オランダの軍制改革

Schilderijenwand Schatkamer Nationaal Militair Museum (NMM)

オランダの軍事博物館(NMM)の一部屋 In Wikimedia Commons

八十年戦争期オランダ共和国の軍制改革は、一般的に「ナッサウ伯マウリッツの軍制改革」として知られ、近代軍隊の先駆けとなったさまざまな改革です。正確には、マウリッツ、ウィレム=ローデウェイク、ヤン七世(ミデルステ)の3人のナッサウ伯が中心となって行われました。

この記事では基本的な骨子のみを挙げ(それでも多少長いです)、詳細については他記事を設けています。記事中の各所リンクを参照ください。

「軍事革命」と「軍制改革」

David Eltis (1998) 『The Military Revolution in Sixteenth-Century Europe』

「軍事革命 Military Revolution」という言葉は、イギリスのスウェーデン史家ロバーツが提唱したのが始まりです。その概念をパーカーが批判的に拡大させました。細かく言いだすときりのない複雑な概念でもありますので、ここでは簡単に触れるのみにします。

  • ロバーツ → 1560-1660年の100年を革命の期間とし、マウリッツとグスタフ二世アドルフの新たな隊形や常備軍の創設を評価しました
  • パーカー → 期間をイタリア式築城術の発達した1500-1800年の300年に拡大し、非ヨーロッパや海戦についても論じました
  • エルティス → さらに十六世紀のみに「革命」の重点をおきました

いずれも、斉射などに代表される火器の「効果的な運用」(「運用」であり「発明」ではありません)を高く評価している点は共通しています。が、「革命」ということばは「突発的」という要素を含むものであり、世紀単位、ましてや300年以上もかかる悠長なものではない、という批判もあります。このような批判に限らず、極端にいえば、研究者によって時代範囲も地理的な範囲も違う、といっても過言ではありません。多くの研究者の論点をまとめた論文集なども、読みきれないほどたくさんあります。いずれにしても、インターナショナルかつ中長期的な概念です。

局地的な場合は「改革」(Reformation)とされ、日本語でも一般的に「軍制改革」と表記されることが多いようなので、このサイトでも「軍制改革」という表現に倣うことにしています。また、「軍制改革」の前に「オランダの」「スウェーデンの」「ナッサウ伯の」等として、できるだけ限定的に用いるようにしました。また、この概念の提唱・議論はいずれも英語のため、原語はオランダ語ではなく英語を付しました。

その他の軍制改革はこちら。

オランダの軍制改革の特徴〔制度〕

1. 「常備軍」の先駆け

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アムステルダム国立博物館の肖像画コレクション。ウィレム=ローデウェイクとマウリッツを含む、オランダ軍制改革黎明期から20年の間に活躍した人物が描かれる。 In Wikimedia Commons

ナッサウ伯マウリッツが常備軍(的なもの)の創設の概念に触れたのは非常に早く、16歳で入学したレイデン大学時代です。直接人文学者リプシウスに師事したことがきっかけとなりました。その後父オランイェ公ウィレムの暗殺を経て、1587年にマウリッツは若干20歳で陸海軍総司令官に任じられますが、当時のオランダ軍は、ほとんどが外国の傭兵で成り立っていました。また、共和国内からの人員の徴募はもっぱら志願制に頼っていました。オランダ人志願兵は、1590年の時点で約10,000人でした。

この寄せ集めの軍隊を、常備軍「的」に機能させたのは、下記の3点の改革によります。

a. 給料の定期的な支払

Enrolling from The Miseries and Misfortunes of War by Jacques Callot

Jacques Callot (1633) 『戦争の惨禍』より「徴募」 In Wikimedia Commons

当時の傭兵の給料は滞るのが普通でした。ので、給料不足を補うため、傭兵軍が街や村を占拠した際には必ずといっていいほど略奪が行われました。とはいえ、街を占領できることはどちらかといえば稀であり、慢性的に傭兵は困窮していました。解雇されてしまえば、傭兵はほぼ野盗と同義の武装集団に過ぎませんでした。

そこで共和国では、戦時はもちろん、戦闘のないときでも傭兵を解雇せず、定期的に給料を支払い続けました。しかも、一般の兵士に「未熟練工よりも高額な給与」を支給します。一般兵は通常の月給でしたが、将校に関しては42日に一度の支払でした。もとは7週に一度だったのが6週に一度になりました。「将校の一ヶ月」と呼ばれます。また、騎兵将校は自前で馬を維持管理しなければならなかったので、給与は歩兵将校の1.2倍程度に割増されます。いずれにしても定期的な給料の支払は、兵力を維持できるだけではなく、不要な略奪の防止にもなりました。「17世紀の通貨価値」も参照ください。

もちろん、オランダが中世以来商業が盛んな「金持ち国家」で、軍隊規模も小型だったため可能だったことでもあり、それでいても、時には軍費がかさみすぎて給料が遅延することもありました。

b. 訓練と命令系統の統一

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Johann Jacob von Wallhausen (1616) 『騎兵教練』 In Wikimedia Commons

通常非戦時には傭兵は解雇されます。しかし、上述のとおりオランダ軍の兵や司令官たちは解雇されることはなく、毎日のように、それぞれ射撃や行進・展開などの訓練を受けていました。冬期などの長期的に軍事行動がないときだけではなく、軍事遠征時の行軍中も訓練は行われます。その訓練に対して給与が支払われていました。訓練は非常に厳しいもので、その隊の中で最も良く出来る者に合わせる方式が採られていました。脱走兵も出たようです。

早くも1591年頃までには訓練のシステムの骨子はできあがっていたようです。ナッサウ伯ヤン七世が1599年頃に作成したスケッチをもとに、1607年には歩兵の教練本『武器教練』(NL: Wapenhandelinghe/ EN: Exercise of Arms)が、画家デ・へインの名で出版され、標準マニュアルとして使用されました。

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Jacob de Gheyn (17th century) 『武器教練』 In Wikimedia Commons 上にドイツ語、下にフランス語で命令文言が記載されています

また、指揮命令系統も統一されました。命令の種類や文言が統一され、命令がよく聞き取れるよう、兵は沈黙を求められました。多国籍軍のためラテン語が基本でしたが、部隊単位(だいたい出身地別)となればその限りではなかったようです。将校は、A4サイズ程度の両面印刷のカンペを4つ折りにして常に携帯していました。そこにはあらゆる命令文言が収められていて、複数言語バージョンが存在していましたが、その内容は共通です。『武器教練』も複数言語で出版され、それぞれのイラストの下に命令文言が各国語で書き添えてあります。軍隊内の言語については「オランダ人とマルチリンガル」も参照ください。

なお、「徴兵制」を伴う正確な意味での「常備軍」の創設は、スウェーデン国王グスタフ二世アドルフの改革まで待たねばなりませんでした。共和国では上記の教練マニュアルの出版のほか、攻囲戦の見学、軍学校の開設など、外国人(対戦国であるスペイン人相手にすら)への軍事技術情報の開示はかなりオープンなものでした。が、「オランダ人」から成る部隊は共和国軍の中でも少数派であり、未だ兵の数を揃えるには傭兵に頼らざるを得ない状態でした。そのため、あらかじめこのオランダ型を取り入れた傭兵隊を雇うのが手っ取り早いとして、普及に積極的だったとも考えられます。

c. 将校のレベル

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ステフィン (1585) 『十進法』表紙 In Wikimedia Commons

マウリッツが、将校に必要な素質として第一に求めたのは、「勇気」でも「力」でも「愛国心」ですらなく、実は「数学」です。実戦で塹壕の設計や弾道の計算に役立つことももちろんですが、行進・展開などの組織運用法を士官同士で共有できたり、短い命令でも的確にその指示に従うことができる能力が求められた、ということです。そのため、旧来の傭兵気質の司令官は淘汰されていき、組織を機械のように動かせる者が重用されていくようになります。また、将校に限っては、プロテスタントであることが必須とされました。(兵士レベルだと、カトリックでも入隊は可能でした)。将校の階級も細かく定められ、身分や出自にかかわらず、在勤年数に伴う昇進も可能になりました。

将校(この場合は連隊長や中隊長など)には試験も課されました。たとえば、

  • X人の歩兵とY人の騎兵1ヶ月にかかる人件費はいくらか
  • X人の歩兵とY人の騎兵を堡塁からキャンプへ移動させるのにかかる時間はどのくらいか

など、彼らは銘々が経営者として割り当てられた予算の中で自分の隊を運営しなければなりませんから、実践的に必須の知識を問います。しかもこの試験は満点でなければなりませんでした。もっとも、常に数字を意識した組織運営をしていれば、彼らにとっては難しくはない試験かもしれません。

Siege works used during the siege of Grol in 1627

J. Blau (1649) フロール攻囲戦の要塞建築 In Wikimedia Commons

例として上に挙げたのは1627年のフロール攻囲戦時の砦の建設図です。攻囲する街の周りを10km以上に渡って塹壕を掘り、要所要所にこのような星型砦を建てていくのですが、どの中隊長にも「つくれ」と一言命じただけで、命令者の意図と寸分違わぬ、しかも、その場所の地形に応じて、砦の種類、大きさ、水濠の深さ、堡塁の高さを調整したものを1日2日でさらりと建設してしまいます。中隊長の知的レベルはそこまで必要とされていました。

また、ヤン七世は司令官(中隊長以上の指揮権者)は以下の3つを守らねばならないとしています。

  • 騎乗すること
  • 隊の前に立たないこと
  • 隊の中に紛れないこと

これは隊の動き全体を常に把握しながら指揮をしなければならない、つまり常に視界を広く持つようにと要求されています。しかし1590年代の黎明期には、連隊長たちやマウリッツ自身までが、若さもあるせいか、先頭に立ったり兵と一緒に戦ったりということがかなり頻繁に行われていました。

2.軍法の制定と規律の強化

Firing squad from The Miseries and Misfortunes of War by Jacques Callot

Jacques Callot (1633) 『戦争の惨禍』より「銃殺刑」 In Wikimedia Commons

マウリッツが陸海軍総司令官になった3年後の1590年には、早くも共和国軍の軍事規約が公布されています。たとえば、

  • 暴言: 3日間水とパンを与えずに独房入り
  • 再度の暴言: 焼けた鉄で舌を突き通し、財産没収及び免職
  • 強姦・不倫・放火・窃盗・暴行・「人間の本性に反する背徳行為」: 死刑
  • 未亡人・産婦・その他の婦人への暴行: 俸給及び通行証なしで免職
  • 指揮官に無断の集会: 絞首刑
  • 佐官の命令なしでの不動産の破壊・焼却: 体刑
  • 敵への金銭要求: 特赦なしで死刑

などなど。結構厳しいものです。実際、1591年と1592年の遠征の際には、住民から帽子やナイフなどを盗んだ兵が、全軍の前で見せしめの絞首刑や銃殺刑になっています。

隊形の改革(下記に詳述します)に伴い、士官の数や種類も増えましたが、士官の任務のひとつには、逃亡兵の射殺というものもありました。傭兵は戦場から逃亡したり、そのまま敵側に寝返ったりすることも多かったのですが、それを許さない絶対服従が課されていました。逆に敵方からの寝返りは、引き続き歓迎されました。訓練および絶対服従と、軍法および信賞必罰は、短期間に烏合の衆を規律の取れた集団にするためには効果的なセットだったといえるでしょう。

3. 専門職部隊の創設と武器規格の統一

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Alain Manesson Mallet (1696) ステフィンの要塞 In Wikimedia Commons

マウリッツは、シモン・ステフィンをはじめとした数学者・測量技師・地質学者などを集め、弾道学・築城法・兵站などを研究させました。新たに砲兵隊や工兵隊が創設され、このような専門教育や訓練を受けるようになりました。1600年には、シモン・ステフィンに工兵部隊のための専門学校も設立させており、戦闘のない冬期に実践的なゼミをおこなっています。

工兵隊は、塹壕や坑道を掘ったり運河に浮橋を設置したりする部隊です。従来はこのような土木作業は現地で住民が雇われるのが通常でした。しかし共和国ではこれを軍人の作業とし、長期戦になる攻城戦においては、工兵隊だけではなく他の一般兵士も、スコップを背負って塹壕堀りをさせられました。従来、工兵や砲兵などの「技術職」は職業軍人とみなされていませんでしたが、一般の兵士(さらに多くの場合に将校)も同じ作業を行うことにより、その重要性が引き上げられたわけです。この土木作業には、1日あたりで特別手当も支給されました。

このような攻囲戦の方法はマウリッツとウィレム=ローデウェイクが先駆者というわけではなく、30年ほど前にスウェーデン国王エリク十四世が既に試みたことがありました。しかし、狂気を理由に弟たちに廃位されたエリク十四世のことなので、その技術的な試みも狂気の沙汰として顧みられなかったようです。これをナッサウ伯たちが知っていたかどうかも不明です。

Early Seventeenth Century Infantry Equipment (Ulderick Balck, 1615)

Ulderick Balck (1615) 初期17世紀の歩兵の装備 In Wikimedia Commons

また、かつての傭兵は、武器などの装備は自前でした。訓練で動きを統一しても、武器がばらばらでは思ったような効果は出ません。そこで共和国では銃や大砲などの規格を統一して生産し(教会が軍需産業の基地になったこともあります)、支給制にしました。同じ武器を使っての訓練を行うので、訓練の精度も上がることになります。また、この規格統一武器の迅速な補給のため、各地に武器庫も設置されました。

ちなみに、武器は統一されましたが、この時代のオランダ軍にはまだ「制服」はありません。色による自軍の識別方法については、「八十年戦争期の軍装」を参照ください。

このような各種改革がおこなわれると、志願兵の徴募・給与等の会計・兵站や補給などをおこなう専門職も必要になってきます。これらは参謀本部として設置されることとなり、将校や事務員を含む参謀職は、1中隊あたり、約1割を占めるようになりました。

オランダの軍制改革の特徴〔戦法〕

1. オランダ式大隊の編成

なんといっても、ナッサウ伯たちが考えたのは「テルシオ」対策です。当時野戦で無敵を誇っていたスペイン軍のテルシオは、最大3000名からなる動く要塞であり、まともにぶつかっては勝ち目はありませんでした。そこでとられた方策が、A.機動性の向上 と B.火力の強化 です。

a. 機動性の向上

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1600年頃のテルシオのモデル In Wikimedia Commons

オランダではテルシオを小型化し、「オランダ式大隊 Dutch Battalion」と呼ばれる隊形を確立しました。厚みのあるテルシオの後ろ半分を取り払って横長に展開した、つまり正方形を2つの横長の長方形に分けた、というとイメージがわきやすいかもしれません。

まず、基本単位を「中隊 Company」としました。150-200名からなります。これを4-6個組み合わせたのが、「オランダ式大隊」です。これをさらに組み合わせて「連隊 Regiment」とします。

この中隊・大隊・連隊の区分は、軍制改革に関する英語ひいてはそこから訳出された日本語によるものです。当時のColonel(連隊長)ランクの人物たち自身が書いたもの(おもに仏語・独語)をみると、Regimentが多用されているのに比して、Battalionは皆無ではないもののあまり見かけません(量を見ていないので割合までは示せませんが)。逆に、タイトルとしてのLiuetenant-Colonel(大隊長または副連隊長)は比較的よく出てくるので、Battalionの文字が出てこないだけで大隊に類するものが存在し、彼らにその単位の指揮をまかせていたものと考えられます。「八十年戦争期のオランダ軍とフランドル方面軍」の「階級とトップコマンド」の項も参照ください。

Tocht van Maurits door Brabant naar Grave, 1602, Lambert Cornelisz., 1603

Lambert Cornelisz. (1603) ブラバントからフラーフェへの進軍(1602) In Wikimedia Commons 縦3列で行軍している様子がわかります。

単位が小さくなったことで、行進時は縦列、戦場で展開するときは横列と、機動性が格段に上がりました。将校の数も増えたので、戦時の状況に応じた細かい指示もできるようになりました。将校への指示は、大抵は上官から書面で行われます。また、「訓練」というと、銃の扱いなど技術的なイメージが強いですが、この行進・展開の全体的な動きにもかなりの時間が割かれています。

b. 火力の強化

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Leonhard Zubler (1608) 『新幾何学機器』 In Wikimedia Commons

野戦では、銃兵の大幅な増員と、野戦砲の導入が特徴です。

槍兵:銃兵の割合は、テルシオでは3:1(16世紀末でも3:2)でした。共和国ではこれを2:3(のちに1:2)と銃兵の割合を多くし、火力を増強しました。テルシオに相対した場合に、正面となる銃兵を増やしたイメージです。また、当時の大砲は基本的には攻城戦用、つまり対城砦用だったのですが、野戦で対人に使えるよう軽量化しました。テルシオは数の脅威ですから、まずは野戦砲の一斉射撃で相手の歩兵人員を削り、その後銃兵の斉射でさらに相手の人数を削る、という戦法です。

攻城戦では、統一規格の大砲のほかに、地雷も多用されました。

大砲での一斉射撃を3回しかけて降伏を要求する、これを繰り返します。早期に降伏すれば降伏条件も良く、攻城戦でも短期決戦の場合は、この方法がとられたと思われます。逆に長期戦の場合に使われたのが塹壕や坑道の削掘と地雷です。この地雷も坑道内で対人に使われることもありましたが、最終目的は城壁の下で爆発させ、籠城している要塞に突破口を開くことでした。

映画『アラトリステ』では、ブレダ攻囲戦(1624-1625)を舞台にこの塹壕と地雷のシーンが描かれています。

ただし、これらの編成の改革も、あくまで防御型ということではテルシオと変わりありません。これをさらに攻撃型に再編成したのがスウェーデンのグスタフ二世アドルフです。

2. 反転行進射撃(カウンターマーチ)

1594 Dutch musketry volley technique

ウィレム=ローデウェイクのマウリッツ宛の手紙(1594) In Wikimedia Commons

オランダの軍制改革の中でも特徴的と言われているのが、この歩兵(火縄銃兵・マスケット銃兵)による反転行進射撃、いわゆるカウンターマーチです。古代ローマで用いられ、火器が登場して後は、織田信長が「長篠の戦い」で最初におこなったと言われていた(日本史ではこれを疑問視しています)、「回れ右前進」による連続射撃(斉射)のことです。

近世ヨーロッパにおけるこの理論は、「1594年にウィレム=ローデウェイクがマウリッツに宛てた手紙の中で触れているのが最初」と従来は紹介されてきていましたが、現在はたくさんの反証が挙げられています。とくに、1594年に先立って出版されている、いずれもスペイン軍将校による2冊の書物では既に斉射についての記載があり、斉射がむしろスペイン側で先に取り入れられていたことをうかがわせています。

  • Martín de Eguiluz, Milicia, Discurso y Regla Militar, 1586 (Madrid 1592)
  • William Garrard, The arte of vvarre Beeing the onely rare booke of myllitarie profession, 1587 (edit. Hitchcock, R. London 1591)

マドリードはまだしも、ロンドンで発行された書籍はオランダでは容易に入手できますから、ウィレム=ローデウェイクの手紙は既存の理論の内容をわかりやすく図示しただけ、と考えた方が自然です。

Cruso

John Cruso(1634)マニュアルより「カラコール」 In Wikimedia Commons

また、騎兵にはこれと同じ戦い方が16世紀中頃には既にありました。「カラコール」(カタツムリの意で「車掛かり」などと訳されます)と呼ばれるもので、ピストルを装備した騎兵によって行われたものです。ただ、当時のピストルは射程が5m程度のうえ命中率も低く、よほど近づかないかぎりまず当たらないばかりか、そこまで近づくということはマスケット銃や長槍の格好の餌食になるため、ほとんど実用性はありませんでした。しかも「戦法」というには、逃げの姿勢が強い戦い方でもありました。1574年の「モーケルヘイデの戦い」(ウィレム沈黙公の弟・ルートヴィヒとハインリヒが戦死した戦い)で用いられたのが、このカラコールが効果のあった戦いの「最後」とされています。

このカラコールとカウンターマーチの最大の違いは、訓練された歩兵によりシステマチックに行われるというところです。そしてカウンターマーチがとくにオランダの軍制改革と紐付けられるのは、「発明」によるものではなく、マニュアル化と訓練の義務化によるものといって良いでしょう。

しかし実際には、オランダにおいてカウンターマーチはほとんど効果的には使われずじまいでした。大半の戦争が攻囲戦であり、そのうえ泥炭地や湿地の多いオランダでは野戦そのものがほとんどありません。八十年戦争期間中の軍制改革導入以降では、互いに対峙する野戦らしい野戦は1600年の「ニーウポールトの戦い」くらいで、その他の野戦は数百人規模の小競り合いの域を出ないものです。カウンターマーチが実践されたというニーウポールトでは、徐々に満潮になる海岸線に沿った砂丘での乱戦だったため、視界や足元の悪さもあり、この反転行進がうまく機能したかどうか疑問は残ります。(実際に参加した将校が、「うまくいった」と報告している例もありますが)。

カウンターマーチの効果が実戦で証明されるには、やはりグスタフ二世アドルフによるブライテンフェルトの戦いを待たねばなりませんでした。

リファレンス

記事中に挙げた参考URL以外については以下のとおり。

  • de Groot,B., Dutch Armies of the 80 Years’ War, 1568-1648 (1): Infantry, Osprey Pub Co, 2017
  • de Groot,B., Dutch Armies of the 80 Years’ War, 1568-1648 (2): Cavalry, Artillery & Engineers, Osprey Pub Co, 2017
  • Parker,G., The Military Revolution, Cambridge University Press, 1996
  • Eltis,D., The Military Revolution of Sixteenth Century Europe, Tauris, 1995
  • Rogers,C.J. (ed.), The Military Revolution Debate, Westview Press, 1995
  • Kikkert, “Maurits”
  • クリステル・ヨルゲンセン他『戦闘技術の歴史<3>近世編』、創元社、2010年
  • ジェフリ・パーカー 『長篠合戦の世界史―ヨーロッパ軍事革命の衝撃 1500-1800年』、同文館出版、1995年
  • 『戦略戦術兵器事典<3>ヨーロッパ近代編』、 学習研究社、1995年
  • マイケル・ハワード『ヨーロッパ史における戦争』、中公文庫、2010年
  • ヴェルナー・ゾンバルト『戦争と資本主義』、講談社学術文庫、2010年
  • リチャード・ブレジンスキー『グスタヴ・アドルフの歩兵/グスタヴ・アドルフの騎兵』、新紀元社、2001年
  • ウェッジウッド『ドイツ三十年戦争』、刀水書房、2003年