ブレーデフォールト攻囲戦(1606) Beleg van Bredevoort

Bredevoort 1634

Unknown (1634) ブレーデフォールト In Wikimedia Commons

ブレーデフォールト攻囲戦 Bredevoort 1606/3/14-22
対戦国

flag_nl.gif オランダ

flag_es.gif スペイン
flag_es.gif フランス

勝 敗 ×
参加者 ホースウェイン・ファン・デル=ラウィック
ナッサウ伯フレデリク=ヘンドリク
ギリェルモ・ベルデューゴ
デュ・テライユ侯ルイ・ド・コンブールシエール

謝肉祭前夜。祭りに乗じて、おそらく軽い気持ちで近隣の街を攻めたスペイン軍。「そこには思いもかけぬ災難が待ちうけていた」――ベルデューゴが後に述懐するように、彼らは住民たちの頑強な抵抗に遭い、逆に身動きが取れなくなってしまう。最終的にブレーデフォールトが救われたのは、敵司令官の経験不足によるものといっても過言ではない。

私は絵に描いたパイを頬張って、オランダ軍の軍旗たった3旒だけを戦利品に、撤退するしかなかった。

ギリェルモ・ベルデューゴ * 1

経緯


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オルデンザール(北)とブレーデフォールトの位置関係です。

「懺悔の火曜日」の3月14日、オルデンザールのスペイン駐留軍の司令官、ギリェルモ・ベルデューゴ(フランシスコ・ベルデューゴの庶子)は、住民たちが祭りで浮かれている隙に乗じて、ブレーデフォールトの街を奇襲で手にしようと考えます。彼は火薬に詳しいデュ・テライユ侯とともに、ブレーデフォールト近郊に約2000の兵を進めました。

ベルデューゴは騎兵の精鋭だけを引き連れると、ひとりの将校をしばりあげて、「スペイン兵を捕虜にしたので一晩城門内に泊めて欲しい」と偽って城門を開けさせます。同時に、もうひとつの城門前ではデュ・テライユが得意の地雷を仕掛けていました。門が開くと、騎兵たちは城門内になだれこみ、出会った守備兵全てを斬り殺しながらブレーデフォールト城を目指しました。

戦闘

Bredevoort

Willem Baudartius (1622) 「ブレーデフォールト攻囲戦 (1606)」 In Wikimedia Commons

ブレーデフォールトの街は、地図を見てわかるように、城部分と街部分に分かれ、1本の跳ね橋のみでつながっています。このときブレーデフォールトの市長をしていたファン・デル=ラウィックは、常日ごろ有事に備えており、住民たちも万一の際には、まずは城に避難するよう周知させられていました。それでもたくさんの市民が犠牲になり、その中には、牧師の妻や市長本人の妻も含まれていました。何人かの市民と兵士は捕まってオルデンザールへ送られました。避難が完了すると、市長は跳ね橋を上げるよう指示し、住民とスペイン軍は完全に城と街に分かれる格好になりました。

また、市長はすぐに近隣の街と軍に使いを出して、自分たちが今籠城に入ったという情報を伝えたうえで援軍と物資を依頼しました。すぐに街はオランダ軍によって包囲され、スペイン軍は逆に街に閉じ込められてしまいます。しかも、市長は街の武器や火薬をすべて城内に保管していたので、スペイン軍の弾薬は最初の攻撃ですぐに尽きてしまい、街のひととおりの略奪が済むと、食料も不足するようになりました。ベルデューゴはオルデンザールへ弾薬と食料を送ってくれるよう使者を送ろうとしますが、包囲しているオランダ軍によってことごとく妨害されます。それどころか、ルールオルトにあるスペイン軍本営地から物資を運んできた部隊が、オランダ軍を見ると物資を置いて逃げ出してしまったので、近隣の農民がそれを拾ってオランダ軍に格安で売りつけるという有様でした。

一週間後、城の背後の湖から、500名の守備隊が増強されました。住民たちが籠城しているだけだった城から銃撃がはじまるようになり、数百人のスペイン兵が戦死しました。ここに至ってベルデューゴは撤退を決意します。ハーグからは、総司令官ナッサウ伯マウリッツの弟、ナッサウ伯フレデリク=ヘンドリクが交渉の使者としてやってきました。

余波

Bredevoort 192

ブレーデフォールトの砲術演武イベント In Wikimedia Commons

3月22日、フレデリク=ヘンドリクはスペイン軍に、オルデンザールへ送った捕虜の解放と交換に、略奪品をすべて持って撤退することを許可しました。が、この措置を伝え聞いた兄のマウリッツと連邦議会は、「無抵抗の女性を殺すという恥ずべき行い」をした者に対する降伏条件としては甘すぎると激怒します。ブレーデフォールトは、1597年攻囲戦の開城交渉の際にもトラブルに見舞われており、マウリッツにとっても連邦にとっても苦々しい経験を思い起こさせたのかもしれません。フレデリク=ヘンドリクは1597年遠征の前半こそ盾持ちとして従軍していましたが、ブレーデフォールト攻囲戦の頃にはハーグへ戻っていて、直接経験してはいませんでした。

さらに、フランス国王アンリ四世は売国奴のデュ・テライユ侯をおたずね者としていたので、彼を捕らえてフランスに恩を売る絶好の機会を逃してしまったことにもなりました。しかもデュ・テライユ侯はこの後フランドルへ流れ、3ヵ月後にスライスで同じような陰謀を計画します。

この防衛の成功は、攻め手側の思慮不足に負うところも大きいですが、なんといっても市長ファン・デル=ラウィックの手腕です。これも1597年攻囲戦の反省に端を発するものかもしれません。それにしても、街内部の防御体制以上に、周囲の協力を即座に得られたことは特筆すべきです。中でも挙げられているのが、隣街フロールの市長の息子が、卵売りに扮して街を出入りし、情報屋の役割を果たしたことです。しかしこのフロールの街自身が、半年後、スピノラ将軍の攻囲戦によってスペインに開城してしまうことになります。

リファレンス

記事中に挙げた参考URL以外については以下のとおり。

  • Bredevoort official Garnizoenstad
  • Van der Pluijm, J., Groenlo in de Tachtigjarige Oorlog, 2009

 *1 冒頭に挙げた引用文の引用元が現在不明な状態です。(当初参照していた参考URL削除によるもの)。判明するまで引用元不明のままにしておきます。