オーステンデ攻囲戦(1601-1604) Beleg van Oostende 後期

Sebastiaan Vrancx - Kriegsbild

Sebastian Vrancx (1601-1615) 「オーステンデ攻囲戦 (1601-1604)」 In Wikimedia Commons

オーステンデ攻囲戦 Oostende 1601/7/5-1604/9/16
対戦国

flag_nl.gif オランダ
flag_en.gif イングランド
flag_nl.gif フリース
flag_es.gif フランス

flag_es.gif スペイン

勝 敗 ×
参加者 ダニエル・デ・ハルタイング オーストリア大公アルプレヒト
セスト侯アンブロジオ・スピノラ
ブッコワ伯シャルル=ボナバンチュール
ファン・デン=ベルフ伯フレデリク

「新トロイ」「死の大謝肉祭」――当時の年代記に様々な渾名で書き記されたオーステンデ攻囲戦は、3年以上もの間続けられた後に幕を閉じた。そして「ピュロスの勝利」。4年前にナッサウ伯マウリッツがニーウポールトの勝利を称してそう語ったように、アルプレヒト大公にとってのオーステンデの勝利もまた、多大な犠牲を払った末に得たものはほとんど無い、虚しい勝利だった。

スピノラ将軍は自分が偉大な司令官だと証明したいのだろう。あの自尊心の高さは、まるで自分には不可能なことなど無いと考えているかのようだね。

フランス国王アンリ四世/ Belleroche E., The Siege of Ostend

はじめに

オーステンデ攻囲戦は「スペイン軍の攻撃不能な攻撃、オランダ軍の防御不能な防御」が3年以上もの間続けられたうえ、オランダ軍側は総司令官を含む軍部のトップ3が一度も参加することのなかった、八十年戦争全期間を通じても、もっとも長期間かつ特異な攻囲戦です。そのため、この記事もその内容に応じて3つの期間に分けています。

  1. 前期 開戦からヴィアーの撤退まで 1601/1-1602/3
  2. 中期 ヴィアー撤退からスピノラ登場まで 1602/3-1603/9
  3. 後期 スピノラ登場から開城まで 1603/9-1604/9

この「後期」では、スピノラ将軍の登場からオーステンデ開城までを区切りとしました。

経緯

Siege of Ostend 04

Unknown (17th century) オーステンデ攻囲戦のパンフレット In Wikimedia Commons

双方ヒト・モノ・カネをつぎ込んで、一向に出口の見えない攻囲戦も3年めに入ってきました。ここに挙げたパンフレットやジャーナルのように、オーステンデの絶望的な様子はこのような出版物となってヨーロッパ各地に伝えられました。現代の戦場ジャーナリズムに似たものかもしれません。

そんな折、スライスで弟のフェデリコが戦死した直後の1603年9月、セスト侯アンブロジオ・スピノラが陸軍を率いてオーステンデに現れました。アルプレヒト大公は、早速スピノラ侯にスペイン軍の指揮を任せることにします。

スピノラ侯はそれまで傭兵を用いたことはなく、素人同然の傭兵隊長でした。その彼に何故すぐに指揮権を渡したのか、詳しい理由はわかりません。実際、オーステンデでのスピノラ将軍の功績は、第一には兵への給与の支払でした。慢性的に給料が遅延していたため、スペイン軍では小規模な反乱も頻繁に起きていました。まずはこの発生件数を抑えることで、軍内部の安定を図ったわけです。

さらにスピノラ将軍は、イタリアからブレーンとなる技術者集団を連れてきていました。彼らにオーステンデの地形の分析をさせ、相手の防御の弱い場所、逆に守りの強固な場所を割り出して、攻撃を集中させる場所を特化しました。漫然と繰り返されていた攻撃にメリハリがつくようになり、籠城側のダメージは徐々に蓄積されていきました。

戦闘

Ostenda obsessa et capta

Joan Blaeu (1649) 「オーステンデ攻囲戦 (1601-1604)」 In Wikimedia Commons

オランダ側の状況も1604年に入ると悪化の一途を辿ります。とくに春以降、オーステンデの司令官に任命された人物が相次いで戦死するなど、状況はどんどん過酷になっていきました。指揮官になる者が居らず、その場に居た将校が一時的に駆り出されたものの、わずか数日で戦死してしまうケースもありました。

  • ペーテル・ファン・ヒーセレス 1603年末着任→1604/3/21 戦死
  • ヨーン・ファン・ローン連隊長 3/26 戦死
  • ヤックス・デ・ビーフリー大隊長 4月末 大怪我により戦線離脱
  • ベレントレヒト男爵ヤックス・ファン・デル=メール 6/7 戦死
  • アイテンホーフェ連隊長 6/17 致命傷を負い夏に死亡

6月中旬に連邦議会から派遣されたダニエル・デ・ハルタイングが、オーステンデ最後の司令官となることとなります。この頃になると、既にオーステンデは消耗戦の末、外側の砦から徐々に占拠されて辛うじて持ち堪えているだけの状態となっていました。

8月、オーステンデの北わずか20kmほどの位置で、ナッサウ伯マウリッツが4ヶ月にわたって攻囲していたスライスの街が開城しました。しかし、この至近距離に居ながら、マウリッツのオランダ軍主力はオーステンデに援軍を出しませんでした。さらにその10日ほど後、イングランドでは、イングランドとスペインの休戦条約「ロンドン条約」が締結されます。この条約では、イングランドはスペイン領ネーデルランドへの派兵をしないことが定められました。

デ・ハルタイングは、「10月3日までには援軍を送る」というマウリッツの約束を信じて待っていましたが、一向にその気配が無いことと、自身が左脚と右腕を失う大怪我をしていたこともあり、オーステンデ開城を決意して辞任しました。しかし代わりの知事が来なかったため、そのまま彼が残った左手で開城のサインをし、オーステンデのオランダ軍には名誉ある撤退が許可されることとなりました。

オランダ軍の撤退後、アルプレヒト大公とイザベラの執政夫妻は、スピノラ将軍に先導されオーステンデ入りします。街の有様はまさに廃墟で、教会はおろか一軒として原型を止めた家屋は残っておらず、辺りには打ち捨てられたままの遺体が散乱していました。兵士以外の住民もとうに逃げ出しており、文字どおりゴーストタウンの様相を呈していたそうです。

余波

Siege of Ostend 03

Unknown (17th century) In Wikimedia Commons オーステンデ開城とアルプレヒト大公・イザベラ夫妻

街を失ったことのみならず、オランダ側のダメージは多大なものでした。この攻囲戦と平行してフラーフェとスライスは手にしたものの、スヘルトヘンボスの奪取には二度に渡って失敗し、さらに翌1605年~1606年には東部で完全に守勢に回らされてしまいます。とくにオーステンデの3年での将兵の損失の影響は大きく、優秀な将校の戦死はもとより、具体的なところではフランシス・ヴィアー将軍の退役が挙げられます。「ロンドン条約」では、表面的にはイングランドは国を挙げてのオランダへの将兵の派遣を禁じましたが、ジェームズ一世はオランダに渡る志願兵や義勇軍については黙認していました。しかしエリザベス女王への忠誠心に篤かったフランシス・ヴィアー将軍は、相次ぐ大怪我も理由に、この条約を契機に完全な隠遁生活に入ってしまいます。

また、双方この攻囲戦にかかった戦費は莫大なもので、スペインはそのためもあり、1607年にはもはや恒例ともいえる国家破産を宣告することになります。アルプレヒト大公は1604年の冬から1605年の春にかけてオランダ側へ一時的な休戦を申し入れ、さらにこの休戦を永続的なものにしようと考えます。翌1605年~1606年にかけてのスピノラ将軍の東部遠征成功も、大公の意向を根底から覆すには至らず、1609年の「十二年休戦条約」への流れになっていきます。

ここに至るまでの展開については下記にて。

リファレンス

  • Belleroche E., The Siege of Ostend, or, the New Troy, 2011
  • Motley, “United Natherlands”
  • Markham, “Veres”
  • Kikkert, “Maurits”
  • Prinsterer, “Archives”