デフェンテル攻囲戦(1591) Beleg van Deventer

Lebuinuskerk

Claes Jansz. Visscher (1615) レブイヌス教会 In Wikimedia Commons

デフェンテル攻囲戦 Deventer 1591/6/1-10
対戦国

flag_nl.gif オランダ
flag_en.gif イングランド
flag_nl.gif フリース

flag_es.gif スペイン

勝 敗 ×
参加者 ナッサウ伯マウリッツ
ナッサウ伯ウィレム=ローデウェイク
ナッサウ伯フィリップス
フランシス・ヴィアー
ゾルムス伯ゲオルク=エバーハルト
ファン・デン=ベルフ伯ヘルマン

ズトフェンの街との開城交渉の夜、休養もそこそこにマウリッツの軍隊は即座にエイセル川を北上しはじめた。強固な中世の城壁に囲まれたデフェンテルは、スペイン軍の将軍でマウリッツの従兄でもあるファン・デン=ベルフ伯ヘルマンが守る。「従弟にこの街を売り渡すに違いないさ」――部下の将校たちの陰口にいたく傷ついたヘルマンは、却って徹底抗戦の構えをとった。

さて、ばかばかしい戦いの始まりだ。壁の外に従弟、壁の中に従兄。戦うふりだけして、適当なところで和解して、自分たちのいいように事を運ぶつもりなのさ。

スペイン軍将校/ Motley, “United Natherlands”

経緯

かつて父であるファン・デン=ベルフ伯ウィレム四世が、反乱軍として占領したことのあるこのエイセル川一帯で、その長男であるファン・デン=ベルフ伯ヘルマンは、フェリペ二世に忠誠を誓うスペイン軍の将軍としてこの街を守っていました。が、スペイン人たちからすれば、ヘルマンは父子ともどもオランダの反乱軍を裏切ってスペインに投降してからまだ10年と経っておらず、何より、敵方の司令官であるナッサウ伯たちと実の従兄弟同士であるという理由で、信用よりも疑念を持たれている人物でした。

事実、デフェンテルを攻める側のマウリッツも、当初ここを素通りしてクーフォルデンを攻めようとしたり、やっぱりやめて退却しようと言い出してみたり(これは英軍のヴィアー将軍によってたしなめられ思い留まります)、故郷のディレンブルクで一緒に暮らしたこともある従兄相手に戦うことに、やや及び腰のところもあったようです。

ヘルマンはマウリッツの軍隊が川の向かいに展開したことを知ると、1200名の街の守備兵を教会に集めてミサを行い、全員の前でこの街を守りぬくこと、最後まで降伏しないことを宣誓しました。しかし街には物資が不足していて、攻囲が長期に渡れば持ちこたえられないことは明白でした。

なお、デフェンテルもズトフェン同様、1587年に英軍将校のウィリアム・スタンレーの内通によってスペインに売り渡された街です。

戦闘

Het beleg van Deventer (1591) door Prins Maurits - The siege of Deventer in 1591 by Prince Maurice (Bartholomeus Willemsz. Dolendo)

Bartholomeus Willemsz. Dolendo (1600-01) 「デフェンテル攻囲戦 (1592)」 In Wikimedia Commons

デフェンテルの対岸に到着したオランダ軍は、4つに分かれてそれぞれ砦を建設し、北と南の2箇所に浮船で橋をかけました。今回、背後を守る塹壕は整備されませんでした。脱走者から、デフェンテルの城壁の中に物資がなく、兵たちの給与の支払もしばらく行われていないという情報を得ていたためです。マウリッツはヘルマンに書簡で無血開城を提案しましたが、もちろん断固拒否されてしまいました。

それでようやく6月9日から砲撃が開始されました。デフェンテルも昔ながらのレンガの城壁に守られた街なので、3500-4500発ともいわれる砲弾がことごとく命中し壁を崩していきます。兵たちが中に入れるほどの突破口が開いた時点で、川を渡り、城内に攻め込むことになりました。当初、この先陣はオランダ軍の予定でしたが、過去にこの街を売った自国人の不名誉の代償に、とイングランド軍が一番槍を熱望したため、急遽計画が変更になりました。イングランド軍は浮橋を渡って突破口に殺到し、また、オランダ軍も川を泳いでそれに続き、スペイン軍との激しい戦闘になりました。双方百名単位の戦死者と溺死者を出しました。

ヘルマンはその突破口付近で、兵たちの先頭に立って剣を振るっていました。すぐ側にいた彼の副官と近習それぞれ2人が戦死しましたが、彼自身が両目に負傷し、戦闘不能になって運び出されるまで戦い続けていました。

ほかにも、マウリッツの許可を得て、アルバニア人の騎士とオランダ軍騎兵との一騎撃ちもおこなわれています。中世槍試合さながらに、片や拳銃で、片や短剣だけで武装し、騎馬で対峙しました。オランダ騎兵がアルバニア騎兵の手首に傷を与えて銃を落下させ勝者となりましたが、アルバニア騎兵が負けを素直に認めて自分の金鎖を勝者の首に掛けたのを見たマウリッツは、アルバニア騎兵に手当をし、捕虜とはせずその場で保釈したとのことです。

逆に英軍司令官のヴィアーは、スペイン軍内に、エリザベス女王への不敬と暴言を吐いて憚らない同国人を発見し、しばらく捕虜にしていたようです。また、この街に葬られていたズトフェンの裏切り者、ローランド・ヨークの墓を暴いて、その遺体を絞首台に晒しました。 夜になってもオランダ軍の陣からは、我も我もと川向こうの城内に兵が渡り続けました。ひとりウィレム=ローデウェイクの隊だけが、念のため背後の防備のため残っていました。デフェンテルの勇敢な住民たちが浮橋に火をかけようとやって来ましたが、彼の隊の夜回りのおかげで事無きを得ました。そして翌日早朝には、街から和平が申し入れられることになります。

余波


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ズトフェン以上に抵抗したため、降伏条件に期待を持っていなかった市当局でしたが、同じく駐屯兵には名誉の撤退が許され、スペイン兵たちは、フロニンゲン州総督ベルデューゴの駐屯するクーフォルデンへ撤退することができました。マウリッツはここに約3週間留まりましたが、もっとも心を砕いたのは兵に決して掠奪をさせないことでした。ズトフェンでは開城当日に移動をはじめたためそもそも掠奪の暇も無かったので、このデフェンテルが最初のケースとなります。ここでしっかり規律を締めておく必要があったわけです。

ヘルマンはマウリッツの司令官キャンプに招かれ歓待を受けました。ウィレム=ローデウェイクとヘルマンは一緒に育った期間も長く同世代でもありますが、敵味方に分かれて以来の溝は埋まらず、この場でも互いに他人行儀なままでした。その後マウリッツは自分の馬車でヘルマンをその領地のウルフトまで丁重に送り届け、さらに彼の怪我が治るまでの間、自分の侍医を派遣しています。

いったんオランダ軍はここでイングランド軍と分かれ、最北端のデルフゼイル、最南端のフルストと、共和国を縦断する大遠征を行います。さらにその後、再度イングランド軍と合流して、いよいよネイメーヘンでパルマ公と対峙することにもなります。

デフェンテルの街はこの後、市参事会員もすべて改革派の人物が任命され、すぐに近代要塞化の手配が取られることになりました。現在でも、当時の星型砦の跡がきれいに残っています。

リファレンス

  • Motley, “United Natherlands”
  • Markham, “Veres”
  • Firth, “Tracts”
  • Kikkert, “Maurits”
  • Prinsterer, “Archives”