八十年戦争(1568-1648)は、十六世紀にスペインの属領となっていたネーデルランド全十七州が、スペイン国王フェリペ二世に対して「反乱」を起こしたのが始まりです。十七州のうち北部の七州が「オランダ連邦共和国」として、最終的にその主権と独立を国際的に承認されるまでの、約八十年間におこなわれた断続的な戦争を総称して「八十年戦争」と呼びます。
戦闘ひとつひとつの数は、名前らしい名前のついているものでも200あまり、それに付随する小競り合いレベルを含めると数百にも及び、休戦期を除く80年の間ほぼ毎年、複数回の戦闘がおこなわれていた計算になります。
陸戦は別に項を設けました → 「八十年戦争期の戦闘(陸戦)」
管理人が海戦を苦手としているので、個別記事は用意しないと思います。ここで主要な海戦の一覧と、概要を記載するに留めます。
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- ハーレマーメールの海戦 Haarlemmermeer 1573/5/26
- ゾイデル海の海戦 Zuiderzee 1573/10/11
- レイメルスワールの海戦 Reimerswaal 1574/1/29
- グラヴリーヌの海戦 Spanish Armada (Gravelines) 1588/8/8
- ドーバー海峡の海戦 1602/10/3-4
- スライスの海戦 Sluis 1603/5/26
- ジブラルタルの海戦 Gibraltar 1607/4/25
- マタンサス湾の海戦 Baai van Matanzas 1628/9/7-8
- スラークの海戦 Slaak 1631/9/12
- ダウンズ沖の海戦 Duins 1639/10/31
オスプレイ社からは陸戦シリーズの後に海戦も発売されました。
八十年戦争期の海戦
16世紀から17世紀のオランダ海軍の有名な戦いは、八十年戦争よりはその後の英蘭戦争期のものがほとんどです。八十年戦争中は、反乱初期の「海乞食」たちのゲリラ戦と、1630年代以降の末期のものが大半となります。
ここに挙げた絵画のうち、十二年休戦前(~1609年)までに戦われた海戦画が描かれた年代は、リアルタイムではなくだいたい皆1620年代初頭です。これらは、オランイェ公マウリッツにまとめて納められたものといわれています。ちょうど十二年休戦条約が失効したタイミングに、休戦前のオランダ軍の戦勝画を量産して、世論を鼓舞する意図もあったのかと思われます。1630年代以降はほぼ開戦直後から数年後くらいまでの間に描かれています。
ハーレマーメールの海戦 Haarlemmermeer 1573/5/26
ハールレム攻囲戦(1573)内の記事参照。
ゾイデル海の海戦 Zuiderzee 1573/10/11
同年4月のフリシンゲンの海戦に続き、数と装備に劣る「海乞食」の艦隊がスペイン艦隊に快勝した戦い。提督のコルネリス・ディルクスゾーンは元はモニケンダムの市長。この戦いで片腕を失くしています。
スペイン側の提督ブッス伯マキシミリアン・ド・エナン=リエタールは、命の保証と引き換えに捕虜となります。3年後シント=アルデホンデと捕虜交換で解放されますが、解放後もオランダ側に留まり、オランダ陸軍の将軍として戦いました。
レイメルスワールの海戦 Slag bij Reimerswaal 1574/1/29
その他、ベルヘン=オプ=ゾームの戦い、スヘルデの戦い、ワルヘレンの戦い、等、複数の名前で呼ばれています。この時までにワルヘレン島に位置する街はすべてオランイェ公に帰属していましたが、ミデルブルフだけがスペイン側に留まっていました。スペインのモンドラゴン将軍の籠城するミデルブルフをロメロ将軍が海から支援しようとしたところ、「海乞食」のボワソ提督率いるオランダ・イングランド連合艦隊と海戦になったものです。この戦いでスペイン艦隊は壊滅し、優秀な提督が複数戦死しました。ミデルブルフの街も物資不足のため降伏し、ワルヘレン島が反乱側の手に帰しました。
執政レケセンスは陸からこの戦いの趨勢を見守っており、3年前に自身も参戦したレパントの海戦よりも凄惨だったと評しています。また、ロメロ将軍もレケセンスに対し、「私は船乗りではなく陸専門だと申し上げたはずです」と、その人事に文句を言ったとのこと。ロメロのこのぼやきをきちんときいていれば、14年後の「アルマダ」の人選も違ったものになっていたかもしれません。
グラヴリーヌの海戦 Spanish Armada (Gravelines) 1588/8/8
いわゆる「アルマダの海戦」。当時無敵を誇っていたスペイン艦隊(アルマダ)をイングランドが降した海戦です。一般に当時のスペイン艦隊は「無敵艦隊」として知られますが、個人的には(といっても感情論ではなく歴史用語の用い方として)「無敵 Invincible」を付すのはあまり好ましく思えないので、書評ページや作品タイトル以外ではあまり使わないようにしています。
イングランド側の総司令官はノッティンガム公チャールズ・ハワード。有名な海賊あがりの司令官フランシス・ドレイクも参加しています。スペイン側の総司令官はメディナ・シドニア公。名提督サンタ=クルズ侯の死を受けて、海戦経験のない彼が急遽投入されたことも、スペイン側の失敗の一因とされています。
なお、フランドルでは、パルマ公ファルネーゼがスペイン艦隊との合流を期待されていましたが、ナッサウ伯ユスティヌス等オランダ軍の封鎖により失敗に終わっています。また「アルマダの海戦」全体の帰趨を決したのは、8月8日の「グラヴリーヌの海戦」なので、ここでもその表記としました。ちなみにユスティヌスはけっこう後まで「提督」と呼ばれていますが、実際海で戦っているのはこの時くらいじゃないかと思われます。
ドーバー海峡の海戦 Narrow Seas 1602/10/3-4
イングランド・オランダ合同艦隊が、フェデリコ・スピノラ提督を破った戦い。フェデリコは、アンブロジオ・スピノラ将軍の実弟で、兄が陸軍、弟が海軍を率いてスペイン軍と傭兵契約を結んだばかりでした。イングランドのマンセル卿ロバートは、スペイン艦隊の襲来を知ると罠を張って待ち構える作戦に出、見事スピノラ提督の艦隊を半壊させることに成功し、この戦いののちに副提督およびイングランド海軍出納長の地位を手にしています。
オランダの提督ヤン・ファン・カントの旗艦は『ハルフェ・マーン(半月)』。オランダ西インド会社に同名の船がありますが、おそらく別物かと思います。また、ピート・ヘインはこの頃スペイン軍に捕まってガレー船の漕ぎ手にされていましたが、スピノラ提督のこの艦隊に乗っていて、戦いの後に逃げ出したという説もあります。
スライスの海戦 Sluis 1603/5/26
オランダ提督ヨースト・デ=モールが旗艦『黒ガレー』で、フェデリコ・スピノラ提督を破った戦い。この戦いで戦死したフェデリコは、先年のドーバー海峡で敗れて後、短期間で再度軍備を増強してきました。ピート・ヘインがリベンジのためにデ=モール提督の船に乗っていたという説もあります(しかしヘインはこの年には再度スペイン軍の捕虜になっているので、真偽はわかりません)。両軍がガレー船を用いた海戦は、八十年戦争の中でもこの戦いのみとのことです。
この時のガレー船の漕ぎ手は、近郊のスライスの街に留め置かれました。翌1604年、今度はオランダ陸軍がスライスを攻囲します(スライス攻囲戦)。
ジブラルタルの海戦 Gibraltar 1607/4/25
北方から東インドまで、文字どおり世界をまたにかけた冒険家、ヘームスケルク提督による奇襲。オランダ東インド会社の旗艦『アイオロス』(小型の商船とはいえ充分に武装しています)で、ジブラルタル沖のスペイン艦隊を次々爆破し、ほぼ壊滅状態にまで陥れました。上記の絵画でも、爆風で兵士が巻きあげられる様が描かれています。ただ、ヘームスケルク自身はこのときの傷がもとで戦死してしまいます。『アイオロス』はその後ヨリス・ファン・スピルベルヘンに引き継がれ、南アメリカから東インドまで活躍しました。
ここまでが休戦前の海戦です。
マタンサス湾の海戦 Baai van Matanzas 1628/9/7-8
西インド会社の提督となったピート・ヘインが、ウィッテ・デ・ウィット等とともに、キューバ沖でスペインの銀艦隊を拿捕した戦い。ピート・ヘインの旗艦は『アムステルダム』。八十年戦争の中でも、後にも先にもないというほどの戦利品を得ました。銀17万ポンドをはじめとして、金、砂糖、インディゴやコチニールなどの染料、絹、真珠、ムスク、麝香、琥珀、その他宝石類など、合計1100万ギルダーという、当時の共和国半年分の戦費に匹敵する額です。この戦利品があったため、翌1629年には、大掛かりなスヘルトヘンボス攻囲戦が行われることにもなりました。
スラークの海戦 Slaak 1631/9/12
スヘルデ川によりホラントとゼーラントの分断を目論んだ、南ネーデルランド執政イザベラが命じた戦い。ウィレム沈黙公の名にちなんだウィレムスタットが標的になったうえに、ナッサウ=ジーゲン伯ヤン八世がスペイン側の司令官として参戦したため、オランダ側にとってもメンツに関わる戦いとなりました。「海戦」というより「河戦(?)」です。海洋用の大型船舶ではなくヨットのような小型船が用いられています。
高速船のオランダ軍はスヘルデ川でスペイン軍を追撃し、霧にまぎれて奇襲。スペイン軍はパニックになり、ヤン八世をはじめとした将校は逃げ、兵士は川に飛び込んだり、対岸に上陸して4000人以上が捕虜となりました。
ダウンズ沖の海戦 Duins 1639/10/31
マールテン・トロンプ提督が一躍有名になった戦い。このときのトロンプ提督の旗艦は『エミリア』。三十年戦争へのフランスの参戦によって、「スペイン街道」と呼ばれる陸路が使えなくなったスペイン軍は、枢機卿王子フェルナンド率いるフランドル軍への補給を、海路に頼らざるを得なくなったという背景がありました。この海戦には、援軍としてヨハン・エベルトセンも参加しています。エベルトセンの旗艦は、ゼーランド海軍らしいネーミングの『フリシンゲン』。
リファレンス
- クリステル・ヨルゲンセン他『戦闘技術の歴史<3>近世編』、創元社、2010年
- ジェフリ・パーカー 『長篠合戦の世界史―ヨーロッパ軍事革命の衝撃 1500-1800年』、同文館出版、1995年
- 『戦略戦術兵器事典<3>ヨーロッパ近代編』、 学習研究社、1995年
- マイケル・ハワード『ヨーロッパ史における戦争』、中公文庫、2010年
- ヴェルナー・ゾンバルト『戦争と資本主義』、講談社学術文庫、2010年