リッペ川の戦い(1595) Slag bij Lippe

Nederlaag van het Staatse leger bij Wesel, 1595

Simon Frisius / Frans Hogenberg (16世紀末) 「リッペ川の戦い (1595)」 In Wikimedia Commons

リッペ川の戦い Lippe 1595/9/1-2
対戦国

flag_nl.gif オランダ
flag_en.gif イングランド

flag_es.gif スペイン

勝 敗 ×
参加者 ナッサウ伯フィリップス
ゾルムス=ブラウンフェルス伯エルンスト
ロバート・ヴィアー
ナッサウ伯エルンスト=カシミール
ナッサウ伯ローデウェイク=ヒュンテル
バックス兄弟
クリストバル・デ・モンドラゴン
ファン・デン=ベルフ伯ヘルマン
ファン・デン=ベルフ伯フレデリク

ファン・デン=ベルフ伯ヘンドリク
フアン・デ・コルドバ
モンテネグロ侯ジロラモ・カラファ
マルティネンゴ伯パオロ=エミーリオ

2ヶ月前のフロール攻囲戦の際、会戦を望む91歳のフランドル軍の老将モンドラゴンに対し、ナッサウ伯マウリッツはその挑発に乗らず、攻囲を解いて一時撤退する。司令官の慎重策に対する欲求不満からか単なる冒険心からか――血気に逸るオランダ軍の若手将校有志からなる騎兵の一団が、要撃による事態の打開を試みる。しかしそれは、オランダ軍にとっても、ナッサウ家にとっても、あまりにも大きすぎる代償をもたらす結果となってしまった。

乞食どものために命を尽くして、何の見返りがあったというのだ?従弟殿。

ファン・デン=ベルフ伯フレデリク/ Motley, “United Natherlands”

経緯

前年の1594年のフロニンゲン攻略は、1591年からはじまるオランダ軍の攻囲戦の成果に対する評価を揺るぎないものにしていました。1595年から東部遠征が本格的に計画されます。その最初のターゲットとして、連邦議会は隣国ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公領との協議のもと、エイセル川にほど近い街フロールの攻囲を決定します。7月、ナッサウ伯マウリッツ率いる6000の歩兵を中心とした兵が街の攻囲を開始しました。

その報を聞きつけたのが、当時アントウェルペン知事をしていた91歳の老将モンドラゴンです。モンドラゴンはフロール救援もさることながら、どちらかというと単なる「男見物」の好奇心から、自ら先頭に立ってオランダ軍と対峙しようと考えました。そして既に軍人は引退していたにもかかわらず、近郊の街や国境の守備隊をかき集めて軍を結成しました。

モンドラゴン将軍はカール五世時代以来60年以上の戦歴を持つ将軍で、マウリッツの父ウィレム沈黙公だけではなく、祖父ザクセン選帝侯モーリッツとも戦ったことがあり、彼らの血を引く若い軍略家のマウリッツと機会あれば戦ってみたいと思っていたようです。自ら戦略を立て、他人の手を借りずに馬にまたがり、若者でも躊躇するような川を渡り、先頭で号令するという、全く年齢を感じさせない司令官ぶりです。

しかし時には臆病にも見えるほどに物事に慎重を期すマウリッツは、スペイン軍との野戦での直接対決を避け、一夜にしてフロールのキャンプを引き払ってしまいます。そして約1ヵ月後には、オランダ軍はさらに南下し、リッペ川とライン川の合流点に程近いビスリッヒに陣を張り直しました。(そのためこの戦いは「ビスリッヒの戦い」と呼ばれることもあります)。モンドラゴン将軍はフロールから配下のファン・デン=ベルフ伯兄弟(長男ヘルマンと次男フレデリク、マウリッツらの従兄でスペイン軍の将軍)を呼び寄せ、近郊のラインベルクを拠点とし、リッペ川の対岸に陣を張りました。

オランダ軍が今後どの街を攻囲するにも、まずはこのモンドラゴン軍をどうにかして退却に追い込むことが必至となります。

戦闘

Maurits breekt het beleg van Grol op, 1595, RP-P-OB-80.174

Unknown (1595) 「フロール攻囲戦 (1595)」 In Wikimedia Commons

対岸にいるモンドラゴン軍の前衛に騎兵で奇襲をしかける、という案を持ち出したのはマウリッツの従兄フィリップスです。彼は血気盛んな将校たちに声をかけ、500人からなる騎兵隊を組織し、明け方の奇襲を提案しました。マウリッツ、フィリップスの長兄ウィレム=ローデウェイク、英軍司令官のフランシス・ヴィアー等の上層部は危険であるとして難色を示しましたが、参加希望者全てが自ら志願したこと、このまま手をこまねいていてはこの年は何も成果のないまま帰還しなければならなくなることから、最終的には作戦を許可します。そして奇襲が成功した場合の追撃用として、4000の歩兵に戦闘準備をさせておくことにしました。

ウィレム=ローデウェイクはまだ従軍経験の浅い2人の弟、エルンスト=カシミールとローデウェイク=ヒュンテルも奇襲に加え経験を積ませるよう、フィリップスに頼みます。(兄フィリップスの無謀さを知るエルンスト=カシミールは、フィリップスの指揮下に加わるのを嫌がったようです)。ほかにはフランシス・ヴィアーの次弟ロバート・ヴィアー、マウリッツとフィリップスの従弟ゾルムス伯エルンスト、騎兵将校の第一人者バックス兄弟など、主力ともいえる若手将校たちが名を連ねていました。9月1日の夜半に一行は出発し、翌2日の夜明けにはリッペ川を渡りました。

しかし密偵の報告に加えて自らの経験と勘から、モンドラゴン将軍はオランダ軍の動きを正確に読んでいました。そこでモンドラゴン将軍は「見せ兵」として少数の槍騎兵を前線に配置し、その後ろに騎兵本隊を、さらに歩兵をも隠して待ち伏せることにしました。 斥候のマルセリス・バックスは50人ほどの「見せ兵」に不穏なものを感じ、さらに騎兵がいるのではと報告しました。フィリップスは、それでも自分たちの人数でなんとかなるだろうと判断し、前進を命じます。しかし森の中は道が狭く、500人のうち先頭を行く40人ほどが切り離されてしまいました。そして隘路から見晴らしの良い平地に出た途端、フィリップスたち先頭の40人は120人のスペイン騎兵と相対します。

フィリップスは弟のローデウェイク=ヒュンテルに、戻って残りの騎兵たちを呼ぶよう命じます。一部の兵たちは急いで駆けつけることができましたが、後方ではスペインの伏兵たちが襲いかかってきており、前後2ヶ所での激しい戦いとなりました。逃れる方法は側を流れるリッペ川に飛び込むことのみ。ローデウェイク=ヒュンテルは、軽傷のうちに早々に川を泳いで戦列から離れることができましたが、前方ではフィリップスが敵の銃の暴発に巻き込まれ全身に大火傷を負って落馬し、その従弟のゾルムス伯エルンストも胸と頭を撃たれて落馬、英軍のロバート・ヴィアーは槍で貫かれて即死します。フィリップスはこの場から逃げるよう命令を出し、マルセリス・バックスが血路を開いて何人かを逃がしますが、その間にも数名が命を落とし、エルンスト=カシミールは無傷のまま捕らえられ、重傷の兄たちともども捕虜となります。

後方の戦場ではその幅の狭さのため槍が使えず、短剣と短銃だけのより血みどろの白兵戦だったようです。それぞれ百数十名の死者を出したところで、双方が互いに退却しました。

余波

Belegering van Grol in 1595 - Siege of Groenlo in 1595

Unknown (1613) 「フロール攻囲戦 (1595)」 In Wikimedia Commons

捕虜となったフィリップス、エルンスト、エルンスト=カシミールは、近郊のラインベルクにあるモンドラゴン将軍の本拠地に運ばれ、怪我人はすぐに手当てを受けました。モンドラゴン将軍やファン・デン=ベルフ伯ヘルマンの捕虜に対する扱いは礼儀正しく(しかし冒頭の台詞のように、ヘルマンの弟フレデリクは捕虜を侮辱しました)、フィリップスも激痛をこらえて紳士的に応対しました。同時にビスリッヒのオランダ軍キャンプには、ヘルマンから戦闘の経緯や捕虜の様子について書かれた手紙と、フィリップスの着ていた衣服が届けられました。長兄ウィレム=ローデウェイクは、焼け焦げて火薬にまみれた衣服を見て、フィリップスはもう助からないと確信したようです。その見込み通り、手当ての甲斐なく、フィリップスはその日の深夜に、エルンストは翌日亡くなります。死者の遺体は8人の将校の手で丁重に返却されました。そしてウィレム=ローデウェイクは、ひとり捕虜として残った弟エルンスト=カシミールのために多額の身代金を工面し、半月後の9月22日に漸く解放してもらいます。

それからさらに数週間、両軍は川を挟んで対峙したものの互いにこれ以上の好機を見出せず、冬が来る前に撤退したい旨がスペイン側から申し入れられました。スペイン軍の退却後オランダもすぐに撤退を決め、マウリッツらは10月中旬にアルンヘムでフィリップスとエルンストの葬儀をおこなった後、ハーグへ帰還しました。アルンヘムでの葬儀の間、自らも弟のロバートを失ったイングランド軍のヴィアー将軍は、マウリッツの許可を得てイングランド軍単独でウェールトへ移動し、城(おそらくネイエンボルフ城)の守備隊を降伏させています。

なお、モンドラゴン将軍はこの約3ヵ月後、アントウェルペンの自宅で92歳の大往生を遂げています。

この戦いはモンドラゴン将軍のような、「経験」によって勝利を得ることのできる古参兵の最後の舞台でもありましたが、同時に、のちの皇帝軍元帥ジロラモ・カラファやフランドル方面軍将軍ファン・デン=ベルフ伯ヘンドリク(ヘルマンとフレデリクの末弟)ら若手の登竜門でもありました。

それでも、この戦闘行為自体はよくある小競り合いのひとつであり、何か大勢に変化を与えたほどのものでもなく、あまり重要視されるものでもありません。マウリッツは逃げ帰った騎兵達からは、作戦は「成功」と聞かされており、議会にもそう報告しています。そうはいってもオランダ軍にとっては、有能な若い将校たちをまとめて失ったという明らかに損失の大きな戦いであり、ナッサウ家にとってもこの犠牲は大きなものでした。フィリップスの父ヤン六世は、この息子と甥の死を、20年前の弟ルートヴィヒとハインリヒの戦死以来の悲劇であると語っています。

アルンヘムの聖エウセビウス教会の訪問記です。

リファレンス

ヘンティは小説。

  • G.A.Henty, By England’s Aid, 1891
  • Motley, “United Natherlands”
  • Markham, “Veres”
  • Kikkert, “Maurits”
  • Prinsterer, “Archives”