ペーテル=パウル・ルーベンス Peter Paul Rubens

Peter Paul Rubens Self-portrait (Canberra)

Rubens “Self-Portrait” (1623) In Wikimedia Commons

  • 画家、外交官
  • 生年: 1577/6/28 ジーゲン(独)
  • 没年/埋葬地: 1640/5/30 アントウェルペン(白)/聖ヤコブ教会

生涯

画家ルーベンスは外交官でもありました。1621年の南ネーデルランド執政オーストリア大公アルプレヒトの死(ちょうどオランダとの十二年休戦条約が切れた年です)の直後、アルプレヒトの妻で共同統治者でもあった執政イザベラから請われ、南ネーデルランドの外交官として働くことになります。この仕事はイザベラの死の直前の1632年まで続けられたため、夫亡き後のイザベラの右腕として活躍したといっても良いでしょう。

管理人は、このサイトの主旨からも、どちらかというとルーベンスの外交官としての働きに興味を持っています。そのため、あまり画家としてのルーベンスやその作品の内容には、サイト内では触れていません。

ルーベンスにとっては、南ネーデルランド、アントウェルペンが故郷です。生まれはドイツのジーゲンですが、10歳で父を亡くすと両親の故郷アントウェルペンに移住し、信教もカトリックに改宗したうえでアントウェルペンで育つことになります。14歳の頃から絵をはじめ、若年期にイタリアで修行を積み、すぐにマントヴァ公の宮廷画家になります。その後故郷のアントウェルペンに戻ると南ネーデルランド執政夫妻の宮廷画家となり、工房も経営して一躍売れっ子となりました。

外交活動をはじめる前から人脈も幅広く、兄フィリップの師であった人文学者リプシウスをはじめとした文化人、美術愛好家のイングランド大使カールトンなどの外交官、そしてフランス王母マリー・ド・メディシスも挙げられます。画家ヴァン・ダイクはルーベンスの弟子、ヤン・ブリューゲル(父)は親友でした。イザベラ大公妃が彼の教養と人脈に目を付けたのも無理からぬことといえるでしょう。外交官となってからは、スペイン王室、イングランド王室をはじめとした王侯貴族(両王室から騎士の位を授けられています)、スペインでは同じ宮廷画家のベラスケスやスピノラ将軍などの軍人とも交流を持ちます。

特筆すべきはオランイェ=ナッサウ家との関係です。ペーテル=パウルの父ヤン・ルーベンスは法律家で、カルヴァン派に改宗したためにアントウェルペンを逃れケルンで亡命生活をしていましたが、そこでオランイェ公ウィレムの妻アンナ・フォン・ザクセンと不倫関係に陥りました。密通の発覚したヤンは命まで取られることはありませんでしたが、ジーゲンで長期間監禁され、保釈後もその死の1587年まで同地で監視下に置かれていました。

ヤンとアンナにはクリスティーナという私生児が生まれ(ウィレムはこの子供を自分の子と認知せず弟のナッサウ伯ヤン六世が養育しました)、このクリスティーナを通じて、ウィレムとアンナの子であるオランイェ公マウリッツは、ルーベンスの義理の兄という関係になります。ルーベンスが外交活動でオランダに赴いた際に、このマウリッツとのコネクションを利用したようですが、実際にマウリッツと面識があったかどうかはわかりません。ただ、少なくともその弟であるオランイェ公フレデリク=ヘンドリクとはのちに直接外交活動で関わっています。

下記は「フランダースの犬」のラストシーンに登場する、アントウェルペン大聖堂にある作品。

Peter Paul Rubens - Raising of the Cross - WGA20204

「キリスト昇架」 In Wikimedia Commons

Peter Paul Rubens - Descent from the Cross - WGA20212

「キリスト降架」 In Wikimedia Commons

リファレンス

  • 中村俊春『ペーテル・パウル・ルーベンス―絵画と政治の間で』、三元社、2006年
  • クリスティン・ローゼ・ベルキン『リュベンス(岩波世界の美術)』、岩波書店、 2003年
  • ヤーコプ・ブルクハルト『ルーベンス回想』、筑摩書房、2012年