ヘイリヘルレーの戦い/イェムグムの戦い(1568) Slag bij Heiligerlee / Slag bij Jemgum

Monument Battle of Heiligerlee

ヘイリヘルレーの戦いとナッサウ伯アドルフのモニュメント In Wikimedia Commons

ヘイリヘルレーの戦い/イェムグムの戦い Heiligerlee / Jemgum 1568/5/23, 7/21
対戦国 flag_es.gif反乱軍 flag_es.gif スペイン
勝 敗 ○/× ×/○
参加者 ナッサウ伯ルートヴィヒ
ナッサウ伯アドルフ
アレンベルフ伯ジャン・ド・リーニュ
ヨハン・デ・メスヘ


カスパル・デ・ロブレス
アルバ公フェルナンド・アルバレス・デ・トレド

「八十年戦争」の用語は、後の世の人々によって、ミュンスター条約から逆算され名づけられたに過ぎない。1年前に帰郷し武力蜂起の準備を進める兄ウィレムのため、2人の弟たちは傭兵を率い、別働隊としてフロニンゲンに侵攻する。この後スペインとの戦いが80年も続くこと、そして彼らの進軍がその第一歩とされることなど、この時点で誰一人として予想だにし得なかった。

我が生命と財産の一切を犠牲にすることも厭わなかった/我が高貴な弟たちも同様ではなかったか/アドルフ伯は戦いの中フリースラントの地に斃れた/その魂は永遠のうちに審判の日を待っている

シント=アルデホンデ卿マルニクス/ オランダ国歌『ウィルヘルムス』第4番

経緯

ヘイリヘルレーとイェムグムの位置関係です。

「オランイェ公の第一次侵攻」は、アルバ公の「血の法廷」を逃れて故郷のディレンブルクで反撃の機会を窺っていたオランイェ公ウィレム一世が、1年の準備期間を経ていよいよ武力行使に踏み切った試みです。この1568年の第一次侵攻は、さらに3つのルートを採る3つの作戦に分けられます。

  1. 中央部 リエージュ侵攻:ヴィレ卿ヨースト・デ・スーテによるルールモント攻囲の試み
  2. 北部 フロニンゲン侵攻:ナッサウ伯ルートヴィヒおよびアドルフによるフロニンゲン攻囲の試み
  3. 南部 ブラバント侵攻:オランイェ公ウィレム一世本人によるマーストリヒト攻囲の試み

ヘイリヘルレーの戦いは、これらの作戦の第二弾、ウィレムの弟たちによるフロニンゲンへの侵攻途中、最初に遭遇したアレンベルフ伯率いるスペイン軍と対戦した野戦です。この第一次侵攻の中で唯一の勝利であり、そのためもあってか、この戦いが行われた5月23日を八十年戦争の起点とするのが一般的です。(他の説もあります)。

残念ながら近年SNSのbot等で、「1568年5月23日はオランダがスペインに独立を宣言した日」などという誤った情報が大量に拡散されています。あくまでこの日は、単に後世の便宜上の理由で「八十年戦争の始まった日」として採用されたに過ぎないものです。そもそも、歴史上「オランダがスペインに独立を宣言」したことはありません。

ナッサウ伯ルートヴィヒとアドルフは4000名ほどの傭兵を調達し、フロニンゲンを目指しました。フロニンゲン州は最北東部の州で、州都フロニンゲンは北海およびエムス川河口からの補給の利便性に長けていて、反乱の基地とするのに最適と考えられました。

ヘイリヘルレーの戦い

Slag bij Heiligerlee - Battle of Heiligerlee - 1568 (Frans Hogenberg)

Frans Hogenberg (1580-1590s) 「ヘイリヘルレーの戦い (1568)」 In Wikimedia Commons

ルートヴィヒの軍がエムス川を渡った、という報を受けたアルバ公は、フロニンゲン州総督のアレンベルフ伯と副州総督デ・メスヘにその掃討を命じました。2人はルートヴィヒ軍を挟み撃ちすることにし、それぞれ別々のルートを採って進軍しました。

一方ルートヴィヒはまずアレンベルフ伯の留守中に、その拠点のひとつウェデルボルフを占領し、足場とします。そしてそこからフロニンゲンの街に進軍し、共にアルバ公に対して反抗しようと呼びかける交渉による開城を試みて、市民たちをも勢力に加えようとしました。しかしフロニンゲンの街ではデ・メスヘの強攻策によって、既にプロテスタント勢力が一掃されていたため、ルートヴィヒの提案はあっさり却下されました。反乱軍は野営することになりますが、期待していた街からの資金も援助も得られず、軍はすぐに食糧不足と賃金の遅延に悩まされます。

そんな中、フロニンゲンに入ったアレンベルフ伯は、デ・メスヘ軍にだいぶ先んじて進軍してきたことを知り、援軍の到着を待って行動を起こすことにしました。それを知ったルートヴィヒは逆に、敵の数が少ないうちに野戦で決着をつけることにしました。これは暴動の起こりかねない環境下で、兵のモチベーションを上げ欲求不満を解消するためのアクションでもありました。

ルートヴィヒはヘイリヘルレーの修道院の近くに軍を進めます。ここは3つの丘からなる地形で、そのうち1つの丘に修道院があります。丘と丘の間の谷地は細い道が伸び、周りが泥地になっている足場の悪い地形でした。その付近にルートヴィヒは歩兵を潜ませ、アレンベルフ伯の軍を待ち伏せます。そしてアレンベルフ伯の軍が現れると、ルートヴィヒは挑発するような言葉を浴びせながら、騎兵の一団で突撃を仕掛けます。援軍を待つつもりだったアレンベルフ伯はこの挑発にまんまと乗ってしまいました。

Slag bij Heiligerlee, 1568 Pugna ad Hiligerlaeum, Albano Gubernatore. 1568 (titel op object), RP-P-OB-78.880

Johann Wilhelm Baur (1632) 「ヘイリヘルレーの戦い (1568)」 In Wikimedia Commons 少し後の版画ですが、アレンベルフ伯(D)とアドルフ(F)はそれぞれ別の位置にいます。

谷あいでの待ち伏せに、スペインの精鋭は傭兵主体の反乱軍に惨敗を帰してしまいました。司令官のアレンベルフ伯を含む2000名前後(全軍の半数)が戦死、対する反乱軍の死者はわずか50名でした。が、そこにはルートヴィヒの弟アドルフも含まれていました。アレンベルフ伯とアドルフはよく「相討ち」と表現されますが、一騎討ちなどをしたわけではなく、それぞれ別々に戦死したようです。

アレンベルフ伯の金羊毛騎士団章は戦利品として持ち帰られましたが、この2人が戦いのどの場面で命を落としたか、そして遺体がどうなったかも詳しくわかっていません。(アドルフは反乱軍の兵によってエムデンへ運ばれたという説もあります)。

このときのアドルフの戦死は、後の「反乱」のプロパガンダ材料として使われるようになります。「オランダの国歌」も参照ください。

イェムグムの戦い

Slag bij Jemmingen - Schlacht von Jemgum - 21 Juli 1568 (Frans Hogenberg)

Frans Hogenberg (1580-1590s) 「イェムグムの戦い (1568)」 In Wikimedia Commons 右下で逃げているのがルートヴィヒ

ヘイリヘルレーからアレンベルフ軍のたくさんの戦利品を持ち帰り、ルートヴィヒは再度フロニンゲン近くにキャンプを張って、兄ウィレムの本体の合流を待つことにしました。戦利品は兵たちにも給与代わりに分配されましたが、それも1ヶ月そこそこで早くも尽きはじめてしまいました。

さらにドイツで準備を進めるウィレムの側でも、ルートヴィヒの勝利が何の利益にもならなかったことに意気消沈していました。大勝利と言って良い勝利だったにも関わらず、資金も兵も思うように集まらず、むしろこのままルートヴィヒの軍をフロニンゲンに留めるのは危険ではないかという危惧さえ抱くようになっていました。

Slag bij Jemmingen, 1568 Pugna ad Gemingam, Albano Gubernatore. 1568 (titel op object), RP-P-OB-78.881

Johann Wilhelm Baur (1630-1632) 「イェムグムの戦い (1568)」 In Wikimedia Commons

アレンベルフ伯の戦死を受け、アルバ公はルートヴィヒ討伐のため、自ら4つのテルシオを率いてフロニンゲンに迫りました。さすがにルートヴィヒは正面からの対決を避け、エムス川支流近くのイェムグムで待ち受けることにしました。ヘイリヘルレーと同じような戦術を採ろうとしたわけです。しかしアルバ公は数でも勝るうえに斥候を多用して慎重に進軍し、相手の状況を把握したのち全軍での正面突破を図りました。3時間ほどの激突の末ルートヴィヒの軍はあえなく崩壊し、エムス川へ退却をはじめました。

このときの戦死者と溺死者は合わせて7000名。半数どころか2/3以上の損害です。一方のアルバ公側の死者は100名。勝敗の結果はヘイリヘルレーとちょうど逆転した、というよりも、ヘイリヘルレーのスペイン側の死者の3倍以上の損害を出した反乱軍側の大敗でした。ヘイリヘルレーの勝利で得たものは何もなく、失敗と敗退だけが残りました。ルートヴィヒ自身も、鎧も衣服もすべて脱ぎ捨てて川に飛び込み、命からがら身一つで逃亡するのが精一杯でした。

余波

Alba-Standbild in Antwerpen (Stich)

Philipp Galle (1571) アントウェルペンのアルバ公の彫像 In Wikimedia Commons

イェムグムの戦いでルートヴィヒ軍からすべての大砲(もともとアレンベルフ伯のものですが)を没収したアルバ公は、アントウェルペンに戻ると、それらを鋳熔かして自らの像を作るよう命じました(上掲の版画)。アルバ公が「鉄公」と呼ばれるのは、このことも理由のひとつだそうです。

野戦での一時的な勝利があったものの、「オランイェ公の第一次侵攻」は、第一弾に続いて第二弾も失敗に終わりました。しかもウィレム個人にとっては、自分の戦いに巻き込んでしまった弟たちのうち一人を、その開始段階で早くも亡くしてしまうという不幸の伴うものでもありました。

なお、このヘイリヘルレーの戦いとイェムグムの戦いの間にあたる6月5日、アルバ公はブリュッセルでエグモント伯とホールネ伯の処刑を断行しました。これはヘイリヘルレーの戦いに対する復讐と、ウィレムに対する警告の意味を含んでいました。この後、晩秋にウィレム本人による侵攻第三弾が試みられますが、その警告を実行に移すべく、アルバ公はルートヴィヒを蹴散らした後、ウィレムの侵攻へも自ら対処するために南部に軍を進めることになります。

リファレンス

  • 佐藤弘幸『図説 オランダの歴史』、河出書房新社、2012年
  • 桜田三津夫『物語 オランダの歴史』、中公新書、2017年
  • 森田安一編『スイス・ベネルクス史(世界各国史)』、山川出版社、1998年
  • ウェッジウッド, C.V. (瀬原義生 訳)『オラニエ公ウィレム―オランダ独立の父』文理閣、2008年
  • Motley, “Rise”