八十年戦争期の貴族の肖像画を見ていると、とくに正装時は何かしらのペンダントをしているのに気がつきます。このようなものは、大抵が自らの所属する騎士団のペンダントです。
ガーター騎士団は1348年にイングランドで設立。1430年には、これに倣って金羊毛騎士団がブルゴーニュで設立されています。
ちょうど16-17世紀は宗教改革期にあたり、金羊毛騎士はカトリック、ガーター騎士はプロテスタントの象徴みたいになっているのが面白いです。スペイン国王や神聖ローマ皇帝など、ハプスブルク家の人々は両方持っていたりすることもあります。もともと金羊毛騎士は「異端を排す」という理念をもつため、宗教改革期はカトリックの人間に限られていました。また、高位の貴族に限っては、複数の騎士団に所属している場合もあります。肖像画を見るときはまず胸元を見ると良いでしょう。
下記に、八十年戦争期のオランダに関係の深い騎士団のメンバーをピックアップしてみました。さらに詳しい団員は、ウィキペディア各国語版リストのリンクを参照してみてください。
もともとは金羊毛騎士とガーター騎士に限った記事でしたが、このウェブサイト内では他の騎士団に所属している人物も扱っているため、他の騎士団もどんどん追記しました。いまはとりあえずこんな感じです。
- 金羊毛騎士団
- ガーター騎士団
- ヨハネ騎士団(マルタ騎士団)/ブランデンブルク・バレイ
- ドイツ騎士団(チュートン騎士団)/ユトレヒト・バレイ
- エレファント騎士団
- サン・ミッシェル騎士団/サン・エスプリ騎士団
- カラトラバ騎士団/サンティアゴ騎士団
※ このページの各勲章に使用している画像は、ウィキメディア・コモンズ内のクリエイティブ・コモンズ3.0ライセンスに基づくものです。それぞれのライセンスの種類はマウスオンで確認できます。
金羊毛騎士団
金羊毛騎士団員リスト(英語) In Wikipedia: the free encyclopedia
- 1531年 オランジュ公ルネ・ド・シャロン
- 1531年 スペイン国王フェリペ二世
- 1546年 エフモント伯ラモラール
- 1546年 アルバ公フェルナンド=アルバレス・デ・トレド
- 1555年 ホールネ伯フィリップ・ド・モンモランシー
- 1555年 オランイェ公ウィレム一世
- 1566年 アウストリア公ドン・ファン
- 1583年 スペイン国王フェリペ三世
- 1585年 パルマ公アレサンドロ・ファルネーゼ
- 1585年 サヴォイア公カルロ一世エマヌエーレ
- 1585年 オーストリア大公ルドルフ(後の神聖ローマ皇帝)
- 1585年 オーストリア大公エルンスト
- 1586年 アレンベルフ侯シャルル・ド・リーニュ
- 1586年 ベルレーモン伯フローラン
- 1596年 オーストリア大公マティアス(後の神聖ローマ皇帝)
- 1596年 オーストリア大公フェルディナント二世(後の神聖ローマ皇帝)
- 1596年 オーストリア大公アルプレヒト
- 1599年 オランイェ公フィリップス=ウィレム
- 1599年 アールスホト公シャルル三世ド・クロイ
- 1599年 ダヴレ侯シャルル=フィリップ・ド・クロイ
- 1601年 ファン・デン=ベルフ伯へルマン
- 1605年 セスト侯アンブロジオ・スピノラ(セスト公・ロス=バルバセス侯)
- 1613年 スペイン国王フェリペ四世
- 1613年 ファン・デン=ベルフ伯フレデリク
- 1615年 プファルツ=ノイブルク公ヴォルフガング=ヴィルヘルム
- 1617年 アレンベルフ侯フィリップ=シャルル・ド・リーニュ
- 1617年 ダヴレ侯シャルル=アレクサンドル・ド・クロイ
- 1624年 ナッサウ=ジーゲン伯ヤン八世
- 1624年 オーストリア大公フェルディナント三世(後の神聖ローマ皇帝)
- 1647年 ナッサウ=ハダマール伯ヨハン=ルートヴィヒ
当初メイン記事だったこともあり、最もリストが長くなりました。当サイトで扱っているカトリック貴族はだいたいカウントされています。スペイン国王や皇帝は即位前です。
ウィレム一世は、カール五世の宮廷に仕えたその年に受けています。当時まだ未成年ですが、これは、「金羊毛騎士でないと皇帝陛下にお仕えできない」といった意味合いでしょうか。のちにカルヴァン派に改宗し、フェリペ二世により正式な暗殺奨励令が出たほどのウィレムですが、それでも騎士団章は生涯剥奪されていません。
また、ウィレムの長男のフィリップス=ウィレムは、14歳でスペインに連れ去られて以降ずっとカトリック教徒でした。叙勲された1599年には、正式に「オランイェ公」の地位も回復されており、ブリュッセルの南ネーデルランド総督のもとスペイン側の使節として働いています。
スピノラ将軍は傭兵隊長としてスペイン軍に志願し、オーステンデ攻囲戦の功ですぐに叙勲されています。のち、サンティアゴ騎士にも所属します。
なお、ナッサウ家の中でも、カトリックに改宗し皇帝に仕えた人物たちは金羊毛騎士になっています。ナッサウ=ジーゲン伯ヤン八世(ヤン七世の次男)は皇帝軍の元帥となり、ナッサウ=ハダマール伯ヨハン=ルートヴィヒ(ヤン六世の末子)は皇帝の外交官となりました。
スペイン国王フェリペ二世(左)とフェリペ三世(右)。金羊毛騎士の正装は、赤いビロードのローブに羊をかたどった騎士団章のペンダントです。チェーンでない場合は赤いリボンを用います。
ガーター騎士団
ガーター騎士団員リスト(英語) In Wikipedia: the free encyclopedia (最近肖像付になりました)
- 1554年 スペイン国王フェリペ二世
- 1559年 レスター伯ロバート・ダドリー
- 1575年 フランス国王アンリ三世
- 1579年 プファルツ=ジンメルン公ヨハン=カジミール
- 1588年 第二代エセックス伯ロバート・デヴァルー
- 1590年 フランス国王アンリ四世
- 1590年 スコットランド国王ジェームズ六世(イングランド国王ジェームズ一世)
- 1603年 デンマーク国王クリスチャン四世
- 1612年 プファルツ選帝侯フリードリヒ五世
- 1612年 ナッサウ伯マウリッツ
- 1616年 ライル子爵(レスター伯)ロバート・シドニー
- 1624年 ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯クリスティアン
- 1627年 スウェーデン国王グスタヴ二世アドルフ
- 1627年 オランイェ公フレデリク=ヘンドリク
- 1633年 プファルツ選帝侯カール=ルートヴィヒ
- 1642年 ライン宮中伯ループレヒト(カンバーランド公ルパート)
- 1645年 オランイェ公ウィレム二世
- 1649年 ライン宮中伯モーリッツ
- 1649年 ライン宮中伯エドワルト
- 1653年 オランイェ公ウィレム三世
- 1654年 ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ=ヴィルヘルム一世
ガーター勲章は基本的にはイングランド人向けで、外国人の場合、王侯貴族の中でもかなり高位の人間しか叙勲されなかったようです。ここには外国人メインで挙げましたが、約100年でこの人数を多いとするか少ないとするか。
カトリック且つ金羊毛騎士の騎士団長でもあるフェリペ二世がガーター騎士なのは、イングランド女王メアリの夫だからです。剥奪はされていませんが、本人は政治的必要性がある場合(イングランド王位の主張などの際)以外はまず自ら名乗らなかったと思われます。
アンリ四世は国王戴冠前(カトリックに改宗する前)に叙せられています。改宗後もとくに剥奪等はされていません。アンリ四世も即位後はフランス国内の複数の騎士団長を兼ねるため、敢えてガーター騎士を名乗ることはほとんどなかったはずです。
フリードリヒ五世は、成人前のかなり若い時点、イングランド王女との婚約に際して叙勲されているので、青いリボンのペンダントをしている肖像画が多いです。イングランド内戦で活躍したプロテスタントの息子たちも、軒並みガーター騎士です。
マウリッツは英国王ジェームズ一世の強い働きかけにより、甥のフリードリヒ五世と同時叙勲しました。が、本人はロンドンに赴かず、年若の従弟ヨハン=ルートヴィヒ(上記、後の金羊毛騎士)を代理として派遣しており、後日ハーグで英国大使により叙勲式が行われました(冒頭の版画)。父ウィレムと兄フィリップス=ウィレムは金羊毛騎士だったため、オランイェ=ナッサウ家の人間としては初のガーター騎士となりますが、ナッサウ伯時代(オランイェ公継承前)に叙勲されたというのは、外国人としてはかなり異例のことではないでしょうか。
イングランド女王エリザベス一世。ガーター騎士団は設立当初から女性の団員も居ます。騎馬の聖ゲオルギウスのモチーフがわかりやすい絵を選びました。この絵に限らずエリザベス女王の絵画は、青というよりは、黒や濃緑っぽく見えるリボンをしているものが多いです。
ヨハネ騎士団(マルタ騎士団)/ブランデンブルク・バレイ
ヨハネ騎士団ブランデンブルク・バレイ長リスト(独語) In Wikipedia: die freie Enzyklopädie
- 1652-79年 ナッサウ=ジーゲン伯ヨハン=マウリッツ
「バレイ」とは、とくに日本語化されていないのですが、「支部」のようなものです。1525年、第37代ドイツ騎士団総長・プロイセン公アルプレヒトは、ルター派に改宗してブランデンブルクからドイツ騎士団(チュートン騎士団)を追放しました。一方1538年、ブランデンブルク選帝侯ヨアヒム二世(アルプレヒトの甥)は、ルター派を取り入れることを条件に、ヨハネ騎士団のブランデンブルク・バレイの存続を認めました。ちょっとややこしい経緯です。
ブランデンブルク・バレイでは、ブランデンブルク辺境伯がHerrenmeister(支部長のようなもの)を務めることが多かったのですが、一時期ヨハン=マウリッツがその地位に就いています。
ペンダントはヨハネ騎士団伝統の「マルタクロス」。水色のリボンはエレファント騎士のものです(腰に象のモチーフが見えるような見えないような)。ローブにも紋章がついていますが、これもエレファント騎士のものかと思われます。
ドイツ騎士団(チュートン騎士団)/ユトレヒト・バレイ
ドイツ騎士団ユトレヒト・バレイ団員リスト(蘭語) In Wikipedia: De vrije encyclopedie
- 1620-40年 ナッサウ=ディーツ伯ヘンドリク一世カシミール
- 1641-64年 ナッサウ=ディーツ伯ウィレム=フレデリク
- 1693-96年 ナッサウ=ディーツ伯ヘンドリク二世カシミール
こちらはドイツ騎士団のプロテスタント支部にあたるものです。上述のとおり、総長アルプレヒトのルター派改宗により、ドイツ騎士団カトリック本部は神聖ローマ帝国預かりのうえ、バート=メルゲントハイムに移り縮小します。そのほか18のバレイが各地で独自に存続しました。ユトレヒト・バレイは、州によるカトリック禁令を受け、16世紀末にプロテスタント化したバレイのひとつです。Landcommandeur(やはり支部長のようなもの)は1620年以降終身制となりました。
ナッサウ=ディーツ伯ヘンドリク一世カシミール。ユトレヒト・バレイ長としては初代です。チュートン・クロスをかけています。8歳の頃にいきなり指名されたので、成人するまでは父親のエルンスト=カシミールの預かりとなっていました。
エレファント騎士団
エレファント騎士団員リスト(デンマーク語) I Wikipedia: den frie encyklopædi
- 1649年 ナッサウ=ジーゲン伯ヨハン=マウリッツ
- 1649年 ナッサウ=ジーゲン伯ハインリヒ
- 1649年 ブレーデローデ卿ヨハン=ヴォルフェルト
- 1671年 ナッサウ=ジーゲン伯ゲオルク=フリッツ=ルートヴィヒ
デンマークの騎士団。エレファントはそのまま「象」のことです。ペンダント・チェーン部分いずれも象のモチーフでちょっとかわいい。白いエナメル製の象には象使いも乗っています。「象騎士団」と日本語にすると、なんとなくカッコ悪い気もしますが…。
クリスチャン四世が、カルマル戦争の勝利記念とプロテスタントの象徴として、1616年に一度「武装騎士団」(…訳し方が難しい…)を設立し、12名の騎士を叙勲しました。しかし翌々年以降は続かなかったため、早くも1634年にはエレファント騎士団と統合されることになります。この経緯からも、17世紀以降はエレファント騎士もプロテスタントの人物に限られたと思われます。
チェーンの代わりにリボンを用いる場合は水色。斜め掛けをして、象が右の腰に来るようにします。1462年のクリスチャン一世による設立が最初ですが、このスタイルが確立したのは1693年、クリスチャン五世の時代になってからです。
英蘭戦争時代のオランダの提督、ワセナール=オプダム提督。側面に5つの宝石がはめこまれているのがはっきりわかるほど、象の大きさが目立ちます。リボンは水色というよりかなり白っぽく見えます。
サン・ミッシェル騎士団/サン・エスプリ騎士団
フランスの騎士団。聖ミカエル騎士団・聖霊騎士団と訳したほうがいいのかもしれません。それぞれフランス国王が発起人で、1469年にルイ十一世が、1578年にアンリ三世が設立しました。
サン・ミッシェル騎士団(聖ミカエル騎士団)
サン・ミッシェル騎士団員リスト(仏語) En Wikipédia: le d’encyclopédie libre
- レスター伯ロバート・ダドリー
- ガスパール二世ド・コリニー提督
- フランソワ・ファン・アールセン
- ピーテル=コルネリスゾーン・ホーフト
- コンスタンテイン・ホイヘンス
- マールテン・トロンプ提督
- ミヒール・デ・ロイテル提督
- フランソワ・カロン(平戸オランダ商館長)
ブルゴーニュの金羊毛騎士団に対抗して設立されました。こちらは宗教改革以降、信教は問わないため、上記にはカトリック以外の人物をピックアップしました。楕円形のペンダントには聖ミカエルのレリーフ、チェーン部には巡礼地サンチアゴ・デ・コンポステラのシンボルでもあるホタテがあしらわれています。比較的海の男が多いのは、この騎士団のモットー「大海への畏れ」とも関係あるのでしょうか。めずらしいところでは、長崎のオランダ商館長にして、「日本に初めて来たフランス人」とされるカロンも居ます。
トロンプ提督(左)はリボン「コルドン・ノワール(=黒リボン)」のタイプ、ロイテル提督(右)はチェーンのタイプです。拡大して見るとシェルのかたちもわかります。
サン・エスプリ騎士団(聖霊騎士団)
サン・エスプリ騎士団員リスト(仏語) En Wikipédia: le d’encyclopédie libre
- アンリ三世以降のフランス国王、王子、王族
- フランス以外の王家
- 枢機卿クラスの聖職者
- フランス元帥
ユグノー戦争の勃発したフランスでは、王権へのさらなる忠誠が求められていました。サン・ミッシェル騎士の人数が36名と限られていたため、その人数を増やそうと設立された騎士団です。人数は35-100名とされ、サン・エスプリ騎士になると自動的にサン・ミッシェル騎士も兼任することとされました。設立の経緯からもカトリックが絶対条件であり、騎士枠と別に聖職者枠もあります。ペンダントはヨハネ騎士団のマルタ十字をベースに鳩をオンしたもの。チェーン部・ペンダント部ともにフランス王権を象徴する百合紋が添えられています。リボンは「コルドン・ブルー(=青リボン)」、空色のリボンです。
とにかく延べ人数はべらぼうに多く、カトリックのフランス貴族はほとんど騎士団員ではと思うくらいです。リシュリュー枢機卿が叙勲されたのが1633年と比較的遅いのが意外でした。
フランス国王アンリ四世。「正当な」フランス国王となるためカトリックに改宗したアンリ四世ですが、サン・エスプリのペンダントをかけていながら、まるでユグノーのような全身黒づくめの服装が印象的です。リボンもかなり黒寄りです。
石川県立歴史博物館で、フランス王太子から加賀藩に贈られたという古地図を見てきました(2011年5月)。
フランス王太子(ドーファン)をあらわす百合紋とイルカの四分割紋章に、サン・ミッシェル、サン・エスプリ両騎士団章が描かれています。
カラトラバ騎士団/サンティアゴ騎士団
いずれもスペインの騎士団。レコンキスタ時代に設立され、神聖ローマ皇帝カール五世の時代に、スペインの三大騎士団(アルカンタラ/カラトラバ/サンティアゴ)がスペイン国王のもとに統合されました。管理は騎士団局がおこない、それぞれの騎士団のタイトルと役割は別々のままです。
カラトラバ騎士団
Categoría:Orden de Calatrava(西語) En Wikipedia la enciclopedia libre
- アルバ公ドン・ファドリケ・デ・トレド
- アラゴン提督フランシスコ・デ・メンドーサ
- フエンテス伯ペドロ=エンリケス・デ・アセベド
- ブッコワ伯シャルル=アルベール・ド・ロンギュヴァル
- オリバーレス公伯爵ガスパール・デ・グスマン
カラトラバ騎士は、1628年から貴族に限られたようです。商人や商人の息子への叙勲は禁じられました。
ベラスケスの描いたオリバーレス公伯爵。ダブレットの右胸と、マント左肩の2ヶ所にカラトラバ十字が見えます。どちらも黒に近い刺繍なので、拡大しないとわかりにくいかもしれません。
サンティアゴ騎士団
Categoría:Caballeros de la Orden de Santiago(西語) En Wikipedia la enciclopedia libre
スペインの王族や「大貴族」、貴族たちのほとんどが叙勲されている、こちらもサン・エスプリ騎士団並に人数の多い騎士団です。17世紀のスペイン宮廷人にとっては憧れの称号ですが、こちらも血筋が重要視されました。16世紀後半から17世紀にかけては、フランシスコ・ピサロをはじめとして新世界(ペルー、メキシコなど中南米)で活躍した貴族がメンバーにたくさんいます。文化人にも団員がいます(といっても当然血統の審査はされます)。チェーンには月桂冠または月桂樹を模したチェーンが使われます。
- 歴代スペイン国王
- ルイス・デ・レケセンス
- ユリアン・ロメロ
- 初代ビジャメディアナ伯フアン・デ・タシス
- ロス=バルバセス侯アンブロジオ・スピノラ
- エスピナル侯カルロス・コロマ
- フランシスコ・デ・ケベード(詩人)
- ディエゴ・ベラスケス(画家)
17世紀のスペインの詩人フランシスコ・デ・ケベード。数々のスペイン貴族との交流で知られますが、上記のオリバーレス公伯爵とはあまり仲が良くなかった模様。中央または左胸に赤の聖ヤコブ十字、というのがサンティアゴの正装のようです。ベラスケスの『ラス・メニーナス』内の自画像も、サンティアゴ十字で有名です。
リファレンス
記事中に挙げた参考URL以外については以下のとおり。
- 佐藤弘幸『図説 オランダの歴史』、河出書房新社、2012年
- 桜田三津夫『物語 オランダの歴史』、中公新書、2017年
- 森田安一編『スイス・ベネルクス史(世界各国史)』、山川出版社、1998年
- 栗原福也「十六・十七世紀の西ヨーロッパ諸国 二 ネーデルラント連邦共和国」『岩波講座 世界歴史(旧版)<15>近代2』、岩波書店、1969年
- ウィルソン『オランダ共和国(世界大学選書)』、平凡社、1971年
- ヨハン・ホイジンガ『レンブラントの世紀―17世紀ネーデルラント文化の概観(歴史学叢書)』、創文社、1968年