サヴォイア公カルロ一世エマヌエーレ Carlo Emanuele I di Savoia

Jan Kraeck - Ritratto Di Carlo Emanuele I Di Savoia (1562-1630)

Jan Kraeck (1590s) In Wikimedia Commons

  • サヴォイア公、ピエモンテ公、サルッツォ侯 ほか Duca di Savoia, Principe di Piemonte, Marchese di Saluzzo
  • 生年: 1562/1/12 リーヴォリ(伊)
  • 没年/埋葬地: 1630/7/26 サヴィリアーノ/ヴィコフォルテ教会堂(伊)

生涯

スペインとフランスに挟まれた立地条件にありながら、領土の拡大を目論んだため、両方の国との外交や戦争に明け暮れたサヴォイア公。1585年、スペイン国王フェリペ二世の王女カタリナ=ミカエラ(イザベラ=クララの全妹)と結婚しています。次いでユグノー戦争でアンリ三世下のフランスが弱体化していた1588年、サルッツォ侯領を占領してサルッツォ侯を名乗ります。が、翌年即位したフランスの新王アンリ四世も領有を主張したため、紛争は継続。フランス国内がほぼ平定し、フランス・スペイン間にヴェルヴァン条約(1598)が成立した後、フランスとサヴォイアは直接戦火を交えることになります。1601年にはリヨン条約が結ばれ、アルプスを境に、フランスとサヴォイアは領地をそれぞれ交換するようなかたちで決着しました。

その後はフランスと結び、対スペイン同盟のブルゾーロ条約を結びます。その直後にアンリ四世が暗殺されますが、カルロ一世エマヌエーレは新王ルイ十三世の助力を得て、1617年までイタリアのスペイン勢力との戦いを続けました。

翌1618年、三十年戦争がはじまると、プファルツ選帝侯フリードリヒ五世をいち早く支援し、傭兵マンスフェルト伯エルンストを送ります。折りしも息子ヴィットリオ一世アメデーオとアンリ四世の王女クリスティーヌ=マリーとの婚姻も成り、カルロ一世エマヌエーレはボヘミア王、ひいては神聖ローマ帝国皇帝の座に野望を持つようになりました。が、フリードリヒ五世がボヘミア王を受諾した途端、さっさと援助の手を引いてしまったばかりか、自国領をスペイン軍が通過するのに許可まで与えてしまっています。

1626年、カルロ一世エマヌエーレはフランス軍と組んでジェノヴァを包囲するものの、スペイン軍に敗退。モンソン条約によって、フランス・スペイン両国がスペイン街道の通過権を得ることになってしまいます。その後1628年からのマントヴァ継承戦争にも介入しました(このときもフランス・スペイン両陣営に与したり、中立になったり忙しいです)。この戦争中に突然熱病で死亡。後を継いだ息子のヴィットリオ一世アメデーオがケラスコ条約を結びました。

このように野心家であり、常に戦争を考えていたため、宗教に関わらず有名な傭兵とも契約しています。前述のマンスフェルトもそうですが、カトリックに改宗した直後のナッサウ=ジーゲン伯ヤン八世が最初に志願したのもサヴォイア軍です。

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