南ネーデルランド執政府の外交官たち

The Somerset House Conference 19 August 1604

Juan Pantoja de la Cruz (1604)「サマセット・ハウスでの会議」 In Wikimedia Commons

南ネーデルランド執政、とくにオーストリア大公アルプレヒト七世とスペイン王女イザベラ=クララ夫妻のもとで働いた外交官たちです。

ジャン・リシャルド Jean Richardot

Van Dyck - Richardot and his son

Anthony van Dyck (1600-1625) In Wikimedia Commons

  • 外交官
  • 生年: 1540 フランシュ=コンテ(仏)
  • 没年/埋葬地: 1609/9/3 アラス?/ブリュッセル(白)

生涯

外交官。若年期はスペイン領ネーデルランドでグランヴェルやパルマ公妃に仕え、評議員を務めました。一時期、「反乱」側に同情的になり、オーストリア大公マティアスの招聘に尽力したり、「アラス同盟」を阻止するために南部へ送られたりもしました。しかしそこでパルマ公ファルネーゼに能力を見込まれ、アルトワ州をスペイン側に帰参させることに成功します。その後もファルネーゼが陥落させた都市との交渉をまかされ、ファルネーゼと二人三脚で活躍しました。

ファルネーゼの死後、いったん後任の執政たちからは遠ざけられますが、オーストリア大公アルプレヒトが執政職に就くと、彼を評議員に再雇用しました。リシャルドはすぐに評議会のトップとなり、さらに重要な海外との交渉をまかされることになります。1596年の英・仏・蘭三国同盟を瓦解させた1598年のヴェルヴァン条約、1604年のロンドン条約は、いずれもリシャルドの主導によるものです。さらに、オランダとの十二年休戦条約に先立ち、1608年にはフランドル方面軍のスピノラ将軍とともに和平交渉団の団長としてハーグに滞在しました。オランダとの和平に積極的だったのは、息子たちのうち2人が、スペイン軍の騎兵将校として、対オランダ戦で戦死していることもあったかもしれません。

1609年、ユーリヒ=クレーフェ継承戦争が勃発すると、関係の悪化したフランスへ交渉のために送られます。その際、野外で長時間待たされたことが原因で高熱を発し、息子の家に帰る途中に亡くなりました。

リファレンス

記事中に挙げた参考URL以外については以下のとおり。

  • Motley, “United Netherlands”
  • University Leiden, “Personen

リーニュ公ラモラール一世 Lamoral I de Ligne

Lamoral Ier de Ligne

Unknown (17th century) In Wikimedia Commons

  • リーニュ伯およびフォコンベルグ伯 Comte de Ligne et de Fauquemberghe、初代リーニュ公(1601)1er Prince de Ligne、エピノワ公 Princes d’Épinoy、スペイン「大貴族」Grandee、金羊毛騎士 Chevalier de la Toison d’Or
  • 生年: 1563/7/19 ブロイユ城(白)
  • 没年: 1624/2/6 ブリュッセル(白)

生涯

十字軍時代に起源を持つリーニュ家。クロイ家・ラレン家と婚姻関係も強く、16世紀には既に非常に複雑になっていますが、本家といえる初代リーニュ公がラモラール一世です。1601年、神聖ローマ皇帝ルドルフ二世によってリーニュ公となりました。

1596年に南ネーデルランド執政となったアルプレヒト七世・スペイン王女イザベラ夫妻のもと、外交官として働くことになります。アンリ四世治下のパリで大使を務めました。フランス国王ルイ十三世とスペイン王女アンヌ・ドートリッシュの結婚をまとめた功績によって、「グランデ」と金羊毛騎士になっています。

末娘のエルンスティーヌ=ヨーランドが、ナッサウ伯ヤン八世と結婚しています。

  • NDB
  • Motley, “United Netherlands”

ペーテル=パウル・ルーベンス Peter Paul Rubens

Rubens Selbstbildnis Siegerlandmuseum

Rubens “Self-Portrait” (1625) In Wikimedia Commons

ペーテル=パウル・ルーベンス