ハールレム攻囲戦(1572-1573) Beleg van Haarlem

Kenau-Ripperda monument on Stationsplein Haarlem 04

ハールレム駅前の「ケナウ&リッペルダ記念碑」 (2013) In Wikimedia Commons

ハールレム攻囲戦 Haarlem 1572/12-1573/7/13
対戦国 flag_nl.gif オランダ flag_es.gif スペイン
勝 敗 ×
参加者 リッペルダ男爵ウィフボルト(ハールレム市長)
ケナウ・ハッセラール
アルバ公ファドリケ・アルバレス・デ・トレド
ブッス伯マキシミリアン・ド・エナン=リエタール

ズトフェンとナールデンの虐殺は、ハールレム市民に「抵抗も死、恭順も死」という教訓を与えた。ならば応戦するのみとの市長リッペルダの呼びかけに、街の女性たちも立ち上がる。「ここまでに頑迷な輩を未だかつて知らない」――アルバが辟易するほどの凄惨な攻防戦は、7ヶ月も続いた。

この樽に詰めたスペイン人捕虜の10の首を、アルバへの十分の一税代わりに持っていけ。11個めは利子だ。

ハールレム市民/ Motley, “Rise”

経緯

Jacobus Buys and Reinier Vinkeles for Jacobus Kok Vaderlands Historie - Wijbout Ripperda doet een Vaderlandsche aansprak op de Burgers RP-P-OB-79.228

J. Buys and R. Vinkeles (1795) 「徹底抗戦を説くリッペルダ」 In Wikimedia Commons

1572年4月のデン=ブリール占領にはじまる反乱軍の一連の占領騒動に対し、ブリュッセルの執政府は即座に反攻をはじめました。アルバ公は息子のドン・ファドリケに、懲罰のための遠征をおこなうよう命じます。メヘレン、ズトフェン、ナールデンで略奪と虐殺の限りを尽くしながら北上し、ドン・ファドリケはハールレムの城門前に迫りました。

このときハールレムの市参事のうち穏健派は、当時スペイン派だったアムステルダムに向かい、スペインへの恭順の条件について交渉することにしました。彼らの留守の間市長のリッペルダは、投降後になお略奪の憂き目に遭ったナールデンの例を挙げ、徹底抗戦とオランイェ公支持を呼びかけます。市民の賛同を得て市民兵たちをも味方につけたリッペルダは、市参事会員をオランイェ公支持者たちにすげ替え、アムステルダムから戻ってきた一党を内通者として逮捕してしまいました。ハールレムでは街の材木商の妻でもあるケナウ・ハッセラールが女性たちの軍を組織し、籠城戦の準備が着々と進められました。

戦闘

Het beleg van Haarlem in 1572 (Pieter Jansz. Saenredam, 1628)

Saenredam (1628) 「ハールレム攻囲戦 (1572)」 In Wikimedia Commons

ハールレムの街は中世さながらの城壁に囲まれていました。当初、スペイン軍は無為に突撃を繰り返しましたが、城壁から銃の弾や煮えた油が次々降ってくるため、犠牲者を出すばかりで何の進展もありません。次に、塹壕を掘って地雷によって門を破壊しようとしましたが、やはり街の側からも塹壕が掘られてスペイン軍のトンネルを爆破によって埋め戻すため、地下での戦いも長期化の様相を呈してきました。その間も大砲による砲撃が続けられていましたが、市民たちは壁の内側に新たな壁の建設を繰り返し、こちらも埒があきません。 ドン・ファドリケは、すぐに落ちると高をくくって12月に速攻のつもりで攻囲をはじめたわけですが、通常ならば冬営に入るべき真冬が到来しても、彼らの頑強な抵抗のまま攻囲は継続されることになってしまいました。

ドン・ファドリケは一度、あまりに市民の抵抗と自軍の消耗が激しいとして、父アルバ公に攻囲を解くべきかどうか伺いを立てました。その回答は当然のごとく否で、アルバ公は息子がダメなら妻(ドン・ファドリケの母)を司令官として現地に差し向けると叱り飛ばしたそうです。

ハーレマーメールの戦い Slag op het Haarlemmermeer

Vroom Hendrick Cornelisz Battle of Haarlemmermeer

Vroom (circa 1621) 「ハーレマーメールの戦い (1573/5/26)」 In Wikimedia Commons

幸い当時のハールレムの街の側にはハーレマーメールという湖(現在は大部分埋め立てられ、スキポール空港があります)があり、籠城中も水運によって物資の調達が可能な環境でした。とくに湖が凍っている冬期は街にとって有利で、スペイン兵が初めて見る橇やスケートでの補給が行われました。

しかし氷の解けた4月上旬、ドン・ファドリケの命でアムステルダムの船団が、ハールレム市内への物資補給路となっているハーレマーメールを封鎖しました。5月も中旬を過ぎると、街には既にパンはなく、犬猫や馬が食べられていました。「海乞食」のリーダーのひとりマルティン・ブラントは、この封鎖を湖から破ろうとして100隻以上もの船団を組織しました。それに対するのはブッス伯マキシミリアン・ド・エナン=リエタールの63隻です。ブッス伯はドン・ファドリケの麾下というわけではなく、当時ホラント・ゼーラント・ユトレヒトの州総督だったため、反乱軍たちから州を防御する立場にありました。しかし海乞食の船は装備もお粗末だった上に、風も始終スペイン軍有利に吹いており、5月26日の戦いはスペイン軍の勝利に終わります。

ここでスペイン側が制海権を握ったことが決定的な要素となりました。この翌日、湖が再封鎖されて補給の望みの絶たれたハールレム市民たちが、自棄になってスペイン人捕虜の大量処刑を執り行ったほどです。 スペイン側でも慢性的な資金不足に加え、補給物資も不足しつつあり、この後は無理な攻撃をおこなわず街が飢餓によって自ら降参するのを待つ戦法に切り替えられました。オランイェ公ウィレムによる陸からの援軍も何度か組織されましたが、7月8日の襲撃が事前に発覚し失敗に終わると、7月13日、街は降伏の旗を掲げ7ヶ月の攻囲戦も終わることになります。

余波

Beleg van Haarlem - Executies door de Spanjaarden

Hogenberg (1573–1590) ハールレム開城後の処刑 In Wikimedia Commons

開城後のハールレムでは、市長のリッペルダを筆頭に、市の要職にある者40名が裁判ののち処刑されました。守備に就いていた兵士たちもドイツ人傭兵(後に金でスペイン側に雇うためと思われます)を除く全員が殺害されましたが、弾薬不足のため、まとめて溺死させられました。

ところが、ドン・ファドリケは多額の賠償金と引き換えに、執政府と図らず独断で、市民たちの生命と財産については不問としました。これは後に父のアルバ公が激怒したように、スペイン軍にとっては見せしめとしては寛容すぎる、悪しき前例となってしまいました。そのうえ、冬期に長期間攻囲させられたのに開城後の略奪を禁じられたとして、スペイン兵たちの不満もたまることになります。

ハールレムは陥落しましたが、7ヶ月も持ちこたえスペイン軍に数千を越す損害を与えたことは、次に続く都市たちに「小さな都市でも無敵のスペイン軍に対抗は可能である」という希望を与えました。とくにアルクマールとレイデンでは、攻囲戦中にハールレムの勇敢さが常に引き合いに出されました。

ハールレム自身は1577年、スペイン国王よりもオランイェ公に従う旨記した文書に署名します。良質な水が豊富なハールレムはその後、ビール醸造やリネン・絹の漂白業を主要産業とし、さらに信教にかかわらず芸術や歴史に携わることを奨励したため、南北ネーデルランドから多くの移民が移住し、経済と文化の一大都市として栄えることになります。

冒頭に挙げた写真は、市長リッペルダとケナウの像。2013年に設置されたばかりのものとのことです。

リファレンス

2014年3月、オランダでケナウ・ハッセラールが主人公の映画が公開されました。

  • 映画 Kenau
  • ウェッジウッド, C.V. (瀬原義生 訳)『オラニエ公ウィレム―オランダ独立の父』文理閣、2008年
  • Motley, “Rise”
  • G.A.Henty, By Pike and Dyke, 1890