オランダ共和国軍出身のスウェーデン軍元帥たち

オランダの軍制改革がスウェーデンの軍制改革に影響を与えた、とは広く言われることですが、三十年戦争期のスウェーデン軍元帥にはオランダ軍出身者が何人も居ます。国王のグスタフ二世アドルフから直接の影響を受ける前の世代の人物を集めたので、ここに挙げたのは全員16世紀生まれの人物です。

リーヴン伯アレクサンダー・レスリー Alexander Leslie

Alexleslie

Nordisk familjebok (1911) In Wikimedia Commons

  • 初代リーヴン伯 1st Earl of Leven、メルヴィル卿 Lord Melville of Monymaill (1616)、 バルゴニー卿 Lord Balgonie (1641)、スウェーデン軍元帥 Field Marshal of Sweden (1636)
  • 生年: 1582頃 ?
  • 没年: 1661/4/4 バルゴニー(スコットランド)

生涯

ロセス伯ジョージ・レスリーの庶子。1605-1608年、オランダ軍でそのキャリアをスタートさせました。1608年にはスウェーデン軍に移り、その後30年以上に渡ってスウェーデンに仕えます。その初期にはオランダ式の軍制を伝えたと思われますが、実際にその活躍が聞かれるのはスウェーデンの三十年戦争参戦以降のことです。1627年に連隊長、翌1628年にシュトラールズント知事に任命されます。皇帝軍元帥のヴァレンシュタインと互角に渡りあい、スウェーデン軍のドイツ上陸の足掛かりをつくりました。国王グスタフ二世アドルフの信望も厚く、同世代の宰相オクセンシェルナとも友人でした。

グスタフの死後1636年になってようやくスウェーデン軍元帥となります。が、その頃の総司令官ヨハン・バネールとの折り合いが悪く、スウェーデン軍からの退役を考え始めました。オクセンシェルナの説得で一時は思いとどまったものの、故郷のスコットランドに帰国するための準備を密かに始めていました。

1638年にスコットランドに戻ったレスリーは、1641年に国王チャールズ一世によって初代リーヴン伯の称号を得ます。

ところがイングランド内戦勃発後、最終的には議会派として国王と対立することになりました。ここではイングランド内戦については詳しく書きませんが、議会軍の優勢を決した「マーストン・ムーアの戦い」では、最古参の将軍として、クロムウェルやフェアファクスを補佐しています。

リファレンス

ヘンティは小説。

  • ウェッジウッド, C.V. (瀬原義生 訳)『ドイツ三十年戦争』刀水書房、2003年
  • G.A. Henty The Lion of the North, 1886
  • DNB00

ヤコブ・デ・ラ=ガルディ Jacob De la Gardie

Jacob De la Gardie 1606

Unknown (1606) In Wikimedia Commons

  • スウェーデン軍元帥 Field Marshal of Sweden (1615)、スウェーデン軍事総監 Marsk (Lord High Constable of Sweden)
  • 生年: 1583/6/20 タリン(エストニア)
  • 没年: 1652/8/22 ストックホルム(スウェーデン)

生涯

父はフランス出身の傭兵隊長ポントゥ・ド・ラ=ガルディ。スウェーデン軍で活躍し、当時の国王ヨハン三世に非常に気に入られ、その庶出の娘を結婚相手にとあてがわれるほどでした。そのため、ヤコブは国王の孫ということになります。スウェーデンでは「ド」ではなく「デ」・ラ=ガルディと呼ばれたようです。

デ・ラ=ガルディは1606-1608年の間、オランダ軍で数々の軍事理論や技術を身に付けます。オランダ軍の総司令官ナッサウ伯マウリッツに近い位置に居て、おそらく本人からも直接教えを受けたはずです。スウェーデンに戻ったデ・ラ=ガルディはこの時の経験から、スウェーデンにオランダの軍制改革を伝えた第一人者とされます。同時に、当時王子だったグスタフ二世アドルフの教育係にもなり、オランダ式の軍事教練術を教授しました。1607年に出版された『武器教練』を初めてスウェーデンに持ち込んだのもデ・ラ=ガルディとされています。のち、一時期ドイツのジーゲン士官学校で教鞭もとっていました。

1609年にはさっそくロシアとの戦争で、スウェーデン軍の改革の成果をみせました(「デ・ラ=ガルディの遠征」)。ただ、実際に軍を率いたのは対ロシア、対ポーランド戦争などグスタフの治世の前半の戦争のみで、三十年戦争のスウェーデンのドイツ上陸の頃には既に政治家として活躍しています。とくにグスタフ二世の死後は、その娘クリスティーナの摂政のひとりとして国内に留まっていたようです。

宰相のオクセンシェルナとはほぼ同世代で、グスタフ二世の王子時代からの教育者という立場も同じくしており、互いにライバル視する間柄でした。しかしグスタフ二世の死後、フランスの三十年戦争参戦(1635年)を見届けた後にオクセンシェルナが帰国すると、その関係は徐々に修復に向かい、協同していくようになります。

妻はグスタフ二世の愛人エヴァ・ブラーエ。いわゆる「お下げ渡し」です。エヴァはグスタフの死まで愛人関係を続けていたといいますが、デ・ラ=ガルディとの間にも14人もの子供が生まれています。ロマン主義時代には、子供たちのうち何人かがグスタフの子であるという設定で小説が書かれたりもしたそうですが、実際はグスタフの子である可能性は「皆無」とのことです。

リファレンス

  • ウェッジウッド, C.V. (瀬原義生 訳)『ドイツ三十年戦争』刀水書房、2003年

クニプハウゼン男爵ドド Dodo von Knyphausen

DodoKnyphausenMerian1644

Matthäus Merian (1644) In Wikimedia Commons

  • インハウゼンおよびクニプハウゼン男爵 Freiherr zu Innhausen und Knyphausen、スウェーデン軍元帥 Field Marshal of Sweden (1633)
  • 生年: 1583/7/2 リューテッツブルク(独)
  • 没年/埋葬地: 1636/1/11 ハーゼリュンネ/エムデン(独)

生涯

オストフリースラントの下級貴族家出身。オランダ軍に志願し、ナッサウ伯マウリッツのもとわずか19歳で砲兵中隊長になっています。オランダ軍がいかに実力主義とはいえ、16世紀の時点では、生まれや年齢を考えるとかなり異例のことです。将来を嘱望されていたと推測されますが、1607年に大怪我を負い、いったん退役して故郷に戻りました。その後逆玉婚によって財産を得、傷も癒えると、ちょうどオランダが休戦中ということもあり、ドイツ各地を傭兵として転戦することになります。

が、スウェーデン軍に腰を落ち着けるまでは、常に敗北側に与してしまうという不運にも見舞われました。ボヘミア冬王フリードリヒ五世のもとでのプファルツ戦役、ブラウンシュヴァイク公クリスティアンのもとでのシュタットローンの戦い、マンスフェルト伯エルンストのもとでのデッサウ橋の戦い、さらにラ・ロシェルの戦い(籠城側)にまで参加しています。ここまで負け戦ばかり続くとちょっと可哀想になってしまいます。しかしこれらの経験からか、撤退時など逆境での指揮にも長けていたようです。

スウェーデン軍がドイツに上陸した際、たくさんのドイツ人傭兵団がそのもとに馳せ参じますが、クニプハウゼンもそのうちのひとりでした。スウェーデン軍に加わって後は、一転して戦功に恵まれます。とくにグスタフ二世が戦死したリュッツェンの戦いでは、軍隊の建て直しを図り戦いを辛勝に導きました。その功績で翌1633年に元帥に任じられています。

1636年、わずか1500名の兵を率いて別働隊との合流のための作戦に出ていたクニプハウゼンは、ハーゼリュンネで3000名の敵兵と遭遇します。この場で指揮を執っていたクニプハウゼンは、頭部に銃弾を受け即死しました。

リファレンス

  • ウェッジウッド, C.V. (瀬原義生 訳)『ドイツ三十年戦争』刀水書房、2003年
  • NDB
  • ADB

ビョルネボルグ伯グスタフ・ホルン Gustaf Carlsson Horn

GustafHorn

Unknown (17th century) In Wikimedia Commons

  • ビョルネボルグ伯、スウェーデン軍元帥 Field Marshal of Sweden (1628)、スウェーデン軍事総監 Marsk (Lord High Constable of Sweden)
  • 生年: 1592/10/22 エルビューフス(スウェーデン)
  • 没年: 1657/5/10 スカーラ(スウェーデン)

生涯

三十年戦争期のスウェーデンの将軍の中でも有名なひとり。やはり若年期にオランダで軍事科学を学んでいますが、おそらく年齢から考えてオランダでは休戦期にあたる時期でしょう。デ・ラ=ガルディの部下としてポーランド戦線に従軍しました。ドイツ上陸後に活躍したイメージが強いですが、元帥となったのはそれに先立つ1628年です。この年には宰相オクセンシェルナの娘(双子のうち1人)と結婚もしています。

グスタフの将軍の中で最も有能と称されることも多いですが、組む相手によってそれが全く発揮されないこともありました。国王のグスタフ本人や、のちにトルステンソン将軍などと組んだときは目覚しい戦果を挙げましたが、ネルトリンゲンの戦いの惨敗の原因は、ホルンとザクセン=ヴァイマール公の不仲に起因する連携の悪さといわれています。それでも、ネルトリンゲンの戦いの後に捕虜となったホルンが、捕虜交換で解放されるまでに8年も虜囚の身にあったことを考えると、皇帝軍側が「ホルンをスウェーデン軍に帰す」ことをどれほど恐れていたか想像がつきます。

なお、攻撃性の強いスウェーデン軍にあって、ホルンは防御に長けた将軍だったようです。また、その直属の部下たちのモラルは非常に高く、略奪や暴動が最も少ないことで知られていました。

リファレンス

  • ウェッジウッド, C.V. (瀬原義生 訳)『ドイツ三十年戦争』刀水書房、2003年

ラルス・カッグ Lars Kagg

Lars Kagg, 1623

Georg Günter Kraill (1623) In Wikimedia Commons

  • スウェーデン軍元帥 Field Marshal of Sweden (1648)、スウェーデン軍事総監 Marsk (Lord High Constable of Sweden)
  • 生年: 1595/5/1 スカラボリ(スウェーデン)
  • 没年: 1661/11/19 ストックホルム(スウェーデン)

生涯

国王グスタフ二世アドルフと同世代で個人的な友人でもありました。軍人、政治家。オランダ軍には1616-1618年に所属していましたが、ちょうど休戦期且つクーデターの時期にあたるので、実践というより理論を学んでいたのだと思われます。

1620年のボヘミア戦線を皮切りに約15年ほど満遍なく戦っていますが、スロースターターなのか、軍事行動と政治活動が半々だったのか、周りが有能過ぎたのか、元帥となったのはウェストファリア直前です。また、軍事総監の地位に就いたのも最晩年になってからです。

リファレンス

  • ウェッジウッド, C.V. (瀬原義生 訳)『ドイツ三十年戦争』刀水書房、2003年
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