スライス攻囲戦(1604) Beleg van Sluis

The capture of Sluis by Maurice of Orange in 1604 - Slusa Expugnata (1649)

Unknown (1649) “Atlas van Loon” 「スライス攻囲戦 (1604)」 In Wikimedia Commons

スライス攻囲戦 Sluis 1604/4/20-1604/8/19
対戦国

flag_nl.gif オランダ
flag_nl.gif フリース
flag_en.gif イングランド
flag_es.gif フランス
flag_pf.gif スコットランド

flag_es.gif スペイン

勝 敗 ×
参加者 ナッサウ伯マウリッツ
ナッサウ伯ウィレム=ローデウェイク
ナッサウ伯フレデリク=ヘンドリク
ナッサウ伯エルンスト=カシミール
ナッサウ伯ローデウェイク=ヒュンテル
ナッサウ伯ハンス=エルンスト
ナッサウ伯アドルフ
ホレス・ヴィアー
ガスパール・ド・コリニー=シャティヨン
オーストリア大公アルプレヒト
セスト侯アンブロジオ・スピノラ
ルイス・デ・ベラスコ

1601年以降、オランダ軍軍部が主張している最重要4拠点のうち、ラインベルク、フラーフェの奪取の後、デン=ボスの二度の失敗を経て、最後に残ったスライス。2年半以上も続いているオーステンデ攻囲戦を尻目に、大規模な攻囲戦が計画される。「連隊ごとにそれぞれ軍旗の色を揃えて――」まるで狩りにでも行くかのように楽しげに準備された攻囲戦は、教科書どおりに粛々と進められ、4ヶ月間で無事開城に至る。しかしそこには、思いもかけぬ結末が待ち受けていた。それはひょっとすると、ナッサウ家にとっては、オーステンデ陥落以上に衝撃的な出来事だったかもしれない。

閣下は、目に涙をいっぱいに溜めて、まるで子供のように泣いた。

ナッサウ伯ウィレム=ローデウェイク/ Doorn, “Prijs”

はじめに

参加者欄にずらりと並んだナッサウの名でわかるとおり、おそらくこの時期では最多のナッサウ伯が関わった攻囲戦。マウリッツら総指令クラスは40歳前後の働き盛り、エルンスト=カシミールら30歳前後の将校たちはベテランとして主力を担っており、さらにフレデリク=ヘンドリクら20歳前後で従軍2-3年目の若手世代もそろそろ指揮にも慣れてきた頃です。

この戦いに参加したナッサウ伯のうち、マウリッツとフレデリク=ヘンドリクの兄弟以外の関係がわかりづらいかもしれないので、まずは表にしてみました。彼らはヤン六世の息子と孫たちで、マウリッツとフレデリク=ヘンドリクの父方の従兄弟とその息子たちにあたります。

  • ヤン六世(ディレンブルク在住)
    • 長男・ウィレム=ローデウェイク
    • 次男・ヤン七世(ディレンブルクかヨーロッパのどこかに居る)
      • 長男・ハンス=エルンスト
      • 次男・ヤン八世(なぜかカッセルに居るらしい)
      • 三男・アドルフ
    • 五男・エルンスト=カシミール
    • 六男・ローデウェイク=ヒュンテル

フレデリク=ヘンドリクはハンスとアドルフの兄弟と同世代です。さらに言うと、フレデリク=ヘンドリクの母方の従弟ガスパール・ド・コリニーも参加しています。彼も同世代ですが、既に2つあるフランス連隊のうち1つの連隊長をしています。

また、スライスはマウリッツとウィレム=ローデウェイクが重要とする4拠点の中では最もオーステンデに近く、対するスペイン軍も、オーステンデと掛け持ちで将軍たちが登場します。アンブロジオ・スピノラ侯とナッサウ一族との初対決でもあります。

ナッサウ家こぼれ話

ところで、ヤン六世、ウィレム=ローデウェイク、ヤン七世など、ナッサウ=ディレンブルクの家長たちはガチガチのカルヴァン派で、その子弟への教育も理想が高く、非常に厳しくしていました。とくにヤン七世の、息子たちに対する評価は辛辣で、息子たちはみんなバカか弱虫で使えないと思っていたようです。(だからハンスはおじいちゃん子だったのかと…)。

逆に彼らの現場教育を任されていたエルンスト=カシミールは、典型的な褒めて伸ばすタイプです。このスライスではハンスとアドルフを配下のドイツ連隊に組み入れて面倒を見ていましたが、その働きを逐一兄のヤン七世に伝えています。ちなみにアドルフは従軍年齢になったばかりで、これが初陣と思われます。以下はエルンスト=カシミールによる甥2人のこの攻囲戦での評価です。

ハンスについて … ハンスは中隊長として他の誰よりも聡明だ。知識欲が旺盛で、ちょっとでも暇があれば何でも聞きにくる。敵前での指揮も堂に入ったもので、訓練のときとまったく相違なく務めている。さらに日々成長しているのがわかる。

アドルフについて … 兄上は信用しないと思うが、心の底からの真実として、アドルフはもう充分に将校としての資質が備わっている。最前線で一時間にわたって一斉射撃を受けたときも、絶対に自分の側を離れようとしなかった。大したものだ。

エルンスト=カシミール自身が、若年期には、同じようにマウリッツからOJTで数学や幾何学を叩きこまれた経験があるので、甥たちにも同じように接しているのだと思われます。「学ぶ気のある者にとっては、オランダの戦場が世界でもっとも戦争を勉強するのにふさわしい場所だ」とまで断言しています。

実際、このスライスの攻囲は、攻囲技術やスカーミッシュなどすべてが理想的なセオリーで進められており、その完成度はかなり高いもののひとつといえます。

「かつてスライスの防御は容易だった、しかし今や我々は彼自身にその包囲を許してしまった」――。

マウリッツの少年時代の師であった人文学者リプシウスが、敵の総大将となった教え子の手腕を称して語った台詞にも、それは証明されています。

経緯

Foto naar tekening in Gemeente Archief te Sluis - Sluis - 20201323 - RCE

Unknown (17th century) 「スライス攻囲戦 (1604)」 In Wikimedia Commons

1601年に始まったオーステンデ攻囲戦は泥沼化しつつ3年めを迎え、スペインが新たに雇ったイタリアの傭兵隊長・セスト侯アンブロジオ・スピノラの登場で、よりオランダ側に不利にシフトしてきていました。一方、オランダ軍部は、奪取すべき主要4拠点のうち、残った2拠点、スライスかデン=ボス攻囲戦を考えていました。スライスは、フランドル執政アルプレヒト大公の拠点のひとつであるブルッへ(ブリュージュ)をはさんで、ちょうどオーステンデと等距離にあります。「スライス攻略後に、可能であればそのままオーステンデ救援に向かう」と、議会はとんでもない甘い見通しで再度フランドル遠征を計画しましたが、表面上は議会と軍部の利害が一致したかたちとなって、4月中旬、スライス攻囲戦計画が実行に移されることになりました。

オランダ軍は、前衛・中衛・後衛にそれぞれナッサウ伯を司令官として就け、連隊ごとに3つの場所に集合して、それぞれ船でスライスを目指しました。

  1. 前衛 司令官:ナッサウ伯エルンスト=カシミール
    • ドイツ連隊(ハンス=エルンストとアドルフの兄弟を中隊長として含む)
    • ワロン連隊
    • ホラント連隊 ×3
    • 騎兵連隊 ×3
  2. 中衛 総司令官:ナッサウ伯マウリッツ
    • スコットランド連隊
    • イングランド連隊 連隊長:ホレス・ヴィアーおよびジョン・オーグル
    • ゼーラント連隊
    • 騎兵連隊 連隊長:ナッサウ伯フレデリク=ヘンドリク
    • 親衛隊 隊長:ニコラース・ファン・デル=アー
  3. 後衛 司令官:ナッサウ伯ウィレム=ローデウェイク
    • フリースラント連隊
    • フランス連隊 ×2 連隊長:ガスパール・ド・コリニー
    • スコットランド連隊
    • 騎兵連隊 連隊長:ナッサウ伯ローデウェイク=ヒュンテル

戦闘

Foto naar tekening in Gemeente Archief te Sluis - Sluis - 20201314 - RCE

Unknown (17th century) 「スライス攻囲戦 (1604)」 In Wikimedia Commons

4月25日、沿岸部のカトザントに船団で上陸したオランダ軍は、そのまま川をさかのぼってスライス入りする方針でした。しかし川はスペインに押さえられていたため、いったん陸路を東進することにします。まずは5月4日までに、スペインの将軍ルイス・デ・ベラスコを退けてエイゼンデイケの街を占拠すると、5月10日にオーストブルフ、5月12日から16日にかけてアールデンブルフを相次いで攻略しました。

この期間はあくまで下準備の期間にあたりますが、むしろ攻囲そのものよりこの期間のほうが危機的でした。補給線の心配をしつつ何度かスペイン軍との散発的な衝突があり、死傷者や捕虜もそれなりの人数になっています。たとえば、総司令官マウリッツの護衛隊長ニコラースは戦死し、前衛司令官のエルンスト=カシミール自身も負傷しています。水路が入り組んでいる、湿地が多く砲の運搬や進軍・補給に手間取る、など、苦労の跡が見られます。

その後、オランダ軍はスライスの街の北側に、前衛・中衛・後衛別に3つのキャンプを張り(冒頭の地図だと下部の3つ)、それとは別に街の南側にイングランド・ゼーラント連隊が前線キャンプを張って(冒頭の地図だと右上)、環状防衛線の建設をはじめます。冒頭の地図を見るとわかりやすいですが、スライスを半月状に囲む川沿いに星型砦が整備され、逆にキャンプの付近には塹壕と小砦が建設されています。

オランダ軍は、環状防衛線の仕上げとスライスの街の兵糧攻め(水運の封鎖)のため、南部のムールケルケの街の占領を試みました。これに対しアルプレヒト大公は二度にわたりベラスコ将軍に15000の兵を与えて攻撃を命じますが、オランダ軍は再三これを退却させることに成功します。

スライスの街には、住民のほかに数千名のスペインガレー船の漕ぎ手たちが住まわされていました。前年の「スライスの海戦」の敗戦後ここに留め置かれた、フェデリコ・スピノラ提督(アンブロジオの戦死した実弟)のガレー船奴隷といわれています。本来抱えられる人口よりも多くの人員を抱えていた街は、一切の補給を絶たれすぐに飢餓に陥ります。ネコやネズミまでが食料として食べられ、街には病気が広がっていきました。

7月に入ると、アルプレヒト大公は、オーステンデの攻囲を続けていたアンブロジオ・スピノラ将軍にスライス救援要請を出します。ムールケルケ近郊のシント=クライスに陣を敷いたスピノラ将軍は、オランダ軍の環状防衛線沿いに何度か襲撃を仕掛けますが、その度に大きな損失を出すばかりで防衛線を突破することはできませんでした。8月19日にスライスは開城し、アルプレヒト大公とスピノラ将軍はオーステンデに注力するべく、速やかに軍をオーステンデに移動させました。

このときスピノラ将軍は、どういうわけか「最も防備が弱いに違いない」と確信して、ナッサウ伯ウィレム=ローデウェイクの陣ばかりを狙い撃ちしてきました。しかしウィレム=ローデウェイクはマウリッツ以上に聡明で熟練したオランダ軍随一の司令官なので、あっさりとこれを撃退しています。後年のスピノラ将軍は、ナッサウ伯たち同様に速攻の機動や攻囲戦での功績が目立ちますが、このように最初期に戦場で相対した時点では、弟フェデリコ同様に頭に血の登りやすい猪突猛進型だったようです。

余波

Inname van Sluis en het verlaten van Oostende, 1604 door Van den Vogelaer

「スライス攻囲戦 (1604)」戦勝記念コイン In Wikimedia Commons

スライスを手にしたオランダ軍は、すぐ近郊でオーステンデ攻囲戦が続けられていることもあり、即座にハーグに帰還することはありませんでした。かといって、当初議会が計画していたようには、オーステンデに向けて進軍することもしませんでした。

そしてスライスの街に蔓延した伝染病は、開城の後ガレー船奴隷たちが街を後にした際、オランダ軍キャンプにも襲いかかりました。総司令官のマウリッツ自身をはじめとして、オランダ軍の将校たちの何人もが熱病に罹患します。中でもナッサウ伯ローデウェイク=ヒュンテルは、体調不良を押してオーステンデに視察に出たことが祟って、帰陣の際には落馬寸前の状態になっていました。その直後に倒れて瞬く間に重症となり、翌日には急死してしまいます。

ローデウェイク=ヒュンテルは、ニーウポールト以来オランダ軍の騎兵総大将を務めており、結婚もしたばかりでした。兄弟たちはその妻のマルガレータのことを心配しますが、その懸念どおり、マルガレータも2年後には悲しみのあまり若くして亡くなります。

ローデウェイク=ヒュンテルの死から8日後、3年以上の攻囲戦が続いていたオーステンデがとうとう陥落しました。オランダ軍にとってそれ自体はある程度折り込み済みだったものの、オーステンデで戦果を挙げたスピノラ将軍が翌年より東部戦線で攻勢に転じ、オランダは重要4拠点のうちスヘルトヘンボスの奪取を達成しないままに、防戦一方に立たされることになります。

リファレンス

  • Motley, “United Natherlands”
  • Markham, “Veres”
  • Doorn, “Prijs”
  • Prinsterer, “Archives”