シモン・ステフィンの「帆かけ戦車」

Simon Stevins zeilwagen voor Prins Maurits 1649

Attributed to Jacques de Gheyn (1649) 「帆かけ戦車」 In Wikimedia Commons

  • 設計: シモン・ステフィン
  • 依頼者: ナッサウ伯マウリッツ
  • 実験場所: ハーグ近郊・スヘーフェニンゲンの海岸
  • 実験時期: 諸説あり(※後述)1600/1601/1602
  • 実験台数: 2台(大小各1台)
  • 定員: 大・28名
  • 時速: 35-50km/h(※後述)

2018年3月18日『ザ!鉄腕!DASH!!』で帆掛け戦車っぽいもの放送してました。

放送内容DASH ご当地PR課 ~長崎県壱岐市 風の力だけで壱岐の島 走れるか!?~

試運転と用途

シモン・ステフィンが設計した帆かけ戦車。「戦車」と訳されますが、もともとは、オランダ軍の輜重用に開発を依頼されたものです。天気の良い風の強い日、大小各1台ずつのプロトタイプを出して、海岸で試運転が行われました。

具体的にわかっている参加者は、

  • シモン・ステフィン
  • ナッサウ伯マウリッツ
  • ナッサウ伯フレデリク=ヘンドリク
  • グロティウス …当時二十歳前後
  • アンリ・ド・コリニー …フレデリク=ヘンドリクの母方の従兄
  • アラゴン提督メンドーサ …ニーウポールトで捕虜になったスペインの将軍
  • シュレースヴィヒ=ホルスタイン公ヨハン … デンマーク王クリスティアン四世王弟
  • ほか、外国の要人(大使等)

などなど。総勢28名が帆かけ戦車に乗り、約2時間の試運転を行いました。隣に弟のフレデリク=ヘンドリクを乗せて、マウリッツ自身が舵を取ったとのこと。(海に向かってチキンレース、みたいなアトラクション的なこともやったようです)。参加者は大いに楽しんだとありますから、実験との名目ですが、ほとんど外国人の接待とエンターテインメント目的ですね。若いグロティウスも、興奮した様子でこのときのことを書き残しています。

高位高官の捕虜や人質はかなり丁重に扱われたとはいえ、何より敵国スペインのメンドーサ提督を参加させた意図が面白いです。この頃、軍事機密という概念がなかったわけではないのですが、当時のオランダ軍は、戦争を外国人に見学させたり、このように軍事的なイベントに招待したり、挙句に教練書を公刊したり、相当に気前が良い(?)です。上記の絵だけで単純に判断はできませんが、黒服(カルヴァン派)と色物を着ている参加者の割合も半々くらいな気がします。

当時並行して行われていた(または予定段階だった)オーステンデ攻囲戦の補給用に開発が急がれたと思いますが、実際に本来の目的で使われたかどうかはわかりません。いずれにしても、3年の長期に渡るオーステンデの攻囲戦は、オランダ・スペイン双方にとって技術革新の実験場であったともいわれています。帆かけ戦車の実験はこのとき一度しか行われなかったとする説もあれば、この後、輜重用ではなく、試運転時同様に外国人の接待に使われ続けたという説があるようです。こんな面白いものに一度でも乗った人は本国で自慢しそうですから、需要はありそうに思われます。

Machines for the Siege of Ostend developed by Pompeo Targone and G Gamurini

P. Giustiniano (1609) 「オーステンデ用」のあやしい機器いろいろ In Wikimedia Commons

原理は、陸上を走るヨットのようなものです。というよりそのものです(日本語でもランド・ヨットといいます)。動力は風のみ。風のある日だったので、この日の実験は大成功でした。が、「風のない日はどうやって動くんだ」とのマウリッツの問いに、ステフィンは「それはそれでまた考えます」となんとも暢気な回答を返しています。

ところでこの帆かけ戦車、オランダの軍制改革ネタでは必ずといっていいほど取り上げられていますが、シモン・ステフィンについて書かれたものをみると、軽く触れる程度か、まったく書かれていないものもあります。確かに、ステフィンのほかの功績に比べれば、明らかにどうでもいい部類のような…。

実験日についての考察

Esaias van de Velde (circle) Course de chars Scheveningen 1608

Circle of Esaias van de Velde (1608) 「帆かけ戦車」 In Wikimedia Commons

実は、参加者や実験時間などの具体的な数字が残っているにもかかわらず、実験の日にちが明記されている資料は探せていません。日にちどころか年単位で、1600年・1601年・1602年と、資料によって3種類の年号が存在しています。季節もわかりません。春とか冬とかいう説もありますが、絵を何枚も見てみるとけっこう軽装(半袖らしきのも居ます)が多いので、断言はできません。

個人的には1600年末説が有望と考えています。参加者にメンドーサ提督の名があるためですが、彼が捕虜としてハーグに逗留したのは、ニーウポールトの戦い(7月末以降ハーグ帰還)から捕虜交換で解放された1601年1月までの間と半年弱です。この場合、オーステンデの攻囲戦が1601年7月4日から、スペインによる攻囲戦の計画自体も1601年に入ってからですから、仮に「オーステンデ用に開発」という動機と合わせたとすると1601年1月とかなりピンポイントな時期で、開発期間も1~2週間と相当な短期間ということになり、やや無理がある気がします。

オランダ史関係の文献では1601年と書かれているものが多く、逆に博物館の所蔵品説明文などには1602年と書かれているものが多いです。

また、アンリ・ド・コリニーが参加したのが確実であれば、彼は1601年9月10日にオーステンデで戦死しているので、それ以前ということになり、1600年~1601年という説の補完になります。

1602年説は、右手前に描かれている女性をマウリッツの愛人マルガレータ・ファン・メヘレンとしており、その周りにいる子供が2人なので、1602年と考えているようです。(マウリッツの私生児は1601年と1602年に産まれています)。確かに、リンク先に挙げた絵も含め、多くの絵に女性と子供2人が描かれています。ただ、仮にそうだとしても、絵に描かれたように自力で立って歩ける年齢ではありません。

いずれも確実な説ではないため、もうちょっと検証が必要です。もっとも、実験や接待自体が複数回であれば、複数の実施日が並び立つ可能性も大いにあります。

時速についての考察

Album amicorum of Michael van Meer 004

Michael van Meer (1613-1648) 「帆かけ戦車」 In Wikimedia Commons

ステフィンがマウリッツに説明したところによると、「馬で14時間かかるところを、最速で2時間で走ります」。これも資料によって、記載されている推定時速に幅がありますが、馬の時速から独自に考えてみました。

サラブレッドのトップスピードは、約60km/h。しかしこれは、近代以降、「競馬というスピード競技用に改良されてきた品種の馬が、最大3km程度の距離のレースで、瞬間的に全力疾走したとき」の時速です。戦国時代の侍が乗っていた乗用馬は、最大30km/hほど出たといいます。しかしこれも明らかに長距離での時速とは考えられません。そもそも、帆かけ戦車自体が輜重用なわけですから、ステフィンの言った「馬で14時間」というのは、荷馬車の馬の時速のことと考えられます。そうすると時速はぐっと下がって、速くても6-7km/hなので、

  • 6.5km/h × 14時間 = 91km
  • 91km ÷ 2時間 = 45.5km/h

となり、35-50km/hとある記述とほぼ一致します。だいたい現代の自動車と同じくらいのイメージですね。これでオープンエアなわけですから、グロティウスが「風のように速い」と形容するのもうなづけます。というか、「荷物を積む」という当初の目的からすると、荷物が飛散してしまう危険性すらある速さかもしれません。

フローラの「帆かけ戦車」

Hendrik Gerritsz. Pot 001

Hendrik Gerritsz. Pot (1640) フローラの「帆かけ戦車」 In Wikimedia Commons

「チューリップ狂」時代には、風刺画の題材にも使われています。ということは、やはり頻繁に海岸にお目見えしていたのでしょうか。その場合でも、ここに乗っているのはやはり人なので、あまり貨物用には使われなかったのかもしれません。

リファレンス

  • クラース・ファン・ベルケル(塚原東吾 訳)『オランダ科学史』朝倉書店、2000年
  • アムステルダム国立博物館 De zeilwagen van Simon Stevin (middenplaat), 1602
  • Devreese, J.T., Magic is No Magic, Wit Press, 2007