アクセル占領(1586) Inname van Axel

Siege of Axel 1586

Unknown (1615) 「アクセル攻囲戦 (1586)」 In Wikimedia Commons

アクセル占領 Axel 1586/7/16-17
対戦国

flag_nl.gif オランダ
flag_en.gif イングランド

flag_es.gif スペイン
勝 敗 ×
参加者 ナッサウ伯マウリッツ
フィリップ・シドニー卿
フランシス・ヴィアー
ウィロビー男爵ペレグリン=バーティ
(ドイツ人守備隊)

のちに当代きっての軍略家と謳われる人物の初陣としては、華々しさには欠けるかもしれない。しかし、蛮勇から頭脳戦へのシフトの萌芽は既に見て取れる。名よりも実をとった提案に、その年齢だけを見て「乳飲み子」と揶揄した者も多い中、フィリップ・シドニーは面白がって作戦に同意した。

フラーフェ陥落直後のこの勝利はまさに時宜を得ていた。これで我々はわずかだが顔を上げることができる。

トマス・セシル卿/ Motley, “United Natherlands”

経緯

1585年8月、イングランドとの「ノンサッチ条約」により、レスター伯がオランダに派遣されてきました。レスター伯は反乱軍の総司令官も兼ねますが、その指揮能力には大きな疑問がありました。早くもその3ヵ月後、ホラント議会とゼーラント議会は、法律顧問オルデンバルネフェルトの支持も得て、亡きオランイェ公ウィレム一世の次男ナッサウ伯マウリッツをスタットハウダーに任命します。 まだ十代ではありましたが、リプシウスに直接教えを受けたマウリッツの軍事的才能については、オルデンバルネフェルトをはじめとした何人かは既に気づいていました。1585年以降、マウリッツも戦場に同行するようになりますが、当初から、突撃ばかりして無駄に損失を出しているとして、イングランド兵の「騎士的」な戦法に疑問を抱いていたようです。

このアクセル占領は、マウリッツが初めて自ら提案し、主導した戦いに数えられています。総指令であるレスター伯はこのとき東部のフラーフェの作戦に従事していて、マウリッツはその間、レスターの許可を得たうえで別働隊の指揮を執ったというわけです。実際には、レスター伯の甥でもあるフィリップ・シドニーとの共同指揮でした。また、後の英軍総司令官フランシス・ヴィアーも参加しており、ヴィアーにとっては低地地方での2回めの戦いでもありました。

戦闘

Axel (Atlas van Loon)

Joan Blaeu (1649) “Atlas van Loon” アクセル In Wikimedia Commons

夜間にスヘルデ河口南岸のテルヌーゼンに上陸したイングランド軍は、ここでオランダ軍と合流して3000となり、南下してアクセルを目指します。この付近は頻繁に洪水が起こっていて、このときも道は泥にまみれていました。しかし、スペイン軍の援軍を妨げるとして、これは逆に好機ととられます。さらにマウリッツはシドニーに、夜が明けてからの正面突破ではなくこのまま真夜中の奇襲を提案します。

1586年当時のアクセルの街は昔ながらの中世の城壁の残る街です。提案は実行に移され、まずはヤン・ピロンという中隊長率いる40名の先遣隊が、木のはしごを担いで泥の中を泳ぐように進み、はしごをかけて壁をよじ登って中から城門を開けます。マウリッツ自身が10個小隊を率いてそれに続き、その後ウィロビー男爵の軍、最後にシドニー軍が街になだれこみました。シドニーの号令のもと、敵襲に飛び起きた守備隊との戦闘となりましたが、多くの守備兵たちは就寝中に命を奪われています。そして午前2時、ほぼ全員の守備兵を倒し、街は制圧されました。

余波

Escalade-battle-2

Matthias Quad (1622-1626) ジュネーヴの「エスカラード (1602)」 In Wikimedia Commons 梯子作戦といえばサヴォイア侯によるジュネーヴ攻めが有名です…もっともこちらは失敗ですが…

ちょうどこの奇襲をはさんで、レスター軍本体のほうはフラーフェ攻囲とフェンロー攻囲に失敗したということもあり、アクセルの成功は明るいニュースとなりました。味方に1人の犠牲者も出ていないことも大きかったでしょう。

このときマウリッツと一緒に戦ったイングランド貴族のうち、フィリップ・シドニーはこの2ヶ月後のワルンスフェルトの戦いで命を落としてしまいます。反して、この時点では一介の志願兵に過ぎなかったフランシス・ヴィアーは、マウリッツと数々の遠征を15年以上も共にする、最も頼りになる友軍の司令官となります。

ところでこの戦いから4年後の「ブレダの泥炭船」でマウリッツは一躍名を挙げることになりますが、このアクセルの占領のように奇襲も頻繁におこなわれる方法で、ブレダの占領が(もちろん「泥炭船」というオランダらしいツールを除けば)特にものめずらしいというものではありません。

アクセルの街はこの後マウリッツによって要塞化され、近代要塞に生まれ変わります。1596年には「洪水線」のうちでも初期のもののひとつ「アクセル洪水線(第一期)」も建設されました。(ただし第一期の洪水線は5年ほどですぐに放棄され、現存しているのは1700年頃にクーフォルデン男爵によって再整備された第二期のものです)。スヘルデ河口以南の北フランドル地方としては、最終的にこのアクセル、スライス、サス=ファン=ヘント、フルストが、1648年のミュンスター条約でオランダ共和国の手にするところとなり、これは現在のオランダ/ベルギー国境ともほぼ一致しています。とくに後者2都市が、何度かの攻防を経て1640年代になってようやく入手に至ったことを考えると、アクセルはごく初期から一度も敵の手に渡らず北フランドルの要地であり続けた稀有な街であるともいえます。

Zicht op fort, onderdeel van de Staats-Spaanse linies uit de Tachtigjarige Oorlog, met de ligging in het landschap,--Archeoregio 14, AMK-terrein 67H-006 - Axel - 20425791 - RCE

現存するアクセル洪水線の砦跡 In Wikimedia Commons

リファレンス

  • Motley, “United Natherlands”
  • Markham, “Veres”