マウリッツ公の5回の攻囲をすべて防ぎ切ったアントニー・シェッツ。スヘルトヘンボスはその地理条件のみならず、卓越した守備隊長の手腕によって難攻不落の名をほしいままにしていた。

昨年の攻囲の際、もう少し冬将軍の到来が遅ければ、スヘルトヘンボスは我々の手をすり抜けることはなかった。しかしいつかは我々が取り戻すだろう。この街の明日の支配者を神はご存じだ――それは常にフロッベンドンクとは限らず、ある時は別の者かもしれない。

エルンスト=カシミール・ファン・ナッサウ/”Archieves”

経緯

's-Hertogenbosch tevergeefs belegerd door Maurits, 1603 Genuina et syncera delineatio obsessae urbis Busciducen prout ea Ao. 1603 (titel op object) Oprechte en grondelijcke Afconterfeytinghe der belegerde Stadt van t'S, RP-P-OB-80.655

Bartholomeus Smalleveld (1603) スヘルトヘンボス攻囲戦(1603) In Wikimedia Commons

ニーウポールトの戦いのすぐ後のこの時期、南ネーデルランド執政府はその見返りにオーステンデ攻囲を試みます。結果的に3年以上もかかる、八十年戦争最長の攻囲戦となってしまうわけですが、このオーステンデ攻囲開始から開城までの時期は、たくさんの軍事行動が複雑に入り組んでおり、それぞれがリンクしています。(以下、「ホーホストラーテンの反乱」と一部共通リスト)。

  1. 1601年7月 オーステンデ攻囲戦開始
  2. 1601年7月 ラインベルク攻囲戦 →オランダのラインベルク確保により、陸の「スペイン街道」の利便性が激減
  3. 1601年11月 オランダ軍のブラバント侵攻 →オランダ側はスヘルトヘンボス攻囲戦(1601)を失敗、しかしスペイン側はメンドーサ提督などの人手をとられる
  4. 1602年3月 ヴィアー将軍とエルンスト=カシミール将軍がオーステンデを離れる →英独両連隊がフリーに
  5. 1602年7月 フラーフェ攻囲戦開始 →メンドーサ提督の派遣、防衛失敗によるスペイン召喚
  6. 1602年9月 ホーホストラーテンの反乱開始
  7. 1603年3月 イングランド女王エリザベス一世死去
  8. 1603年7月 イングランド国王ジェームズ一世戴冠
  9. 1603年8月 オランダ軍のスヘルトヘンボス攻囲戦(1603)、再度失敗(11月)
  10. 1603年10月 セスト侯アンブロジオ・スピノラがオーステンデ入り

スヘルトヘンボス攻囲戦もその一環で行われたもので、1601年と1603年の2回試みられました。大きな目的は同一なこと、そして結果としていずれも失敗したことから、ここでは同じ記事内で扱います。スヘルトヘンボスはザルトボメルから20kmほど、ワール川をはさんだ位置にあり、周りを湿地に囲まれた守りやすく攻めにくい地形です。フロッベンドンク男爵アントニー・シェッツはスヘルトヘンボス知事で、1629年にも再戦することになります。冒頭のエルンスト=カシミールの台詞がなんだか暗示的です。

1603年の攻囲戦の直前にイングランドで国王に代替わりがあり、ホレス・ヴィアーは兄フランシスの代理として帰国しています。また、マウリッツの弟のフレデリク=ヘンドリクとその従兄ハンス=エルンストはジェームズ一世への挨拶のため、やはりマウリッツの代理として渡英していますが、攻囲戦には間に合っています。ハンス=エルンストの弟アドルフも従軍年齢となり勉強先のフランスからちょうどオランダ入りしたとのことなので、さっそく連れてこられている可能性もあります。

スヘルトヘンボス攻囲戦(1601)

's-Hertogenbosch belegerd door Maurits, 1601, RP-P-OB-80.601

Simon Frisius (1613-1615) スヘルトヘンボス攻囲戦(1601) In Wikimedia Commons

1601年7月、オーストリア大公アルプレヒトによるオーステンデ攻囲戦が始まったと同時に、オランダ軍は全く逆方面のラインベルクを攻囲、戦力は充分ではなかったものの1カ月半の短期で比較的容易に奪還成功しました。戦力が不十分だったのはイングランド軍の使い道を女王によってオーステンデに限られていたためで、ベテランのヴィアー兄弟が率いるイングランド軍は1601年7月から翌1602年3月まではオーステンデ籠城中です。また、マウリッツとウィレム=ローデウェイク以外のナッサウ伯やフランス軍もイングランド軍と一緒に行動しており、エルンスト=カシミールとハンス=エルンストもこの時期オーステンデ側にいます。

ラインベルクを開城させたオランダ軍は、そのままブラバントに侵攻しました。といってもオーステンデに救援に向かうためではなく、オーステンデからスペイン軍を引きはがすためだけの陽動です。マウリッツもウィレム=ローデウェイクも、3年に渡ることになるオーステンデには決して自ら援軍を出しませんでしたが、かといって放置していたわけではなく、スペイン軍を分断したうえで個別撃破し、オーステンデを諦めさせようと考えていました。

スヘルトヘンボスの攻囲を始めたのは、11月になってからのことでした。実際、雨や雪の中、沼地での塹壕掘削が通常どおりに進められました。しかし本来11月ともなると冬営の時期であり、マウリッツたちがどこまで本気でスヘルトヘンボスの奪取を目論んでいたかはわかりません。アルプレヒト大公から差し向けられたファン・デン=ベルフ伯の軍がオーステンデを発ったと同時に、寒さと凍結により掘削作業が不可能となり、危険性を感じたウィレム=ローデウェイクの進言によりマウリッツは撤退を決定しました。

これによって、ヴィアー将軍が指揮するオーステンデは絶望的な状況のまま年を越すことになりました。この1カ月後、ヴィアー将軍による、増援来るまで引き延ばそう作戦「クリスマスの陰謀」があります。(「オーステンデ攻囲戦(1601-1604)前期」参照)。

スヘルトヘンボス攻囲戦(1603)

's-Hertogenbosch tevergeefs belegerd door Maurits, 1603, RP-P-OB-80.646

Baptista van Doetechum (1613-1615) スヘルトヘンボス攻囲戦(1603) In Wikimedia Commons

1603年には他の街の攻囲戦は行われていないことから、1601年の攻囲戦ほどのやっつけ感はなかったと思われます。7月には準備が進められていました。結果としては、1601年同様に冬の到来のため作戦は放棄されます。

イングランド軍はこの攻囲戦に参加はしていますが、誰が率いていたかは確定できていません。フランシス・ヴィアーはオーステンデでのケガのためオランダで療養中(なので弟のホレスが渡英中)ですが、フランシスが戦場に来ているかまでは追えませんでした。

この攻囲戦には、オーステンデのほか同時多発的に続けられていたホーホストラーテンの反乱も関係しています。スペイン軍の給与未払いが半年に及び、一部のベテラン兵たちが1602年からホーホストラーテンの街に立てこもっていました。7月、アルプレヒト大公は再度ファン・デン=ベルフ伯フレデリクをオーステンデから派兵します。ちょうどスヘルトヘンボス近郊のフーフトに陣を準備していたマウリッツはホーホストラーテンの反乱兵との交渉のため、8月3日、自ら街に入りました。この時反乱兵とオランダ軍の間には、相互不可侵条約(に近いもの)が交わされており、お互い攻撃をしないことが約されています。

残念ながら1601年よりも数カ月の長い攻囲だったにもかかわらず、この攻囲戦の情報は手持ちの資料の中にはほとんど見当たりません。ホーホストラーテンの反乱のせいで、スヘルトヘンボスの街の防備が通常よりも強化されていた、との報告があるくらいです。

それ以外のエピソードとしては、スヘルトヘンボス近郊の小さな村スヘルペンフーフェルで、聖母マリアの像が血の涙を流した、というものがあります。このマリア像は前年に樫の木から彫り出され、1603年7月13日にファン・デン=ベルフ伯フレデリクが石造りの礼拝堂を寄進したばかりでした。オランダ軍が敗退したのはマリア像の奇跡のおかげだとしてスヘルペンフーフェルは聖地となり、オーストリア大公夫妻はオランダ軍の撤退からわずか2週間後には自ら巡礼を行い、街は都市、教区の権利を相次いで与えられ発展しました。その後20年近くをかけて大聖堂「スヘルペンフーフェル聖母大聖堂」が建設されています。

余波

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アルプレヒト大公(左)/聖母マリア像(中央)/イザベラ(右) In Wikimedia Commons

1601年のラインベルクとスヘルトヘンボス、1602年のフラーフェ、1603年のスヘルトヘンボス再攻囲、そして1604年のスライス、これらはすべて陽動ともいって良い作戦で、スヘルトヘンボス以外はオランダが手にすることになりました。国境地帯がこれほど脅かされても、アルプレヒト大公はオーステンデ攻囲を続け最終的に開城に導きます。

このサイト内でも何度か指摘していますが、マウリッツもフレデリク=ヘンドリクも決して自ら野戦をしようとしない司令官です。人的リソースの補充の可否一点だけをとっても、スペインには確実に負けることがわかっているからです。しかしニーウポールトの成功体験か、唯一この時期だけは、オランダ側のほうが野戦に対するハードルが低く、むしろスペイン側が直接対決を避ける傾向がありました。それでもオランダ側の態度も「積極的」とまではいえず、1601年のように運河が凍り用を成さなくなった場合には危険の回避を優先しています。

そしてこのオーステンデの外側で行われた駆け引きの日々は、スピノラ侯の登場とオーステンデ開城によって終わりを告げます。オランダが1590年代のような一方的な攻勢に転じるのは、間に12年の休戦を挟み、四半世紀も後のこととなります。

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