対戦国 |
オランダ |
スペイン |
---|---|---|
勝 敗 | ○ | × |
参加者 | ナッサウ伯マウリッツ ナッサウ伯ウィレム=ローデウェイク ナッサウ伯ヤン七世 ナッサウ伯エルンスト=カシミール ナッサウ伯ローデウェイク=ヒュンテル ナッサウ伯ユスティヌス ヴィアー卿フランシス ヴィアー卿ホレス シドニー卿ロバート ブレーデローデ卿フロリス ウィレム・ファン・ドルプ シモン・ステフィン ヨハン・ファン・デン=コルンプット |
ローデウェイク・ファン・デン=ベルフ フランシスコ・ベルデューゴ |
「レンネンベルフの背信」から12年、フロニンゲン州の奪還が現実味を帯びてきた今、まずはその前哨戦として補給路の露払いが行われる。わずか一年前の春に、若き司令官を「頭でっかちの若造」と侮っていたスペインの老将軍たちは、その進撃に恐々とし始めていた。そして遂には、彼らをして「力に負けたのではない、スコップに敗北したのだ」とまで言わしめるようになる。
わずかな供廻りで突撃の成果を確認しに行った閣下は左の頬を銃で撃たれたが、まるでプラムの種でも取り出すかのように、自らの手で弾丸を抉り出し事無きを得た。
ナッサウ伯ヤン七世/ Prinsterer, “Archives”
経緯
共和国の当面の目的はフロニンゲン州の奪還です。フロニンゲン州は1580年当時の州総督レンネンベルフ伯の寝返り(「レンネンベルフの背信」)以降、未だスペインの支配下にある飛び地のままでした。
フロニンゲン遠征のための前段階として、進撃路にあたるオーフェルエイセル州のステーンウェイクとドレンテ州のクーフォルデンは、いずれも運搬困難な大砲の補給路として押さえておくべき要地でした。ステーンウェイクは、フロニンゲン譲渡のその年にいちど、反乱軍側の補給路の寸断を目論んだレンネンベルフ伯に攻囲(ステーンウェイク攻囲戦 (1580-1581))されるものの持ちこたえ、その翌1582年に新州総督ベルデューゴの奇襲で占領されていました。また、共和国軍が前年の1591年にいったん攻囲に取り掛かるものの、フランスで戦っていたパルマ公がオランダに転戦したため、急遽攻囲を解いてしまったという経緯もありました。
この1592年遠征には、ナッサウ伯ヤン七世も参加しています。「ナッサウ伯の軍制改革」の3人のナッサウ伯全員が軍幕に揃ったのはこの1592年だけと思われます。とはいってもヤン七世は、従弟の司令官マウリッツのテントに詰めているだけのブレーンとしての参加で、とくに指揮などはしていないようです。ステーンウェイクに居たメンバーとしてヤン七世が「3人の兄弟」を挙げており、長兄ウィレム=ローデウェイクのほか、五弟のエルンスト=カシミールと六弟ローデウェイク=ヒュンテルが参加しています。(四弟フィリップスはアンリ四世への助力のためフランスに行っていて不在です)。そしてスペイン側の将軍としては、昨年同様、ナッサウ伯たちの従兄弟ファン・デン=ベルフ兄弟が立ちはだかります。
逆にオランダ軍側では、反乱軍時代からのベテランたちはあまり参加していないようです。ホーエンローエ=ノイエンシュタイン伯フィリップスは南部、とくにヘールトライデンベルフへの展開を希望しており、東部戦線を「馬鹿げている」として反対したため、ステーンウェイク攻囲戦には加わっていません。ゾルムス伯の名も挙がっていません。
戦闘
前年に一度攻囲されかかったことから、ステーンウェイクは冬のうちに守備兵を増強して防御体制を整えていました。それでもスペイン軍の精鋭たちはフランス戦線に投入されていて、残された守備隊の人数は充分とはいえないものでした。ステーンウェイク守備隊の司令官は、ナッサウ伯たちの従兄弟ファン・デン=ベルフ兄弟の中でも、従軍年齢に達したばかりの18歳のローデウェイクが任命されていました。
5月末にステーンウェイクの前に展開したオランダ軍は、さっそく工事に取り掛かって、6月13日には砲撃のできる体制を整えました。それまでの2週間ほどの間の散発的な応酬で、英軍のヴィアー兄弟はそれぞれマスケット銃で足に大怪我を負い、守備隊長のファン・デン=ベルフ伯ローデウェイクは6月10日、頭を銃で撃たれて戦死していました。
6月13日からは街に向けて砲撃が開始されました。しかし街の防備は固く、なかなか突破口を開くほどの効果はありません。それで途中から、地下に坑道を掘り城門の下で爆発させる方法に戦略を変えることになりました。
この攻囲戦の途中、マウリッツは始終機嫌が悪く、チェスで負けては誰彼構わず当たり散らしていました。戦術ひとつとってもいちいち議会の議員たちが口を出し、少しの変更にもその許可を得なければならないことにいらついていたようです。
6月23日、東西2つの門に分かれて、一斉に地雷を爆破し突入を図ることになりました。ウィレム=ローデウェイク率いるフリース連隊ととヴィアー率いる英連隊は東から、西からはホラントの3つの連隊が突入します。ホラント連隊の司令官で「海乞食」時代からの古参の将軍、ファン・ドルプ連隊長はこの戦闘で戦死しました。フランシス・ヴィアーは再度負傷し、ウィレム=ローデウェイクやマウリッツまで怪我をするほど激しい戦闘でした。
この戦いの後、街はいったん和平の使者を送ってきました。が、マウリッツが条件をのまず、さらに10日ほど攻囲は続けられます。7月3日、マウリッツとウィレム=ローデウェイクは開城条件に難色を示したものの、議員たちが妥結を図り、ステーンウェイクは降伏することになりました。
余波
ところで、この遠征には2人の州総督がそれぞれ従えている2人の技術者が含まれていました。一方はマウリッツの連れてきた数学者シモン・ステフィン、他方はウィレム=ローデウェイクの連れてきた地図製作者・建築家ヨハン・ファン・デン=コルンプットです。とくにファン・デン=コルンプットは1580年の攻囲戦の際、オランダ側の将校として4ヶ月におよぶレンネンベルフ軍の攻囲を撃退し、その後も技術者としてステーンウェイクの防備を強化したという経緯があり、この街には浅からぬ因縁がありました。
今回の攻囲戦で、ファン・デン=コルンプットは「コルンプット攻城塔」とよばれる可動式の攻城塔を発明したとされています。「9階層で12フィートの高さがあり車輪と帆がついている」とのことですが、ここに挙げた図(右上の燃えているあたり)ではかなり雑に描いてありどんなものかイメージしづらいです。マスケット兵をたくさん乗せて、城壁の上と下両方の敵兵を狙い撃つのに使われたようです。開城ののち、それら見慣れない機器や堡塁に興味を持った市民や農民が見物にも来たとのことです。
スペイン側はステーンウェイクを失うことで、ゾイデル海へ出る港をも失いました。逆にオランダはゾイデル海の航行の安全が確保されたばかりではなく、フロニンゲンへの西ルートをも手にしました。そして翌月には、東ルートを押さえるため東進してクーフォルデンの攻囲を始めることになります。
リファレンス
ヘンティは小説。
- Motley, “United Natherlands”
- Markham, “Veres”
- Firth, “Tracts”
- Kikkert, “Maurits”
- Prinsterer, “Archives”
- G.A.Henty, By England’s Aid, 1891