八十年戦争期の魔女裁判

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ジェームズ一世/六世 (1597) “Daemonologie” の挿絵 In Wikimedia Commons

ヨーロッパで中世末期に盛んになった魔女狩りは、いったん宗教改革期 (15世紀末~16世紀前半)にかけて下火になるものの、16世紀後半~17世紀にかけてピークを迎えます。1560-1660年の100年間とするものもあれば、1580-1630年とやや時期をしぼった説もありますが、いずれにしても、八十年戦争 (1568-1648) の時代とは完全に一致する時期にあたります。

この時代の君主で魔女狩りに積極的だったのは、デンマーク国王クリスティアン四世です。クリスティアンと王妃アンを通じて義理の兄弟でもあるイングランド国王ジェームズ一世は、その影響を受け、スコットランド国王時代から自ら魔女裁判で拷問をおこなうほどでした。また、南ネーデルランド執政オーストリア大公アルプレヒト・イザベラ夫妻も魔女狩りを奨励していました。このように、プロテスタント・カトリック双方で魔女狩りは行われており、どちらがどうという宗派的に明確な違いはほとんどありません。魔女は「異端」とみなされたため、ある種の異端審問ともいえますが、裁判において教会が判決まで下すことは稀で、民間裁判のほうが主流でした。

魔女の嫌疑をかけられたのは女性がほとんどで(日本語で「魔女」と訳されるので女性のイメージが強いですが男性も含まれます)、富裕層よりは貧困層が圧倒的に多かったようです。「嫌われ者が真っ先に槍玉に挙げられた」なんてきくとちょっと切ないですね。

三十年戦争を描いたDVD『最後の谷』でも、悪魔信仰や魔女裁判について扱われています。三十年戦争期のドイツ、とくに南ドイツでは、魔女裁判で万単位の犠牲者が出たと試算されています。

オランダ共和国の魔女裁判

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Unknown (1571) アムステルダムの魔女狩り In Wikimedia Commons

八十年戦争時代のネーデルランドは、経済的・軍事的な成功や文化の興隆から「黄金時代」のイメージが強いですが、もちろん影の部分も持っています。1500年前後のヘルデルラントで行われた裁判が最初です。とはいえ、他の地域に比べれば、それほど盛んな地域とはされていません。個人の魔女裁判は数件、ほかに集団裁判が数件ある程度です。「魔女狩り」全体での犠牲者数はざっくり数万人といわれますが、その中でも共和国内ではせいぜい数十名と見積もられているので、パーセンテージとしては相当に低いです。

アメルスフォールト 1591-1595

アメルスフォールトで起こった魔女裁判で、仲間の名の自白を強要したために、ユトレヒトの上位法廷まで持ち込まれて長期化したケース。オランダの場合、無実の証拠が複数あれば、無罪とされることもあったようです。拷問は、無実の証拠が少ない場合にのみ、自白の強要のため課せられました。17人が魔女と認定されています。

また、18歳未満の子供が多く含まれているのも特徴です。アメルスフォールトでも、戦争の影響で、南部からの亡命者や傭兵くずれや寡婦が街に増え、孤児もストリートチルドレン化してきました。レヘントたちは学校や働く場を作ったりしましたが、それでもそこから漏れてしまうような人間を「浄化」する意図もあったものと思われます。さらに悪いことに、アメルスフォールトでは1592年にペストが流行り、1595年には凶作と洪水のダブルパンチに見舞われました。「反乱」時代には支配者やその信奉する宗教がめまぐるしく変わり魔女狩りどころではなかったのが、街が共和国の一員として安定してくると、逆に疫病や天候不順などのちょっとした不安要因が魔女の仕業とされたようです。

1597年、アメルスフォールトに紡績工場とタバコ工場が完成し、雇用の場が増えると、魔女裁判はまったく過去のものとなります。

ブレーデフォールト 1610

ここで魔女であるかどうかの決め手に用いられたのは、いわゆる「水に浮くかどうか」。水に浮いたら魔女とされ、沈んだ者は無罪放免されています。10人が魔女とされましたが、そのほとんどが男性というめずらしいケース。共和国では水によるテストは1593年に禁止されましたが、ここでは未だ判定材料に使われました。

南ネーデルランドの魔女裁判

ルールモント 1613

こちらはネーデルランドでもっとも大規模とされる、ねずみ講式集団裁判。自白の際にどんどんほかの人物の名を言わせ、最終的にネーデルランド最大の64人が魔女とされました。

1613年は、オランダ・スペイン間の十二年休戦条約から4年が経っており、比較的経済的な回復も見込めてきている時期です。アメルスフォールトのような社会不安ではなく、対抗宗教改革の影響が言及されています。十二年休戦条約と時を同じくして、1609年、隣の領邦ユーリヒでは「ユーリヒ=クレーフェ継承戦争」が勃発していました。ユーリヒはルター派だったため、戦争の趨勢如何によってはカトリックのルールモントもその影響を受けざるを得ません。その脅威を魔女に転嫁したというわけです。裁判直後の1614年、クサンテン条約によりユーリヒとベルクはカトリック化されることになり、それを期にルールモントでも魔女裁判は行われなくなります。

個別の魔女裁判

裁判記録から、南ネーデルランドの魔女リストがつくられています。こちらは集団裁判ではなく個別です。アルプレヒト・イザベラ時代の前後にも継続して裁判が行われていたことがわかります。

リファレンス

記事中に挙げた参考URL以外については以下のとおり。

  • Wikipedia (nl) Heksenvervolging in de Nederlanden
  • ウィルソン『オランダ共和国(世界大学選書)』、平凡社、1971年
  • ヨハン・ホイジンガ『レンブラントの世紀―17世紀ネーデルラント文化の概観(歴史学叢書)』、創文社、1968年