ワルンスフェルトの戦い/ズトフェン攻囲戦(1586) Slag bij Warnsveld / Beleg van Zutphen

Zutphen 1586

Unkown (1586-1596) 「ズトフェン攻囲戦 (1586)」 In Wikimedia Commons

ワルンスフェルトの戦い/ズトフェン攻囲戦(1586) Warnsveld / Zutphen 1586/9-10(9/22)
対戦国

flag_en.gif イングランド
flag_nl.gif オランダ

flag_es.gif スペイン
勝 敗 ×
参加者 ウィロビー・デ・アーズビー男爵ペレグリン・バーティー
レスター伯ロバート・ダドリー
エセックス伯ロバート・デヴァルー
シドニー卿兄弟(フィリップ、ロバート)
ノリス卿ジョン
ラッセル卿ウィリアム
ペラム卿ウィリアム
スタンレー卿兄弟(エドワード、ウィリアム)
ロジャー・ウィリアムス
ホーエンローエ=ノイエンシュタイン伯フィリップ
フランシスコ・ベルデューゴ
パルマ公アレサンドロ・ファルネーゼ
フアン・デル=アギーラ
デル=バスト侯アルフォンソ=フェリクス
フアン=バプティスタ・デ・タシス

2年前のホーエンローエ伯の失敗に続き、ズトフェンは再度レスター伯によって攻囲された。しかしパルマ公に隙はなく、即座にズトフェン救援策が採られる。イングランドの騎士たちを揃えた反乱軍は、霧深い夜、スペインの援軍と正面衝突する。その結果は、もはや騎士道ではスペインの精鋭にまったく歯が立たないことを証明することにしかならなかった。

彼の命が買い戻せるなら、百万の財宝だろうと惜しまぬものを。

イングランド女王エリザベス一世/ Motley, “United Natherlands”

経緯

Beleg van Zutphen door Leicester, 1586 Affconterfeijtinge der stadt van Zutphen, Soe sijn Exelentie de belegert heft, met alle de Schansen, Loopgravens ende Vloegels, soe de, tegen de stadt, over op de Isell leggen, Oec, RP-P-OB-80.041

Joannes van Doetechum (I) (1586) 「ズトフェン攻囲戦 (1586)」 In Wikimedia Commons

ライン川沿いのラインベルク攻囲をはじめたパルマ公の隙をつくかたちで、レスター伯はイングランド軍6000を含む17000の大軍でズトフェンの攻囲を計画しました。表に挙げたとおり、レスター伯以下、名のある多くのイングランド騎士たちがこの戦いに義勇軍として参加しています。ズトフェンはエイセル川沿いの要衝でしたが、その中世の城壁内部の旧市街は狭く、3週間分の糧食と物資しか蓄えがありませんでした。その事情を知るパルマ公は、即座に配下のベルデューゴ将軍とデ・タシス将軍に、ズトフェンへの物資の補給と、その護衛兼援軍を命じます。

9月22日、霧の深い夜に、補給隊はズトフェン近郊のワルンスフェルトに到着しました。デ・タシスはワルンスフェルトでいったん夜を明かすことにし、ワルンスフェルトの守備隊に到着を告げました。その時の合図の音(トランペットやドラムと思われます)によって反乱軍はスペイン軍の到着を知ります。攻囲軍を残し、イングランド軍を中心とした数百名の別働隊は、急いで戦いの準備をしてワルンスフェルトへ向かいました。が、霧のために互いの位置がよく見えない状況で、思いがけず早くに到着したこの別働隊は、突如スペイン軍の輜重隊と鉢合わせします。デル=バスト侯は騎兵隊を率いて輜重隊の救援に向かい、スタンレー卿の隊と相対しました。

戦闘

Battle of Zutphen 1586

A. Cooper / H. Quilly (1820-1897) ワルンスフェルトの戦いのラッセル卿ウィリアム(歴史画) In Wikimedia Commons 短剣を駆使して1人で6人を相手にしたと言われ、「人外の悪魔」と渾名されました。

ここで血気に逸ったエセックス伯が、突如「貴卿らも続け!」と叫んで突撃し、戦闘が始まりました。両軍互いにほとんど唐突に始まった衝突のため、戦闘は血みどろのものになりました。ところがパルマ公が差し向けていたのは単なる護衛隊ではなくスペイン軍の中でも主力で、しかも反乱軍の1.5倍は居ようというさらなる大軍でした。

やがて霧の中で反乱軍は方向感覚を見失い、混乱に陥ります。条件はスペイン側も同じではありますが、スペイン軍には「パルマ公の九年」の間にこの地域で展開してきた土地勘があり、古参の兵たちも多く抱えていました。反して、特にイングランド軍は、宗教的情熱とやや時代がかった騎士道精神のもと、戦闘経験の少ないままレスター伯に従ってきた貴族の子弟が多く、後にナッサウ伯マウリッツも批判したように、闇雲に突進するだけの騎兵で構成されていました。

「騎士の最後の舞台」と言われることもあるように、イングランド側の将校たちは単に指揮をするだけではなく、一兵卒同様に自ら剣を取り進んで激戦の中に身を投じました。剣だけではなく斧や槍をも駆使し、鎧を脱ぎ捨て軽装で戦い、倒れた馬を何度も乗り換えては突撃を繰り返します。スペインの側も、イタリア連隊やアルバニア連隊は総司令官の号令も待たずに、やはり将軍自らが先頭に立って戦い、イングランド騎士との一騎打ちも各所で見られました。スペイン軍の将軍ハンニバル・ゴンザーガが戦死、デル=バスト侯も危うく命を落とすところでした。

フィリップ・シドニーの死

The death of sidney by BARTOLOZZI, FRANCESCO - GMII

Bartolozzi (1788) 瀕死の兵士に水筒を譲るフィリップ・シドニー(歴史画) In Wikimedia Commons 

レスター伯の甥でもあり有名な詩人でもあるフィリップ・シドニーは、敵キャンプの手前まで来たところで腿に銃撃を受けました。骨が完全に砕けるほどの重傷ながらフィリップはそのまま戦場に留まろうとしますが、周囲の者たちがなんとか彼を戦場から遠ざけ、自軍キャンプまで連れてきます。そこで水筒を差し出されたフィリップが自分よりも重傷の別の兵士を指差して、「私よりも彼のほうが必要だ」と語ったというエピソードは、イングランド騎士道を体現したとして、長く騎士道精神の手本として伝えられています。伯父レスター伯、ラッセル卿、ペラム卿らが次々と駆けつけて嘆くので、フィリップのほうがむしろ彼らをなぐさめていました。

フィリップを含む負傷者をアルンヘムに運ぶため、戦いは終結しました。スペイン側にはベルデューゴの本隊も駆けつけて、多勢に無勢のイングランド軍は退却を強いられます。アルンヘムで、レスター伯の侍医はフィリップの容体には希望が持てると診たてましたが、フィリップ自身はもう助からないと理解しており、ホーエンローエ伯が送ってよこした優秀な外科医アドリアーンも致命傷であると診断しました。

ホーエンローエ伯もワルンスフェルトの戦いの数日後、ズトフェン攻囲戦中に顔に大怪我をしていましたが、フィリップのために自分の外科医を送ってきていました。しかしホーエンローエにも壊疽が発生したため、同じくアルンヘムに送られ、2人でアドリアーンの治療を受けたそうです。

死期を悟ったフィリップの最期の様子は、その理想同様に騎士的なものだったと言われています。訪ねてくる友人たちには苦痛を見せずに相対し、古典を語り、音楽を楽しみ、指輪などを形見分けとして渡しました。最後は弟のロバートを枕元に呼び、従容として亡くなったそうです。

余波

Vergeefs beleg zutphen 1586

Reckleben / Jan Frederik Christiaan (1878-1883) ワルンスフェルトの戦いのスタンレー卿エドワード(歴史画) In Wikimedia Commons 

反乱軍は退却し、ズトフェンの攻囲そのものは続けられたものの、ズトフェン城内へのスペイン軍からの補給は成功したため、長期化の様相を呈してきました。また、この野戦での大敗がもとで、レスター伯の指揮能力にも疑問が持たれます。いったん10月に冬営のため攻囲は解かれ、街の周囲に築かれた砦に守備隊が残されました。そして翌1587年1月、ウィリアム・スタンレーとローランド・ヨークの2人のイングランド将校はレスター伯を見限って、敵方のデ・タシス将軍にこれら攻囲砦を売り渡し、自分たちもスペイン軍に転向します。これはズトフェンだけではなく、デフェンテルの街でもスペイン軍の防備が増強されたということを意味しました。

この出来事は、オランダにおけるイングランド軍の評判を地に落としました。レスター伯の不人気にも拍車をかけ、同1月に連邦議会は19歳のマウリッツを陸海軍長官に任命します。逆にイングランドの義勇兵たちの側でも、身内から出た裏切者への憎悪はオランダ人以上のものとなりました。

この後ズトフェンとデフェンテルは5年間スペインの側に留まりました。そして1591年、マウリッツの1591年遠征の最初のターゲットとなってオランダに奪還されることになります。

その後のズトフェンについてはこちら。

リファレンス

  • Motley, “United Natherlands”
  • Markham, “Veres”