アールスホト公/ダヴレ侯父子 Hertog van Aarschot / Marquis d’Havré

Croyblazon

Rogier van der Weyden (circa 1460) In Wikimedia Commons

南ネーデルランドの貴族、とくに有力なクロイ家、リーニュ家、ラレン家あたりは、十字軍時代に起源を持ち、16世紀にもなると互いに非常に入り組んだ姻戚関係になっています。また、ちょうど言語境界線付近を拠点にしているため、蘭語または仏語どちらで表記するかも非常に悩みます。このサイト内では、現在一般的に呼ばれる呼び名に従って、地名由来の称号と家名由来の姓名が別言語になっている場合もそのまま並列表記で採用しました。称号が蘭語、家名が仏語になっているものが多いです。

ここに挙げた4人の関係を図にしてみました。シャルル二世の息子のフィリップ三世とシャルル=フィリップが異母兄弟で、それぞれの長男たち、ということになります。いずれもたくさんのタイトルを持っていますが、この4人で男系の血統が絶え、娘または姉妹から他家へ継承されることになります。

  • シャルル二世
    • アールスホト公フィリップ三世
      • アールスホト公シャルル三世
    • ダヴレ侯シャルル=フィリップ
      • ダヴレ侯シャルル=アレクサンドル

アールスホト公フィリップ三世ド・クロイ Filips III de Croÿ

Ducaerchot

Unknown (16th century) In Wikimedia Commons

  • 第三代アールスホト公 Hertog van Aarschot、第四代シメイ公 Prins van Chimay、第四代ボーモン伯 Graaf van Beaumont、金羊毛騎士、フランドル州総督 Stadhouder van Vlaanderen
  • 生年: 1526/7/10 ヴァランシエンヌ(仏)
  • 没年: 1595/12/11 ヴェネツィア(伊)

生涯

オランダ史で一般的に「アールスホト公」と呼ばれるのはこのフィリップ三世です。ネーデルランドで「反乱」が始まると、熱心なカトリック教徒だったフィリップ三世はオランイェ公ウィレムに迎合するのを良しとせず、国王派として政治家・軍人として活動しますが、アウストリア公ドン・ファンを執政とするには反対で、オーストリア大公マティアスの招聘を主導しました。軍人としてもあまり能力は高くなく、政治的・軍事的な失敗の申し開きをするため、一度マドリードまで呼びつけられたこともあります。

晩年、執政フエンテス伯との不和のため、ネーデルランドでの職を辞退してヴェネツィアに向かいましたが、到着後すぐに客死しています。

リファレンス

  • ウェッジウッド, C.V. (瀬原義生 訳)『オラニエ公ウィレム―オランダ独立の父』文理閣、2008年
  • University Leiden, “Personen
  • NDB
  • ADB

アールスホト公シャルル三世ド・クロイ Charles III de Croÿ

Portret van Karel II de Coy (1560-1612)

Unknown (1601) In Wikimedia Commons

  • 初代クロイ公 Hertog van Croÿ、第四代アールスホト公 Hertog van Aarschot、第五代シメイ公 Prins van Chimay、第五代ボーモン伯 Graaf van Beaumont、金羊毛騎士、スペイン「大貴族」、フランドル・エノー・アルトワ州総督 Stadhouder van Vlaanderen, Henegouwen en Artesië
  • 生年: 1560/7/1 ボーモン(白)
  • 没年: 1612/1/13 ボーフォール(仏)

生涯

軍事キャリアは父の軍に従った1577年頃から。1580年に改革派の女性と結婚したことがきっかけで一時期改革派に改宗しますが、たまたまアントウェルペンでアンジュー公フランソワによる「フランスの狂暴」に対処するなど直接スペイン相手に戦わなかったこと、妻をすぐに遠ざけカトリックに再改宗したこと、ちょうどその時期にパルマ公ファルネーゼのもとで軍務に就けたことが幸いしました。ケルン戦争や第八次ユグノー戦争で軍功を挙げ、この功績で「グランデ」となっています。

父親のフィリップ三世と犬猿の仲だったフエンテス伯との関係もとくに悪くなく、フエンテス伯の指揮下、次いでオーストリア大公アルプレヒト七世のもとで再度フランス戦線に投入されました。1598年のヴェルヴァン条約の交渉にも参加し、その際仏国王アンリ四世からも功績を讃えられて領地がクロイ公領に昇格されました。

それ以降はほぼ隠居同様にボーモンにある居館に籠り、絵画収集などに没頭しました。改宗の経緯をめぐって妻とは完全に疎遠となり、そのためもあって子供が無く、死後に称号の多くは妹の夫であるアレンベルフ侯シャルル・ド・リーニュに継承されました。

リファレンス

  • ウェッジウッド, C.V. (瀬原義生 訳)『オラニエ公ウィレム―オランダ独立の父』文理閣、2008年
  • University Leiden, “Personen
  • NDB
  • ADB

ダヴレ侯シャルル=フィリップ・ド・クロイ Charles-Filips de Croÿ

Emanuel van Meteren Historie ppn 051504510 MG 8742 charles philips de croy

Simeon Ruytinck (1614) In Wikimedia Commons

  • 初代ダヴレ侯 Marquis d’Havré、金羊毛騎士
  • 生年: 1549/9/1 ?(仏)
  • 没年: 1613/11/13 ブルゴーニュ(仏)

生涯

「反乱」当初はアルバ公のもとでオランイェ公ウィレムと戦い、また、フランスでユグノーを相手に戦いました。それによりフェリペ二世の信任を得て1574年にダヴレ侯となります。しかし1577年、いったん反乱側に与し、交渉のためイングランドのエリザベス一世への大使役を務めました。その後すぐに再度陣営を変え、スペイン国王派に戻ろうとしますが、母方の従兄にあたるロレーヌ公シャルルの口添えで帰参が可能になる1587年まで許しを得られませんでした。

ごく短期間南ネーデルランド執政だったオーストリア大公エルンストの信任を得て、その兄皇帝ルドルフ二世の宮廷へ派遣されたこともあります。それ以降については、執政府の国務会議の議員を続けたと思われます。

リファレンス

  • ウェッジウッド, C.V. (瀬原義生 訳)『オラニエ公ウィレム―オランダ独立の父』文理閣、2008年
  • University Leiden, “Personen
  • NDB

ダヴレ侯シャルル=アレクサンドル・ド・クロイ Charles-Alexandre de Croÿ

Charles-Alexandre de Croÿ Marquis d'Havré and Duc de Croÿ.

Unknown (ca. 1610) In Wikimedia Commons

  • 第二代クロイ公 Hertog van Croÿ、第二代ダヴレ侯 Marquis d’Havré、フォントノア伯 Graaf van Fontenoy、金羊毛騎士
  • 生年: 1581/3/11 ?(仏)
  • 没年/埋葬地: 1624/11/10 ブリュッセル カペレ教会(白)

生涯

ハプスブルク家の軍に仕えた将校。1600年のニーウポールトの戦いにも参加していたといいますが、若年のため、このときはまだ連隊を率いるレベルではなかったようです。高位貴族だけで構成される騎兵隊に属したとされるので、名誉職だった可能性もあります。ホーホストラーテンの反乱では反乱兵たちの捕虜となり約1年間虜囚の身にありました。そのとき暇すぎたのか日記をつけはじめ、後回想録として出版されています。その後オーストリア大公アルプレヒトの軍事・外交を担います。1620年の白山の戦いで、将軍として軍功を挙げました。

シャルル=アレクサンドルは二度結婚していて、一度めはリーニュ公の長女ヨランデ。彼女を通じて、ナッサウ=ジーゲン伯ヤン八世の義理の兄になることになります。二度めはボージュ侯の長女ジュヌヴィエーヴ。いずれも子供は無く、称号はいったん弟に、その後妹の家系に継承されることになります。

1624年、シャルル=アレクサンドルは自宅でピストルで撃たれて殺されました。表向きは、彼が侮辱したペイジ(近習)による復讐とされ、犯人に仕立てられた無実の人物が投獄されました。が、当時のブリュッセルでは、妻のジュヌヴィエーヴが愛人のロス=バルバセス侯スピノラと共謀しての暗殺だと噂されました。ジュヌヴィエーヴは美人ですが身持ちの悪いことで有名な女性で、彼女が亡くなった32年後に、真犯人と名乗る人物が現れたそうです。

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