ミュルハイムの戦い(1605) Slag bij Mülheim

Schlacht von Mülheim 1605

Unknown (17th century) 「ミュルハイムの戦い (1605)」 In Wikimedia Commons

ミュルハイムの戦い Mülheim 1605/10/9
対戦国

flag_nl.gif オランダ
flag_en.gif イングランド

flag_es.gif スペイン

勝 敗 ×
参加者 ナッサウ伯マウリッツ
ナッサウ伯フレデリク=ヘンドリク
マルセリス・バックス
ホレス・ヴィアー
ガスパール三世ド・コリニー=シャティヨン
アンブロジオ・スピノラ
ルイス・デ・ベラスコ
テオドーロ・トリヴルツィオ

スピノラ将軍の大軍の進軍路を分断するため、オランダ軍は小村ミュルハイムを占領し、拠点にしようと試みる。作戦に当たったのは、総指令ナッサウ伯マウリッツの弟で、これが事実上の初の単独指揮となる若干21歳のフレデリク=ヘンドリクの連隊だった。容易と思われたこの作戦はしかし、思いがけない味方の総崩れにより激しい白兵戦となる。しかもその背後には、スピノラ自身の率いる本隊が迫っていた。10年前のリッペ川の戦いを思わせる絶体絶命の危機に、危険な陽動作戦を申し出たのは、配下のオランダ軍ではなく友軍イングランド軍だった。

私のイングランド隊が囮となってスペイン軍を引き付け、弟君が退却できる時間を稼ぎましょう。

ヴィアー卿ホレス/ Markham, “Veres”

経緯

ルール川とライン川の合流地点・ルールオルトを拠点に、ライン地域に総勢20000の兵を展開するスペインのセスト侯スピノラ将軍は、10月8日、6000の兵を用いてヴァハテンドンク攻囲を開始していました。同時にスペイン側が寡兵でミュルハイムとその川向かいのブロイヒ城を占拠したとの報を受け取ったナッサウ伯マウリッツは、まずはここを奪還してスピノラ軍に備えることを決定し、同日夜にミュルハイムへ向け進軍を開始しました。

機動を重視したオランダ軍は、騎兵と歩兵の割合をほぼ同程度にした約4000の連隊を組織し、これを2つに分け、川の両岸からそれぞれ村と城との両方を同時に攻め取る二方面作戦を立案しました。川の対岸に渡ってブロイヒ城を攻めるのはベテランの騎兵将校マルセリス・バックス、川のこちら側からミュルハイム守備隊を攻めるのはマウリッツの弟ナッサウ伯フレデリク=ヘンドリク、マウリッツと残りの歩兵からなる本隊は街の占領後に入城するという寸法です。マウリッツはこれまでも、ただ一人の跡継ぎである弟のフレデリク=ヘンドリクを、騎兵総大将の地位には就けていたものの無用な危険からは遠ざけてきました。そのためフレデリク=ヘンドリクが独立して連隊の指揮官となるのはこれが初めてで、このことからも、この作戦が楽観視されていたことがわかります。

バックスはブロイヒ城に直行してまずはそこを占拠し、ミュルハイムから退却してくるであろうスペイン兵の残党狩りをしようと待ち構えていました。が、一向に動きがないため疑問に思い始めます。一方フレデリク=ヘンドリクの隊は、兄の本隊との合流のタイミングを計りながら慎重に進軍していたのが裏目に出、ミュルハイム守備隊のトリヴルツィオ将軍にその動きを察知されて待ち伏せを受け、いつの間にかその背後に回られてしまっていました。

ルールオルトでトリヴルツィオ将軍からの援軍の要請を受け取ったスピノラ将軍は、自分も後から向かうことを告げ、まずはベラスコ将軍に現場に急行するよう命じました。

戦闘

Sebastiaan Vrancx - Reiterei und Fußvolk vor einer Kapelle

Sebastian Vrancx (before 1610) 「敵を待ち伏せする騎兵と歩兵」 In Wikimedia Commons

攻囲戦のつもりで軍を進めていたフレデリク=ヘンドリクは、思いがけず野戦でスペイン軍と対峙することになりました。戦いがはじまるとやがて戦場は村の中へと移動し、指揮系統の混乱からオランダ側の騎兵に逃亡する者が続出しました。騎兵を多めに編成したことがここで災いし、フレデリク=ヘンドリクは寡兵で敵の中に取り残されてしまいます。二個中隊が持ち場を死守し、フレデリク=ヘンドリクとともにルール川を渡って、対岸のバックス隊と合流を図りました。トリヴルツィオ将軍もこれを追います。

ところがブロイヒ城にはちょうどそのときスペイン軍のベラスコ将軍の先遣隊が到着し、こちらでも戦いが始まっていました。合流を果たしたオランダ軍は、逆に挟み撃ちされたかたちになります。しかもスピノラ将軍の本隊は、実はそれほどの人数ではなかったのですが、ありったけのトランペットとドラムを鳴らして大軍のように装って進軍してきていました。これを聞いたオランダ騎兵たちがさらにパニックを起こして退却し、フレデリク=ヘンドリクとバックスは、再度400人ほどの少数で置き去りにされます。この白兵戦は数時間にも及び、派手な鎧にオレンジ色の羽根飾りと肩帯をつけたフレデリク=ヘンドリクは目立って格好の的になり、少なくとも三度、命の危険にさらされるほどの至近距離での斬り合いや撃ち合いに巻き込まれました。

ミュルハイムに到着したマウリッツを迎えたのは、指揮官を見捨てて我先に逃げ出してきた自軍の騎兵たちでした。楽勝のはずの作戦が思いもかけぬ大ピンチに陥っている様にマウリッツは愕然とします。とはいえオランダ本隊も、迫り来るスピノラ隊を加えたスペイン全軍に対峙するには充分ではないと思われ、何よりもまず、退却する騎兵を止めることに最大の努力が向けられました。マウリッツはなだめたり脅したりすかしたり、最後には大砲まで持ち出して騎兵の崩壊を阻止しようとしましたが、あまり効果はありませんでした。

フレデリク=ヘンドリクのピストルの弾が切れ、敵の騎兵がその顔面に照準を合わせたまさに絶体絶命のそのとき、ある一兵士が間に割って入って命を救った…なんて出来すぎた小説のような一場面まで紹介されています。 また、マウリッツに関するエピソードも、1590年代の各攻囲戦やニーウポールトの戦いではクールなものが目立ちましたが、このミュルハイムでは弟の危機を目の当たりにして半狂乱になり、自ら助けに行こうとするのを周りが必死に止めた、というんですから、だいぶ違ったイメージで受け取れるのではないでしょうか。

そこでイングランド隊のホレス・ヴィアーは、フレデリク=ヘンドリクたちを逃すため、自分たちの隊が敵を一時引き付けるという囮作戦を申し出ます。この作戦でヴィアーたちは、到着したばかりのスピノラ本隊を1時間以上も押し止めたばかりか、フレデリク=ヘンドリクたち400人の退路を開いただけではなく、マウリッツの本隊までが無事退却できるよう殿軍も務めました。スピノラ将軍はその行動に敬意を表し、戦闘行為の停止を宣言します。オランダ軍はその後25kmほど北のヴェーゼルまで退却を続けました。

余波

SchlosshofBroich

ブロイヒ城 In Wikimedia Commons

ミュルハイム守備隊のトリヴルツィオ将軍は、不運にも、マウリッツが自軍の騎兵への威嚇のため用いた大砲に当たり戦死しました。オランダ軍の戦死は200名、スペイン軍のほうがやや多く300-500名とされ、オランダはスピノラ将軍の従兄弟ニコラス・ドーリアを捕虜としました。この結果だけ見ればオランダ軍が優勢なようにも見えますが、内容はオランダ軍の完敗でした。

この戦いで何よりもマウリッツが失望したのが、逃げ帰った騎兵たちの「汚れていない軍旗」です。無様に逃げ惑った兵の中には、古参の騎兵将校も何人も含まれていました。トゥルンハウトやニーウポールトの勝利にも貢献した彼らの、それぞれ名前を呼んでそのパニックを収めようとしても無駄でした。しかもこの混乱のとばっちりを受け、ミュルハイムの住民にも大勢の死傷者が出たうえ、村もほぼ全壊してしまいました。それらの行為は過去の勝利すら無にするような行いであり、規律を重視してきたオランダ軍の根幹をも揺るがす不名誉と思われました。

このように騎兵の総崩れによってオランダ軍はむざむざ勝利を逃すことになりましたが、これはまさに二兎追い作戦の失敗で、2つに分けた連隊の連携不足からくるものといえるでしょう。何よりフレデリク=ヘンドリクの行動が遅延したことが致命的で、敢えて本隊を待ったという説と道に迷ったという説がありますが、いずれにしてもスペイン側に行動を気取られ、戦闘準備をさせる時間と援軍を呼びにやる時間を与えてしまいました。また、バックスの側も、逆に城の占領があまりにも迅速だったため、その場に留まったまま敗残兵を待つという時間のロスをしてしまっています。

前年の1604年に病死した、先任の騎兵総大将ナッサウ伯ローデウェイク=ヒュンテルの不在の影響も大きいでしょう。この時点でのフレデリク=ヘンドリクは、騎兵将校としての資質と経験に富んだローデウェイク=ヒュンテルに比べて、若年であったという以上に大きくその能力が不足していたと言わざるを得ません。

この戦いの後、スピノラは予定通りヴァハテンドンク攻囲を続け、オランダ軍も一度は夜襲を計画するものの、ヴァハテンドンク奪還よりも他都市の防衛を優先させ、メールスの街の軍備増強を選びます。結局この1605年は、領土の拡張が全くないばかりか防戦一方を強いられるという、オランダ軍にとって1591年以来最悪の年となりました。

当然ながら、この後しばらくマウリッツは相当に機嫌を損ねていたようです。しかもこの時の騎兵への不信が災いし、もともと慎重な性格がさらに慎重、というよりも、悪く言えば臆病になってしまいました。翌1606年にスピノラ侯に快進撃を許してしまったのも、数に充分勝る野戦に及び腰になったことが一因ともいわれています。が、このミュルハイムで命懸けの誠意を見せたホレス・ヴィアーとは、退役したその兄フランシス・ヴィアー同様、これまで以上に信頼と友情を深めることになります。

リファレンス

  • Wagenaar, J., Vaderlandsche historie, vol.9, 1790-1796
  • Motley, “United Natherlands”
  • Markham, “Veres”