戦闘による時代区分
八十年戦争(1568-1648)は、十六世紀にスペインの属領となっていたネーデルランド全十七州が、スペイン国王フェリペ二世に対して「反乱」を起こしたのが始まりです。十七州のうち北部の七州が「オランダ連邦共和国」として、最終的にその主権と独立を国際的に承認されるまでの、約八十年間におこなわれた断続的な戦争を総称して「八十年戦争」と呼びます。
戦闘ひとつひとつの数は、名前らしい名前のついているものでも200あまり、それに付随する小競り合いレベルを含めると数百にも及び、休戦期を除く80年の間ほぼ毎年、複数回の戦闘がおこなわれていた計算になります。このウェブサイト内では有名なものを挙げていく予定ですが、それでも100近くになります(現在アップしている記事はまだ予定の半数程度です)。
海戦は別に項を設けました → 「八十年戦争期の戦闘(海戦)」
サイト内では、大分類として、3人のオランイェ公に合わせて時期を3つに分けました。オランダ語版ウィキペディア等では9つに区分分けされていますが、日本ではもともと馴染みがないだけに、独自の基準ですが、その上に大分類を設けることにしました。
- ウィレム一世期 1568-1588
- マウリッツ期 1588-1621
- フレデリク=ヘンドリク期 1621-1648
「独自の基準」というのは、このサイト内に限って、カテゴリ分類の利便性のために用いているものです。日本はもちろん、本国オランダでもこのような分類表現は一切使っていませんので、他所で安易に使用しないほうが無難です。また、この表現を使用する場合、『金獅子亭』と表記またはこのページのURL等、引用元の明記をお願いします。
「Dutch Armies of the 80 Years’ War」でも、ほぼ同じレンジで時代を3区分をしていました。呼び名はこれも同書に独自のものです。
- Civil War(内戦) 1568-1587
- War for Independence(独立のための戦い) 1588-1620
- Coalition War(同盟戦争) 1621-1648
ここではWikipediaの9区分を参考に、80年分まとめてナビゲーション的に簡単に分類しておきます。
- ウィレム一世期
- 反乱前夜1566-1568
- オランイェ公の第一次侵攻 1568/4-10
- 沈黙の時 1568-1572
- ホラント・ゼーラントの「反乱」1572-1576
- 「乞食」の反乱 1572-74
- オランイェ公の第二次侵攻 1572-78
- ドン・ファドリケの遠征 1572-73
- 全十七州「反乱」時代 1576-1579
- パルマ公の「九年」 1578-1588
- 反乱前夜1566-1568
- マウリッツ期
- マウリッツの「十年」1588-1598
- マウリッツの1591年遠征 1591
- ルクセンブルク遠征 1593
- マウリッツの1597年遠征 1597
- 「十一年」の戦い1599-1609
- スピノラの遠征 1605-1606
- 「十二年休戦」1609-1621
- マウリッツの「十年」1588-1598
- フレデリク=ヘンドリク期
- 最後の戦い1621-1648
- マース側沿いの遠征 1632
- 最後の戦い1621-1648
時代区分それぞれの特色
3人のオランイェ公の時代は、それぞれけっこう明確な(と個人的には思う)特徴があります。独自の視点ではありますが、簡単にまとめてみました。
3つの時代区分にぴったりのまんががありましたので、『歴史系倉庫』管理人の亀さんから許可をいただいてお借りしてきました!
ウィレム期
共和国設立「前」の反乱期に相当。キーワードは「不可抗力」。
圧倒的な権力と暴力に対抗する「反乱」のため、オランダ側は決死の覚悟で、圧制や粛清を行う側に対する憎悪も強いです。相手の力が強大なため、好き好んで戦いをしているわけではなく、あくまで反抗や抵抗の域に留まっているものです。正面からぶち当たる野戦ではほとんど勝てないので、必然的に「乞食党」による陸海両方からのゲリラ戦や籠城などの「防衛」が主体になります。勝利の概念もどちらかというと「撃退」に近いものです。なおウィレムは軍事指導者というより政治指導者であり、とくに自ら戦場に出ることのなくなった後半以降は、反乱軍全体に対して強力な軍事的リーダーシップを執る人物が不在になってしまったともいえます。
マウリッツ期
共和国設立「後」から休戦期間までに相当。キーワードは「ゲーム」。
引き続き防衛もありますが、攻勢に転じる「奪還」が中心になってきます。ナッサウ伯たちの軍制改革はもちろん、連邦議会が自ら主権体として機能し始めて、資金面でも軍隊の運用の面でもかなりシステマチックになってきます。攻囲戦争の見学や教練書の公刊によって、敢えて新しい戦争のルールを周囲にもシェアし、力以上に頭脳戦にシフトしていったのは、まさに実際の戦場でチェスを展開しているかのようです。とくにスペインの側にもアルプレヒト大公やスピノラ侯などの実力の拮抗するライバルが現れて以降、ゲーム色が顕著になるような気がします。互いの軍の将校や貴族も、それぞれ尊敬を持って接しあっています。
フレデリク=ヘンドリク期
休戦明けからミュンスター条約までに相当。キーワードは「レジャー」。
不謹慎な単語ですが、この時期はオランダのみならず、英・仏・西など、他国でも国内の派閥同士での対立が激しく、むしろ他国との戦争が捌け口や息抜きにも思えるほどです。三十年戦争という、より国際的なゲームの舞台の一部でもあります。「次はどんな手で楽しませてくれるだろう」なんて言っている司令官まで居ます。奪還も相変わらずですが、防衛のみに特化した戦いは既にほとんどなく、オランダ側からの「侵略」の要素も若干加わってきます。この頃には将校だけではなく一般兵士同士の間でも、敵味方の憎しみはあまり見られず、戦争の余暇(日曜などだと思われますが)には互いのキャンプを行き来して一緒に飲み食いしたり、戦争当事者とは思えないほどの交流がある場合まであります。
日本語表記について
ところで、これだけの数の戦闘があるということは、同じ街が何度も戦闘の舞台になることも頻繁にあります。が、八十年戦争期の戦闘では、「第一次」「第二次」などの序数をつけることは稀で、たとえば「フロール攻囲戦(1627)」のように、戦闘名のうしろにその年号をカッコ書きする方法で記載します。「同年に同じ街で間を開けて複数回の戦闘(攻囲)があった場合」以外には、序数表記は蘭語・英語ともにあまりポピュラーではないようです。
Wikipedia英語版でされている序数表記は、Wikipedia英語版内にリストアップされているもののみを数えてあり、リストに無い戦闘でカウントされていないものもいくつもあります。あくまでWikipedia記事内におけるインデックス用途として便宜的に付されたもの、と解釈したほうがよさそうです。
また、日本語では戦闘行為の種類に関わらず、「~の戦い」と表記されることも少なくありませんが、野戦(海戦)・攻囲戦・占領は厳密に区別されています。(逆に野戦と海戦は一緒の括りです)。ここでは訳語は下記のとおりあてています。蘭/英=日の順で記載します。
- oorlog/war = 戦争。「八十年戦争」のように総称を指すもの。
- beleg/siege = 攻囲戦。八十年戦争期の戦闘はこれが大半です。
- slag/battle= 戦い(野戦)または海戦。野戦・海戦いずれもslagと表記されており、あまり下記のように限定的に書かれることはないようです。日本語で「~の野戦」と書かれることはあまりないので、「~の戦い」としています。
- veldslag/fieldbattle = 野戦
- zeeslag/seabattle = 海戦
- inname/capture = 占領または奪還。戦闘行為を伴わないか、または奇襲による若干の戦闘行為があった場合。
- veldtocht/campaign =遠征。英語だと「軍事作戦」の意味が強いですが、意味内容からも、オランダ語辞書の記述に合わせています。
リファレンス
- クリステル・ヨルゲンセン他『戦闘技術の歴史<3>近世編』、創元社、2010年
- ジェフリ・パーカー 『長篠合戦の世界史―ヨーロッパ軍事革命の衝撃 1500-1800年』、同文館出版、1995年
- 『戦略戦術兵器事典<3>ヨーロッパ近代編』、 学習研究社、1995年
- マイケル・ハワード『ヨーロッパ史における戦争』、中公文庫、2010年
- ヴェルナー・ゾンバルト『戦争と資本主義』、講談社学術文庫、2010年