ラインベルク攻囲戦(1601) Beleg van Rheinberg

Siege of Rheinberg by Maurice of Orange in 1601 - Rhenoberca obsessa et capta (Atlas van Loon)

Unknown (1649) “Atlas van Loon” 「ラインベルク攻囲戦 (1601)」 In Wikimedia Commons

ラインベルク攻囲戦(1601) Rheinberg 1601/6/12-7/30
対戦国

flag_nl.gif オランダ
flag_nl.gif フリース
flag_en.gif イングランド
flag_es.gif フランス

flag_es.gif スペイン

勝 敗 ×
参加者 ナッサウ伯マウリッツ
ナッサウ伯ウィレム=ローデウェイク
ナッサウ伯ヤン七世
ナッサウ伯エルンスト=カシミール
ナッサウ伯ハンス=エルンスト
ゾルムス伯ゲオルク=エバーハルト
アンリ・ド・コリニー
ヒエロニムス・ロペス
ファン・デン=ベルフ伯ヘルマン

「ニーウポールトの野戦でのオランダ軍大勝利」という事実の捉えかたは、議会と軍部ではまったく正反対だった。これに自信を得て、さらにフランドルの侵略を続けよと命じる議会。「辛勝」の意味がわからないのか、と激怒した軍部。折りしも1601年1月のフランスとサヴォイアの和平によって、スペインは閉鎖されていた「スペイン街道」を回復し、本国から続々とオーステンデ攻囲用の軍隊を補充しつつあった。

オルデンバルネフェルトには、一度と言わず、三度四度同じことをはっきり言った。が、まったくどこ吹く風だ。

ナッサウ伯マウリッツ/ Prinsterer, “Archives”

はじめに

ライン川沿いの要衝であるラインベルクは、八十年戦争の中でもおそらく最も多くの回数、攻囲戦の舞台になりました。「戦争の娼婦」と呼ばれるほど、その支配者がスペインとオランダの間で何度も入れ替わっています。1595年の「リッペ川の戦い」もラインベルク近郊での出来事で、このサイト内でも、ラインベルクはあと何度か登場するものと思われます。

ので、この1601年攻囲戦の記事は、ちょっと趣向を変えてみました。 20歳の若きナッサウ伯ハンス=エルンストは、この年のこの戦いがおそらく初陣です。ディレンブルクの祖父ヤン六世に宛てて攻囲戦の様子を手紙に書いています。ここでは、1601年2月、フランドルでの戦争の噂についての手紙と、同年6月、攻囲戦中のラインベルクからの手紙の2通、その全文をかなり意訳のうえお届けします。(いずれも Prinsterer, “Archives”)

経緯(オーステンデ攻囲戦(1601-1604)前期 と共通)

Rubens medici cycle meeting at Lyon

Peter Paul Rubens (1621-1625) 『マリー・ド・メディシスの生涯』より「リヨンでの邂逅」 In Wikimedia Commons

前年のニーウポールトの戦いでオランダ軍は大勝利を挙げたものの、翌年、スペイン側は即座にオーステンデ攻囲戦というカードを切ってきました。フランドル地方の海岸沿いに唯一残ったオランダ側の都市を制圧し、完全にフランドルから駆逐するためです。

オーステンデ攻囲戦はスペインとオランダの戦いですが、オランダ側の対応にもっとも重要な要素となったものが、フランスとサヴォイアの和平とイングランドの出方です。

1598年5月、フランス国王アンリ四世はスペインとの講和条約「ヴェルヴァン条約」を結びましたが、9月にスペイン国王フェリペ二世が死去し、1600年7月にニーウポールトでオランダがスペインを破ると、それに乗じて隣国サヴォイアに侵入します(フランス=サヴォイア戦争: 1600年9月-1601年1月)。この和平の「リヨン条約」(1601年1月17日)により、一時閉鎖されていた「スペイン街道」のサヴォイアルートが開通することになります。ニーウポールトの報復のため、アルプレヒト大公が本国から大軍を呼び寄せている、という噂が現実味を帯び、軍部は対応を急がせようとします。しかし一向に軍備を進めない議会との温度差は、日を追うごとに強まっていきました。

連邦議会と法律顧問オルデンバルネフェルトは、この年もフランドル遠征およびオーステンデ防衛を主張します。が、両ナッサウ伯マウリッツとウィレム=ローデウェイクは、いずれの計画にも強硬に反対し、東部や南部の都市(具体的にはラインベルク、スライス、フラーフェ、デン=ボスの4都市)を確実に奪還して国境固めをすることを先決とし、その後にオーステンデに当たる策を提案します。

兵力にどうしても劣るオランダ軍が頼みの綱とするのはイングランド軍です。エリザベス女王はイングランド軍4000を用いることを快諾はしたものの、「但しオーステンデにしか用いてはならない」という条件をつけました。この条件に対して議会は女王と何ら交渉をおこなわなかったため、結局オーステンデ防衛にはイングランド軍があたり、オランダ軍本隊は東部国境沿いの遠征、ラインベルクの攻囲戦に取りかかる、という折衷案が採られることになりました。

ハンス=エルンスト伯から祖父のヤン六世へ レーワルデンでの近況

 

おじい様*1、ぼくがここに来て数ヶ月、お便りしなかったのは、お知らせするほどのニュースがなかったからじゃないかと、どうかお気を悪くされないでください。

季節になりしだい*2すぐにぼくたちとの戦争を開始できるようにと、敵が兵力を増強して大掛かりな準備をしている、との雑音が日に日に高まっています。陸海両方から、大軍で攻められるんじゃないかと本気で信じている人までいます。

フランドルに投入されるスペイン海軍は5000人といわれていますが、オランダの軍艦はわずかしかなく、とても太刀打ちできる数ではないでしょう。商人の情報によれば、アルマダはこの前アイルランド沖の嵐で沈んだ*3とのことですが、それでも二方向からの攻撃になれば戦争が凄惨なものになるのは間違いありません。

ここでの情報は不確かです。かんたんに入手できる類の情報でもありませんし、先月末まで毎日のように情報が上書きされていました。

提督*4が捕虜交換で釈放されました。まもなく、スペインや他の場所で捕虜になっていたオランダの兵士・市民・商人たちも戻ってくるでしょう。また、フランス国王とサヴォイア公の和平*5によって、さらに確実な情報が入ってくるようになると思います。もしそちらでも情報があればお知らせください、おじい様、貴方のいちばん従順な孫、ヨハン=エルンスト

レーワルデン*6にて、1601年2月1日
ディレンブルクの祖父上様、ナッサウ伯大ヤン様

注釈

  1. ナッサウ伯ヤン六世(大ヤン)のこと。ディレンブルク在住。ハンスにとっては祖父にあたります。
  2. 当時のヨーロッパでは通常冬季(winter quarter)は戦闘行為を行いません。だいたい6~11月が戦争の季節です。
  3. 事実確認できず。噂の域に留まっているものかもしれません。
  4. アラゴン提督フランシスコ・デ・メンドーサのこと。先年1600年のニーウポールトの戦いで捕虜となり、そのままずっとハーグに逗留していました。1601年1月に捕虜交換が決定されたようです。
  5. 仏国王アンリ四世とサヴォイア公カルロ一世エマヌエーレの間で交わされた「リヨン条約」のこと。ハンスの実弟アドルフがこの時ちょうどリヨンでアンリ四世の晩餐に招かれています。ハンスがわずか13日前の情報をすでに得ていることがわかります。
  6. フリースラント州の州都。伯父のフリースラント州総督ナッサウ伯ウィレム=ローデウェイクの屋敷に居るようです。そのため、ハンスも日々多くの情報に触れることができていると思われます。

ハンス=エルンスト伯から祖父のヤン六世へ ラインベルク攻囲戦

 

おじい様*1へ。マウリッツ閣下*2がラインベルク攻囲戦を開始した、とお知らせした前回の手紙は、もう受け取っていただいていると思います。

ゾルムス伯*3やエルンスト=カシミール伯*4が陣を張っている場所に、敵が、3回か4回、襲撃を仕掛けてきました。どれも1000人前後は居て、けっこう本格的な襲撃です。フランス連隊の中隊長をしているシャティヨン*5が、一度目の襲撃のときに怪我をしました。

でも閣下がキャンプの周りにたくさんの方形堡を建ててくれたので、何も恐れることはありません。20000人の敵連隊*6が救援に来ましたが、諦めて帰っていきました。こんな感じで、まだ城壁に突破口を開けるところまではきていません。防御に手が回りすぎていますから。

今夜あたり、砲台で作戦があるようです。

騎兵に加えて、ここから砲撃を仕掛ければ、敵はかなりのダメージを受けるでしょうね。坑道はだいぶ掘り進んでいるので、僕らの側と向こう側の両方から、砲台には容易に近づけます。今夜、やっと奴らに反撃を食らわせてやれます。そしていずれ街は降伏するものと思います。神のご加護を。

去年あたりから閣下のフランドル戦線によく見学に来ているノーザンバーランド伯*7とかいうイングランド人が、きのうキャンプに到着しました。

それと、父上*8が今日そちらに向かいました。おじい様の手にキスを、とお願いしておきましたよ。

おじい様ももっと読みたいでしょう、僕ももっと書きたいけれど、時間のようです。僕の生涯のすべてを賭けて、おじい様、
貴方のいちばん従順な孫、 ヨハン=エルンスト

ベルクのキャンプにて、旧暦1601年6月20日
ディレンブルクの祖父上様、ナッサウ伯大ヤン様

注釈

  1. ナッサウ伯ヤン六世(大ヤン)のこと。ディレンブルク在住。ハンスにとっては祖父にあたります。
  2. ナッサウ伯マウリッツのこと。この戦いの総司令官。いちばん上の地図だと、右側のキャンプ本陣に居ます。
  3. ゾルムス伯ゲオルク=エバーハルト。ドイツ連隊の将軍で、「反乱」時代からの古参。いちばん上の地図だと、左上のキャンプに居ます。ここら辺では唯一の高台なので、ここがハンスの居る「ベルク」のキャンプでしょう。騎兵連隊もこちらに集められているようです。
  4. ナッサウ伯エルンスト=カシミール。ハンスの叔父。ハンスの教育係。
  5. アンリ・ド・コリニー=シャティヨン。フランスのコリニー提督の孫。ハンスとは同い年で親友の一人。
  6. スペイン軍のファン・デン=ベルフ伯ヘルマン将軍の連隊のこと。ラインベルク救援を試みるものの、マウリッツの防衛線を見て早々に撤退します。いちばん上の地図だと、右上の中洲部分を除いて、ほぼ三方に砦とそれらを結ぶ塹壕が整備されています。
  7. 第9代ノーザンバーランド伯ヘンリー・パーシーのこと。軍人というよりはどちらかというと文人。オランダ軍の攻囲戦見学にたびたび訪れていたらしい。ハンスは英語の名前に馴染みがなかったのか、ちょっとへんな綴りで書いています。
  8. ナッサウ伯ヤン七世(中ヤン)のこと。ハンスの父親で放浪癖有り。とくにこの1601年は、スイスからスウェーデンまで、最も広範囲に出没します。どうやらここに居たらしい。そして途中で帰宅したらしい。

余波

ハンスの2通めの手紙はユリウス暦と明記されているので、実際は6月30日のことです。そのちょうど1ヵ月後に街は交渉によって開城します。逆にいえば、攻撃の決め手に欠けたため、交渉に時間がかかったともいえます。

ラインベルクは1ヵ月半の期間で済みましたが、この攻囲戦と平行して始まったオーステンデの攻囲戦は、この後3年も続く、八十年戦争の中でも最も長い攻囲戦となりました。マウリッツとウィレム=ローデウェイクの2人が決して自らオーステンデの指揮を執らなかったこともあり、この3年の間、オランダ軍は常に二方面作戦を強いられることとなります。幸いラインベルクはオランダ側に帰したものの、これ以降の東部・南部での攻囲戦は、この2人が危惧したとおり、兵力の乏しいオランダ軍にとって苦しいものとなっていきます。

ここに挙げた初陣のハンスの手紙には、まだなんとなく初々しさが感じられます。この後、エルンスト=カシミールの連隊を中心として、ハンスを含む何人かはオーステンデに転戦しますが、この手紙からわずか3ヵ月後のオーステンデからの手紙は、そこから受ける印象にだいぶ変化が見て取れます。「オーステンデ攻囲戦(1601-1604)前期」を参照ください。

リファレンス

  • Motley, “United Natherlands”
  • Markham, “Veres”
  • Kikkert, “Maurits”
  • Prinsterer, “Archives”