軍用望遠鏡 事始め

Emblemata 1624

Adriaen van de Venne (1624) “Emblemata of zinne-werck” In Wikimedia Commons

実は、軍用望遠鏡の発明もオランダが最初です。「発明」というと語弊があるので、「実用」といったほうがいいのかもしれません。1608年、ハンス・リッペルハイとヤーコプ・メチウスという2人の科学者が、連邦議会に望遠鏡「遠方を見ることのできる管 buyse waarmede men verre kan sien」の特許申請をしました。

リッペルハイの特許申請書 (1608) In Wikimedia Commons 左上には1608/10/2の日付、その下には署名が見て取れます。

  • ハンス・リッペルハイ ……ドイツ生まれ、ミデルブルフ在住。レンズ職人。特許申請は1608/9/25。「リッペルスハイ」とも表記される(ここでは『オランダ科学史』の表記に倣い「リッペルハイ」としました)。
  • ヤーコプ・アドリアンスゾーン=メチウス ……アルクマール在住。フラネケル大学教授。兄で地理学者・天文学者のアドリアーンはフラネケル大学学長。特許申請は1608/10/14。

Lipperhey portrait

After Hendrik Berkman (1655) リッペルハイの肖像 In Wikimedia Commons

ほぼ同時の申請だったため、最終的に両者に特許はおりませんでしたが、リッペルハイは特許申請時、ゼーラント議会に対してオランダ軍総司令官であるナッサウ伯マウリッツへの根回しを依頼しており、申請の5日後の9月30日に、早速マウリッツに対して自分の望遠鏡のプレゼンをおこなっています。このとき、ハーグのマウリッツの部屋から、デルフトの教会の時計の文字盤とレイデンの教会の窓が見えたとのこと。(参考まで、ハーグからデルフトとレイデンまでは、それぞれ直線距離で10km弱・15km強です)。このデモンストレーションは成功し、リッペルハイはその場で軍用の望遠鏡を受注することになりました。

このようにリッペルハイが経済的に成功した一方、メチウスは二度と自分の発明を他人に見せなくなってしまい、自分の発明した望遠鏡は死後破壊するようにとの遺言まで残しました。

Zacharias

After Hendrik Berkman (1655) ヤンセンの肖像 In Wikimedia Commons

そもそもこの望遠鏡の元ネタとなる顕微鏡の発明は、リッペルハイと斜向かいに住む同業者・父ハンスと息子サハリアス(ザハリアス)のヤンセン父子によるものです。望遠鏡も実は1590年ごろ既にイタリアで存在していたらしく、このサハリアス・ヤンセンが1604年には試作もしていたようですが、1608年9月にヤンセンがフランクフルトの秋のメッセ(当時からあったんですね!)に行っている隙にリッペルハイが特許申請してしまいました。ヤンセンはこのメッセで望遠鏡を展示販売していたのですが、購入を検討したあるドイツ貴族は、レンズに小さなヒビが入っていたことを理由に購入を控えたそうです。リッペルハイは上に述べたように、特許申請と同時に軍司令官への売り込みまで周到におこなっており、彼の成功は行動力の勝利ともいえましょう。20年ほどのち、サハリアスの息子のヨハネスがリッペルハイによる父親のアイデアの盗用を申し出ており、現代では、最初の発明者はヤンセンとされているようです。

ところでこの時期ちょうどハーグには、十二年休戦条約の使節として、スペイン軍のフランドル方面軍総司令官、セスト侯アンブロジオ・スピノラ将軍が滞在していました。マウリッツはこのプレゼンに、弟のナッサウ伯フレデリク=ヘンドリクだけではなく、交戦国の親玉ともいうべきスピノラも同席させています。「帆かけ戦車」実験のときもそうですが、現代の軍事機密の考え方からすると、ものすごい気前の良さです。というよりも一説には、マウリッツは自身も自然科学には造詣が深かったため、この単純なつくりを理解して、いずれ普及も大量生産もすぐであろうと判断したということのようです。また、休戦交渉が暗礁に乗り上げたため、ちょうどこの9月30日にスピノラはブリュッセルへ帰ることになっていたので、最後の餞別の意味もあったのかもしれません。

「こんなものをお持ちでは、私の身はもう安全ではありませんね。どんな遠くにいても発見されてしまう」

と驚いたスピノラに対し、フレデリク=ヘンドリクは、

「ご安心を。将軍のことは撃たないよう、兵たちには周知徹底しておきますから」

と笑って答えたそうです。このデモンストレーションのあと、マウリッツとフレデリク=ヘンドリクは港までスピノラを見送りにいっています。(…しかしお互い緊張感ないというか、休戦交渉決裂の当事者同士とは思えないというか…)。

Jan il Vecchio Bruegel Landscape with the Chateau de Mariemont

Jan Brueghel the Elder (1608-11) マリーモン城の風景 In Wikimedia Commons

10月、ブリュッセルに戻ったスピノラは、南ネーデルランド執政の大公アルプレヒトとイザベラ夫妻に、早速この話を報告しました。このまま停戦交渉が流れてしまった場合、オランダ側が軍事的にかなり有利になる器具を手にしたことになるからです。マウリッツが持っていたものよりは若干性能が劣っていたようですが、スピノラもブリュッセルで望遠鏡をいくつか試作させ、翌1609年2月にはアルプレヒトもこのプロトタイプを所有することになりました。上に挙げたブリューゲルの絵画は、絵画に望遠鏡の描かれた最古のものとされています。左下で望遠鏡を覗いているのはアルプレヒト大公その人です。

Jan Brueghel (I), Hendrick van Balen (I) and Gerard Seghers - Allegory of Sight and Smell

Jan Brueghel the Elder (1620) In Wikimedia Commons 同じくブリューゲルの「視覚と嗅覚」。ここにも視覚の寓意として望遠鏡が描かれています。

また、このときブリュッセルには教皇パウロ五世の特使が滞在していましたが、彼がたまたま技術に明るい人物で、バチカンに宛てて詳細な手紙を書きました。イタリア方面への伝播は、いずれのルートでも、このようにスピノラが起点となったようです。

ちなみに、1609年5月にガリレオ・ガリレイが初めて天体観測をした、というのはとても有名な話ですが、ガリレオはこの特許申請にまつわる噂を知って望遠鏡の自作を試みました。さらに半年間でこの望遠鏡を20倍のものにアップグレードしたとのことなので、原理自体はやはり簡単なものなのでしょう。ロマン主義時代には、ガリレオが望遠鏡のプレゼンをしている絵画がたくさん描かれています。

Galileo Donato

H. J. Detouche (1754) ガリレオの望遠鏡デモンストレーション In Wikimedia Commons

一方オランダでは、連邦議会の議員たちが自分たちもこの発明品を見たいと要請したため、10月2日に二度めのデモンストレーションが行われました。特許に値するかどうかの判断のためです。冒頭の申請書類の日付はこの日になります。マウリッツは「敵の企みが一目瞭然の器具」というメモをつけて望遠鏡を議会に送りました。(が、既にそれを「敵」のスピノラが知っていることについては明記しなかったようです)。特許については保留となりましたが、リッペルハイにはとりあえず製作コストとして300ギルダー支払われることになり、議会によって「両目バージョン」(双眼鏡)開発のリクエストがされました。さらなる報酬600ギルダーは、この双眼鏡の納品時と、先に受注した望遠鏡の納品時に、二度に分けて支払われることが約束されました。

ところでここに同席していたフランス大使のジャナンは、すぐに国王アンリ四世に手紙を書き、駐蘭フランス軍の「セダン出身の兵士」に持たせました。セダンはマウリッツの義弟ブイヨン公の領地ですから、オランダとの交流もとくに盛んだったと思われます。翌月の11月には、早くもリッペルハイの作った2本の望遠鏡がアンリ四世に献上され、1609年4月にはフランスの業者が市販も始めました。イタリアへは、この市販品をフランス人が持ち込んだ、という説もあります。

このように、1609年半ばまでには全ヨーロッパに望遠鏡が伝わりました。しかし当のオランダにとっては、1609年4月の十二年休戦条約のタイミングと重なり、即座に軍事行動で活用されたわけではありませんでした。だからこそ、天文観測分野での発達が先に立ったのかもしれません。

Wallenstein bei seinem Astrologen Seni (19 Jh)

Unknown (19th century) ヴァレンシュタインと占星術師 In Wikimedia Commons

なお、リッペルハイは年内に無事に双眼鏡も納品し(試作品の1本とその後2本)、残金のすべてを得ることができました。双眼鏡に関してはこれが世界初のようですが、19世紀のオペラグラスの普及まで望遠鏡ほど発達しなかったようです。

2011年は「イタリア建国150周年」。ガリレオと望遠鏡の特番がいくつも組まれていました。もっとも、ガリレオ「前」については全く触れられなかったのですが…。

2013年は「日英交流400年」。ジェームズ一世の命を受けたジョン・セーリスが徳川家康に望遠鏡を贈りました。リッペルハイの特許申請からわずか4年で、日本にまで望遠鏡が伝来していたことになります。この返礼に徳川秀忠からは鎧が、家康からは金屏風がジェームズ一世に贈られました。このときの望遠鏡のレプリカがイギリスでつくられ、日本に寄贈されました。英国大使館が所蔵し、2013-2015年、静岡市および、「ANJINプロジェクト」4市(伊東市、平戸市、臼杵市、横須賀市)の計5市で巡回展示されました。
英国と日本の交流400年を祝う GOV.UK 2013/6/13
徳川家康に英国王贈る 望遠鏡複製を平戸で展示 読売新聞 2014/11/6

リファレンス

記事中に挙げた参考URL以外については以下のとおり。

  • Watson,F., Stargazer: The Life and Times of the Telescope, Da Capo Press, 2006
  • Reeves,E., Galileo’s Glassworks, Harvard University Press, 2008
  • Dunn,R., The Telescope: A Short History, Natl Maritime Museum, 2009