ファン・デン=ベルフ伯兄弟 Graven van den Bergh

Bergh

ファン・デン=ベルフ家の紋章 In Wikimedia Commons

ファン・デン=ベルフ兄弟は、スペイン(南ネーデルランド)の将軍たち。男兄弟は全部で8人。母はウィレム沈黙公の一番上の妹マリア・ファン・ナッサウ。そのため、沈黙公の息子マウリッツやフレデリク=ヘンドリク、そしてウィレム=ローデウェイクをはじめとしたヤン六世の息子たちナッサウ伯たちとも従兄弟にあたります。沈黙公と同時期にまずはブレーメンに一家で亡命しますが、1574年頃に兄弟揃ってディレンブルク城に居た記録が残っており、さらに年長の4人はヤン六世の息子4人およびマウリッツとともにハイデルベルクへ勉強に出されているので、少なくとも数年間は従兄弟たちと一緒に育ったようです。とくに年長の3人とヤン六世の息子の年長の3人は同世代で、多感な時期を共に過ごしたことになります。

兄弟の父のウィレム四世ファン・デン=ベルフは、「反乱」当初から沈黙公と共同して戦っていましたが、1576年の『ヘントの和平』を期にスペイン側へ帰順の意を固めました。1583年、ウィレム四世は陰謀のかどで逮捕され、引退を条件に釈放されます。翌年の1584年、沈黙公が暗殺されると、息子たちも全員父に従ってスペインに帰参しました。この時年長の3人は、「沈黙公が死んだら諸州ももう終わりだ」、として従弟のウィレム=ローデウェイクにも自分たちの側につくよう声をかけています。もちろんこれは即却下され、この後ウィレム=ローデウェイクとの関係は完全に決裂したと思われます。

一家総出でスペインに下ったものの、ファン・デン=ベルフ兄弟は当初、マウリッツやウィレム=ローデウェイクと従兄弟であるため、スパイ扱いされるなど、スペイン側に受け入れられるには時間もかかったようです。ヘルマン、フレデリク、ヘンドリクの3人は全員がスペイン=ヘルデルラント(Opper-Gelre)州総督を歴任し、とくに「マウリッツの十年」期には、スペイン側の将軍として何度も登場し、共和国軍と戦うことになります。また、父親も含めた全員がルター派でしたが、改宗(いつかは不明)後は、敬虔なカトリックとしてスペインに仕えています。

リファレンス

  • Motley, “United Netherlands”
  • Wilson, “Thirty Years War”
  • BNW” Herman
  • BNW” Frederik
  • BNW” Osward

ご当地密着?という感じで、ベルフ関連のマニアックな公式サイトが存在してます。

管理人も城まで行きました。

ヘルマン・ファン・デン=ベルフ Herman van den Bergh

  • ファン・デン=ベルフおよびスヘーレンベルフ伯 Graaf van den Bergh-‘s Heerenberg、スペイン=ヘルデルラント州総督 Stadhouder van Opper-Gelre
  • 生年: 1558/8/2 ファン・デン=ベルフ城(蘭)
  • 没年: 1611/8/12 スパ(白)

生涯

長男。スペイン帰参後はまず騎兵として、1585年のアメロンゲン以降、共和国軍を相手に戦いました。1580年代はスペイン側の優勢でしたが、1590年以降はマウリッツ率いる共和国軍に苦戦することになります。1591年にはデフェンテルの攻囲戦で、自らも視力を失うという(その後片目は回復)奮戦をしました。有能な将軍というだけではなく、政治家としても一目置かれていたため、スペイン側からも徐々に信頼を得るようになったようです。長男気質で信義に篤い面も見て取れます。1593年からスペイン=ヘルデルラント州総督。同時に歩兵中隊長および金羊毛騎士となりました(金羊毛騎士は1601年説も有)。1611年、療養先のスパで病死。

フレデリク・ファン・デン=ベルフ Frederik van den Bergh

Daalder met portret Frederik, 1578

フレデリク・ファン・デン=ベルフのコイン (1578)

  • ファン・デン=ベルフおよびスヘーレンベルフ伯 Graaf van den Bergh-‘s Heerenberg、スペイン=ヘルデルラント州総督 Stadhouder van Opper-Gelre、ボクスメール、サンベーク、ハプスおよびメール卿 Heer van Boxmeer, Sambeek, Haps en Meer
  • 生年: 1559/8/18 ファン・デン=ベルフ城(蘭)
  • 没年: 1618/9/3 ボクスメール(蘭)

生涯

次男。スペイン帰参後は1585年のフラーフェ以降、おそらく彼が最も多く共和国軍を相手に戦っており、クーフォルデン、フロール、ザルトボメル、オーステンデなどの戦いにその名が見られます。1595年のリッペ川の戦いでは、従弟のナッサウ伯フィリップスやゾルムス伯エルンストを看取りましたが、積年の恨みか、死にかけた2人を罵り倒し、上官であるモンドラゴン将軍や兄ヘルマンにたしなめられるほどだったといいます。このように、若年期には言動に直情的な部分が随所見られます。

反面、兄同様に政治家としても活躍したようで、休戦期は大使としても働いています。ヘルマンを継ぎ、1611年からスペイン=ヘルデルラント州総督。

1600年頃に同名の叔父からボクスメールを譲られました。ボクスメールは父ウィレム四世の領地のひとつで1572年にアルバ公によって破壊され、廃墟となっていた城ですが、1575年に叔父が勝手に奪還し治めていたようです。

オスワルト・ファン・デン=ベルフ Osward van den Bergh

OswaldvandenBergh

オスワルト・ファン・デン=ベルフの墓標

  • ファン・デン=ベルフおよびスヘーレンベルフ伯 Graaf van den Bergh-‘s Heerenberg
  • 生年: 1561/6/16 ファン・デン=ベルフ城(蘭)
  • 没年: 1586/1/17 ボクスム(蘭)

生涯

三男。1585年のアメロンゲンに長兄ヘルマンと参戦。1586年に、やはりヘルマンとフリースラント戦線に出ましたが、ボクスムの街で、フリースラントの旗の下に立っていたところ、誤って味方であるスペイン兵に殺されてしまいました。この時、自らも負傷した兄へルマンが激怒したと伝えられています。(当然か…)。

ヨースト・ファン・デン=ベルフ Joost van den Bergh

  • ファン・デン=ベルフおよびスヘーレンベルフ伯 Graaf van den Bergh-‘s Heerenberg
  • 生年: 1565/1/25 ファン・デン=ベルフ城(蘭)
  • 没年: 1600/8/8 ファン・デン=ベルフ城(蘭)

生涯

四男。耳が聞こえず知的障害もあったとのこと。おそらく一生城から出ることなく死亡。

アダム・ファン・デン=ベルフ Adam van den Bergh

  • ファン・デン=ベルフおよびスヘーレンベルフ伯 Graaf van den Bergh-‘s Heerenberg
  • 生年: 1568  ケルン(独)
  • 没年: 1590/11/7 フロニンゲン(蘭)

生涯

五男。おそらくナッサウ伯マウリッツと同世代の彼までが、一緒にハイデルベルクで教育を受けたと思われます。他の兄弟同様スペイン軍で軍務(おそらく中隊長格)に就いていましたが、伝染病によって病死。

ローデウェイク・ファン・デン=ベルフ Lodewijk van den Bergh

  • 生年: 1572/11/1 ケルン(独)
  • 没年: 1592/6/10 ステーンウェイク(蘭)

生涯

六男。1592年のステーンウェイクに19歳の若さで司令官として参戦。この時戦死。

ヘンドリク・ファン・デン=ベルフ Hendrik van den Bergh

HendrikvdBergh

Otto van Veen (ca. 1618) In Wikimedia Commons

  • ファン・デン=ベルフおよびスヘーレンベルフ伯 Graaf van den Bergh-‘s Heerenberg、スペイン=ヘルデルラント州総督 Stadhouder van Opper-Gelre、ステーフェンスヴェールト卿 Heer van Stevensweert
  • 生年: 1573 ブレーメン(独)
  • 没年: 1638/5/22 ズトフェン/スヘーレンベルフ(蘭)

生涯

七男。詳細は個別記事へ → ヘンドリク・ファン・デン=ベルフ Hendrik van den Bergh

アドルフ・ファン・デン=ベルフ Adolf van den Bergh

  • ファン・デン=ベルフおよびスヘーレンベルフ伯 Graaf van den Bergh-‘s Heerenberg、ホムートおよびヘーデル卿 Heer van Homoet en Hedel
  • 生年: 1576 カンペン(蘭)
  • 没年: 1619/5/25 スヘルトヘンボス(蘭)

生涯

八男で末弟。詳細はわかりませんが、攻囲戦の最中に敵軍であるオランダ軍をふらっと訪ねては、母親(マウリッツにとっては叔母)に会いに行くのに誘ってみたり、従兄弟のナッサウ伯たちと一緒に夕食を食べていたそうです。オランダとの休戦期にスペインの騎兵隊長として戦死。